邂逅のエンドロール - 6/7

 遊星は小箱を閉じた。
『返事が遅くなることが増えるかもしれない』と、そう記された手紙が届いて以来、実際に優介からの返答は少しずつ間が空くようになっていった。かつて毎日のように行きかっていた便りが、週に一度も届かないことが多くなる。思い出したようにやって来る便箋に浮かぶ彼の口数は、文字数という目に見える形で減少していった。
 勉強は順調なのかと遊星が問うと、優介は平気だと返した。
≪昨日まで知らなかった世界を手探りで開けてゆくのはとても楽しいよ。きっと、遊星くんにも覚えがある感覚だと思う。疲れは溜まっているかもしれないけれど、毎日が充実しているんだ。遊星くんの方こそ、もう大会が始まっているんだろう? 俺の心配は良いから、自分のことに集中してください。返事はすぐに出来ないかもしれないけど、結果を知らせてくれると嬉しいです。応援してるね。≫
 優介の言うことは正しかった。WRGP開幕以来、遊星自身も慌ただしく、手紙を書くような時間など殆どない。本当ならこちらから、『当分返事が遅くなる』と断りを入れなければならないほどだった。互いに干渉する余裕がないのだから、自然とやりとりは途絶えがちになる。遊星は便箋を使わず、かつて購入した小さなカードに、WRGP予選の結果を手短に書いて小箱へと入れた。

 不可思議な小箱は、何故か素直に蓋を開く機会が多かった。今までは気まぐれに遊星のメッセージを拒むこともあったくせに、多忙になるにつれ、まるでなにか言葉を寄こせと催促するように口を開ける。遊星は小箱に触れるごとに、そこに優介からの手紙がないことを残念に思った。なんでも良いから声をかけてくれと、そう彼から訴えかけられているようにも感じたけれど、一方的になにか送りつけることで集中力を削ぐようなことをしたくはない。その代わりというふうに、遊星は自身の気に入りのチョコレート菓子をひとつふたつと時折小箱へ放りこんだ。
≪ありがとう。≫
 と、返って来るたった一言を、目を細めて迎え入れながら、このメーカーの品ははたして彼の住む時代にも販売されているのだろうかと、そんなことを意味もなく考えた。

 時間は瞬く間にすぎ去ったが、小箱はずっと遊星の手元にあった。優介からの便りはもう随分と絶えていたが、遊星自身も、それを気にかけるような余裕のない日々を送っていた。けれど箱はたしかに遊星の元にあったし、変わらず優介への言葉を待ち侘びるようにポストとしての責務を果たしていた。過去へと繋がるほんの小さな扉。湖畔の夢はあの夜以来一度も見ていないが、箱の底に広がる湖のヴィジョンは遊星の脳裏に強く焼き付いたままだった。
≪優介≫
 名前を教えられたあの日から、ひどく時間が経った気がする。
 優介から再び手紙が届いたのは、遊星の物語のひとつが大きな終結を迎えた後。今一度の平和を、ネオ童実野シティが取り戻してしばらくしてのことだった。

* * *

 遊星は、今まで届いた優介からの手紙に改めて目を通していた。『誰だ』と、攻撃的に投げかけられた一言からはじまった、箱を介する不思議な文通。過去と未来の交錯する現象は、遊星と優介との距離を、しかしたしかに縮めたのであろう。本当なら、関わりあいようのなかった人物同士。優介は遊星の年齢を自分より少し年上と予測していたが、本当はそうではない。歴史という大きな尺度で見る限り、優介のほうがはるかに年上のはずなのだ。そう考えると少しおかしな気分にもなった。
 遊星は便箋を数枚用意していた。数日前に幕を下ろした、遊星と仲間たちに起きたひとつの帰結を、彼に伝えようと思ったのだ。公告的に街を、世界を救った遊星である。あれからさまざまな場所に担ぎ出され、まったく面識のない人々にも感謝を告げられ、戸惑わざるを得ないほどに大きく変わった環境のなか、ようやく取れたまとまった時間だった。
 はたしてどこから書き出せばよいものだろう。彼は元気にしているのだろうか。根を詰めすぎて、倒れたりはしていないだろうか。強引な集中力の向上が、後々ダイレクトに体調に影響することを知っている遊星は、そんなことを考えながらペンを手に取った。以前に購入した空色の便箋は尽きてしまったので、新しく、今度も似た色合いのものを買ってきていた。
 けれど遊星がその手紙を書きはじめるのとほとんど同時に、小箱に変化があった。実際には、いつの間にそこにあったのか遊星にはわからない。彼への言葉を数行書き出してから、なんとなく開いた箱の中には、まるでタイミングをはかったかのように優介からの手紙が届いていたのである。
 もちろん遊星は驚いた。自分がひと段落つくのを、小箱の方が待ちわびていたかのようだった。遊星はすぐにそれを取り出し、相変わらず丁寧にふたつ折りにされた便箋を開いた。どことなく懐かしいような気さえする優介の文字が、けれど、俄かに不穏な気配を湛えてそこには並んでいた。
≪遊星くんへ≫
 見慣れた書き出しに、遊星は一瞬だけ安堵した。薄い紙に刻まれているのは、いつもの彼らしい、穏やかな調子を崩さない文章だった。

≪こんにちは、久しぶりに手紙を書きます。元気にしているかな? デュエルの大会は、もう終わった頃でしょうか。なかなか返事を書けずにいてごめんね。順調に勝ち進んでいる報告が来るたびに、俺もとても嬉しく感じています。
 こっちは相変わらず、研究漬けの毎日を過ごしています。大変だけど、もうすぐ完成しそうなんだ。きっと上手くいくと思う。今日はそのことでお願いがあって、手紙を書くことにしました。

 遊星くん、きみは未来にいるんだよね。
 改めてこう書くとなんだか突拍子もないことみたいで、おかしな感じがするけれど、俺はそう考えています。俺の暮らす時代よりも、ずっと遠い未来。そこに俺のことを覚えている人は、きっと一人もいないんだろうな。
 そう考えると怖くて、今まであまりきみの居場所について深く認識しようとはしなかったんだけど、最近気づいたんだ。遊星くんの住む街と、俺の過ごしている場所は交わらない。別の時間なんだから、そもそも忘れられることはないんだ。出会わなければ、関わらなければ記憶に残ることはない。
 だからきみに頼みたいんだ。きみの住む、その時間に俺は行けない。けれど、俺の存在を知らない世界だからこそ託せるものがある。

 いつか写真を送ると、そう約束したよね。ごめん。俺自身の写真は、もう送ることが出来そうにない。
 代わりに、俺の一番大切なカードを送ります。子どもの頃からずっと俺のことを支えてくれていた、なにより大事で頼もしい相手です。
 けれど俺はもう、彼と一緒にはいられない。
 大切な人と別れるのはいつだってとても悲しくて、俺にはもう耐えられない。だからこそ、彼に同じ思いをさせたくないんだ。辛い気持ちなんて味わってほしくない。誰も、俺と離れることで苦しんだりしちゃいけない。
 だからどうか、彼をきみの世界に置いてやってほしい。俺の存在しないその時間で、どうか苦しまずすごしてほしい。

 突然変なことを頼んですまない。けれど、遊星くんしか頼れないんだ。
 もう、あまり時間が残っていない。全ては俺の我儘で、ただ自分の理想を叶えるためだけの行動だ。けれどその結果で、大切な人が泣くところを見たくはない。≫

 遊星はその手紙に目を通しながら、ゆるやかに困惑を広めていた。優介の筆記は次第に乱れ、終盤にはひどく感情的なものになっていった。彼は震えているのかもしれない。遊星は息をつめてそこに描かれた言葉を眺めた。ゆっくりと呼吸を繰り返しながらこの手紙を書く、優介の姿を思い浮かべようとしたけれど上手くいかなかった。湖畔に佇む彼の影さえ、今の遊星にはイメージ出来ない。

≪遊星くん、きみも俺にとっては大切な人です。話を聞いてくれてありがとう。色んなことを教えてくれて、本当にありがとう。きみが、きみの愛するその街で、あの写真のように優しい表情のままで過ごせることを、俺は心から願っています。≫

 最後の一行、そこで優介は再び≪遊星くん≫と名を呼んだ。まるでそこに救いを求めるように、遊星の名を呼んだ。名前しか知らないはずの、自分を記憶しない世界に暮らす相手に、けれど確かに訴えていた。
 だから遊星くん、と、優介はそう言ったのだ。

≪俺のこと、忘れて。≫

 遊星は、小箱を見やった。
 読み終えた手紙を折りたたみ、それから、閉ざされた蓋に手を伸ばした。冷たいはずの金の装飾が微かにぬくもりを帯びている。臙脂の檻の中には、カードが一枚閉じ込められている。
 はじめて遊星がこの箱に触れた日、彼はどこまでも頑なに、その開放を拒んでいた。嘆き苦しみながら、決してこちらの世界には介在すまいと虚勢を張るように閉じこもっていた。いまの遊星にならその気持ちがわかる。彼は優介から離れたくなかったのだ。こちらの時間軸に、引き寄せられたくはなかったのだ。
 押し黙ったまま、遊星はかすかに唇の隙間から吐息を漏らし、それから小箱を開いた。
 いままで何度も、優介と遊星の間を繋いだ小さな箱。そこには龍可の言ったとおり、天使のカードが収まっていた。
「――オネスト」
 覗きこみ、名を呼ぶと、カードの中の彼と目があったような気がした。遊星が手を伸ばすより先に、ふっと空間が変質を遂げる。不思議と冷静な気持ちで、遊星は彼の姿を仰ぎ見た。ソリッドヴィジョンを通さずカードが具現化するのを見るのは、はじめてのことではなかった。
 遊星の目の前に降り立ったオネストは、ひどく沈痛な眼差しでこちらを見つめていた。くしゃりと顔を歪め、いま自分の存在する場所そのものを忌避するかのように俯き、そうしてゆっくりと首を振る。
 なぜ、と、低やかにオネストは呟いた。「なぜ、箱を開けた」
「…………」
「お前はなんのためにマスターに近付いた。僕をこんなところに連れてくるためか? 僕とマスターを引き離すためだけに、マスターの関心を買ってこんな結末を手繰り寄せたのか? 答えろ」
 押し黙ったままの遊星を睨めつけ、オネストは憎しみさえ込めてそう言った。遊星は怯みはしなかった。怒りをあらわにし、今にもこちらに掴みかからんとするデュエルモンスターズの精霊を前に、しかし恐怖など覚えなかった。むしろ安堵していたのだ。優介の大事な天使は、オネストは、彼のことを忘れてなどいない。
 大丈夫だ。まだ苦しんでいる。自分のことで苦しまないでほしいと優介は語ったけれど、それでも尚オネストは彼のことを想っている。遊星とて同じだ。
≪俺のこと、忘れて≫
 なんて無茶苦茶を言うのだろう、と遊星は考えた。思い返せば、優介からの言葉は最初から一方的で、遊星のことなどひとつも考えていなかった。突然に名前を問いかけて、そのくせ自分からは名乗りもせず、遊星の向けた声を容易く無視してなかったように振る舞った。時計のことがあってから少し謙虚にもなったけれど、変わらず彼は虚勢を張っていたのだ。自身とは違う者、他人に対しての防壁を決して崩さなかった。
 それでも遊星に、一番大切なものを託すと彼は言ったのだ。
 驚くほどに身勝手だ。彼がオネストを手放さなければならない理由さえ、遊星にははっきりとはわからない。彼の苦しみのほんの一端も知らされてはいない遊星に、出来ることなどあるはずもない。きっとなにも、求められてさえいないのだろう。優介の訴えはただひとつ、『大切だから忘れてほしい』というものだった。
 けれどそれは叶えられない。
 遊星はかすかに微笑んだ。「これは結末なんかじゃない」と、呟くように言うと、オネストの眉がぴくりと動いた。
「終わってなんかいない。……優介はカードをこちらに送ることで、自分とお前との時間を断ち切ろうとしたんだ。自分の存在しない世界に置けば、きっとお前が苦しまずにすむと信じた。けれどオネスト、覚えているんだろう? 優介と過ごした日のこと、彼の姿も声も」
「……当然だ。マスターのことを、僕が忘れるわけがない」
 痛みに耐えるような断言に、遊星はひとつ頷いた。オネストの脳裏に宿るそれは、遊星の知らないものだった。遊星がこの場にいる限り、きっと記憶することのない景色。
 それはオネストがこの時代にまで持ってきたものだ。彼らの絆は途切れてなどいない。強固に繋がったまま、時間を超えて今も変わらず引きあっている。
「だったら、終わりなんかじゃないはずだ。絶対に」
「…………」
 オネストはじいと遊星を見つめていた。「マスターはここにはいない」と、自分自身に言い聞かせるようにそう呟いて、ひどく悲しげに俯いた。「マスターに再び必要とされる日まで、僕はいったいどうすればいい?」
「ここにいれば良いさ。デュエルモンスターズの精霊界に詳しい友人がいるから、彼女を紹介しよう。優介とは、必ずまたコンタクトを取る」
「……遊星」
「箱はここにあるんだ。俺たちは彼を忘れていないし、忘れる気だってない。だから必ず、また会える」
 ふたつの目を揺らしながら、オネストはこくりと頷いた。ゆらりと彼の身体が霞み、精霊はカードへと姿を戻してゆく。その光景を見守りながら、遊星は考えていた。必ず会える。優介には、あの天使が必要なはずだった。
 開きっぱなしの箱のなかに、オネストはちいさく収まっていた。遊星がそれに近付き手を伸ばそうとした途端、しかし、突然箱は閉じられた。
 いつからそこにいたのだろう。遊星はまったく気付かなかった。本当なら、気付かないわけはないはずなのに、けれど実際に思いもしなかったのだ。その気配はおろか、人影さえも、遊星の視界には入っていなかった。その人物は突然に現れ、優介と遊星を繋いだ小箱をあっけなく閉じた。臙脂の檻に、天使は再び閉じ込められたのだ。

「――悪いな遊星。こいつは返してもらうぜ」

 瞠目しながら顔を上げた遊星の視線の先。
 軽々と小箱を片手に抱え、遊城十代がそこに立っていた。

1