≪実験です。≫
そう書かれた紙が箱に入っていたのは、件の夜から三日も経った日の昼間のことだった。
一晩のうちに何度かのやりとりを終えた直後で、三日の間はずいぶんと長く感じられた。予想通りに返ってこない優介からの返答に、遊星は少々困惑し、こちらからなにか別の言葉を伝えるべきなのだろうかと何度となく箱に向き合ったが、しかし蓋は頑として開かないままだった。受け入れてもらえなければ送ることは出来ないのだと気付き、今さらながらに不便な機能であると考える。返事をひたすらに待つだけの三日は、遊星にとって思った以上のストレスになった。夜中に何度目が覚めたか知れない。
そうしてようやく戻って来た優介の言葉は、けれど遊星の考えていたものとは随分違った文面であった。
まるであの夜の問答などなにもなかったかのような態度で、優介は会話の内容をまったく別なものにしてきたのである。
≪これは届く?≫
続けて、紙にはそう書いてあった。遊星はその、相変わらずのちいさな付箋を手に取り、そしてもうひとつ、いっしょに入れられていた懐中時計を取りだした。
つまり、紙以外も送ることが出来るのかどうかの、これは実験のようだった。
まったく予期していなかった展開に遊星は目を白黒とさせ、優介ははたしてなにを思ってこんなものを急に送りつけてきたのか、もしかすると彼は別になにも考えていないのか、あるいは遊星を困惑させることが目的なのかと訝しく首を傾げた。自分と彼は忘却の話をしていたはずだ。優介の中で、あのやりとりはすでに完結しているのだろうか。遊星の送りつけた、間違いなく正しいはずの一言を受けて、彼はそれに得心したとでもいうのだろうか。
だったら良いと思う。
決して忘れられてなどいないのだと、彼がそれを信じてくれたのならば良いと思う。けれど、遊星にはなんとなく、そんなふうには思えなかった。優介の送りつけてきた時計は、箱と同じかそれ以上に古臭く、開けて見れば針はぴたりとも動かず静まっていた。ゼンマイを巻こうとして、故障していることに気付く。
遊星はふむと無言で考え、やはりなにも言わずに一度ふたを閉じると工具箱を開いた。壊れたものは直せば良いというのが遊星の考え方であり、生活方針であった。それが他人の所持品であろうとあまり関係はないし、むしろ、人の物だからこそ力を貸したいとも思うのだ。
幸い、この住処の大家は時計屋だ。多少古くとも部品には困らない。遊星は手際よく時計を弄り、解体し、パーツを取り変えネジを巻いた。自動巻き式の懐中時計は、小一時間もしないうちに再び時を刻むことを思い出す。
≪自動巻きの懐中時計ははじめて見た。≫
かちゃりかちゃりと片手で軽く時計を振りながら、遊星はいつものカードにそれだけ書いた。ゆっくりと秒針が回るのを確認し、時刻を合わせてから、時計といっしょに箱にしまう。蓋を閉じると、軽く息をついてから再びパソコンへと向き直った。午後の作業が、まだ残っていた。
遊星の生活は単調だが決して暇ではない。むしろ忙しいくらいだと、そう敢えて声高に主張しようとは思わないが、それでも一日が二十四時間というのは少し短いのではないかと時々感じることがあった。
眠る間が惜しいとまで切羽詰まっているわけではない。ただ生来の気質として、なにかに集中しすぎると時間が経つのを忘れるのだ。早朝、仕事に出るクロウに声をかけられてはじめて、じきに朝陽の昇るころだと気付くことさえあった。
夜毎にそんな生活をしているわけではないが、慢性的に睡眠不足であることは否めない。だからこそ、遊星は優介の存在を検討するにあたって、まず自身の妄想の産物ではないのかと考えたのだ。怪奇現象より、仲間たちのイタズラより、それははるかに説得力のある仮説のように遊星には思えた。小箱を持ち寄ったのは龍亞と龍可であるし、最初の封筒騒動には彼らも関わっているが、しかしそれ以降の出来ごとに関してはすべて遊星がひとりきりで対応している。夜の闇の中、夢遊病者のように虚ろな表情で自分自身に手紙を書く己の姿を思うとゾッとしたが、頭の隅ではその可能性もないではないと、どこか冷静にそんなふうに考えていた。
それは優介も同様だったらしい。
遊星が彼から与えられた実験をこなし、懐中時計を送り返した、その翌日。もう慣れたいつもの気配に当然のように箱を開き、しかし遊星は瞠目した。もう幾度目かになるやりとりに、今さら驚くことはないだろうと思っていたのにも関わらず、それでも遊星はぎょっとしたのだ。いったいどうしたのだ、と無言で困惑する。
箱の中には優介からのメッセージが、いつもとは違った形で投げ込まれていた。
つまり、彼からのいつものメモ用紙、ノートの切れ端や適当な付箋といったものではなく、そこには便箋が押し込まれていたのである。
≪遊星くんへ≫とそこにはあった。彼が遊星の名を呼んだのははじめてのことで、そもそも宛先らしきものを冒頭に加えること自体がはじめてのことで、いつもの淡白な一言からは想像も出来ないほどにそれは柔らかな字をしていた。遊星は困惑する。薄い用紙を広げてみると、それはまさに手紙であった。
優介から遊星へ、箱を介して手紙が届いたのだ。
≪遊星くんへ。
驚きました。正直に言うと、俺はきみの存在を信じていなかった。俺自身が、無意識に自分に言葉を投げかけているんだと、そんなふうに思っていた。けど、そうじゃないみたいだ。俺にはあの時計を直すことは出来なかった。昔から何度も、直そうと思っては躊躇してきた。きみが俺自身なら、この箱を介することで、もしかしたら処分してくれるんじゃないかと思ったんだ。壊れた時計は不要だと、俺の無意識ならきっとそう判断すると思った。
でもそうじゃなかった。きみは、遊星なんだね。俺じゃない。本当に、遊星という人が、俺に言葉をかけてくれていたんだ。驚いた。どうなっているんだろう? きみはどこに住んでいるの? 俺の部屋に、勝手に出入りしてカードを届けているわけじゃないんだろう?
突然こんな風に長い手紙を送りつけてごめん。本当に吃驚して、なにを伝えれば良いのか分からなかったんだ。
ありがとう。俺は今まで届かない手紙をたくさん書いたけど、あれもきっと、意味のないことなんかじゃなかったんだね。遊星くんのくれた言葉、嬉しかったです。≫
優介、と最後に自分の名前を添えて、その手紙は締められていた。
遊星はどこか夢想めいた気分でゆっくりとそれに目を通し、それからひとつ息を吐いた。はあ、と、まるで感嘆でもするかのように、優介から届いたひとつの答えに得心していた。
彼の言うのが本当なら、なるほど、優介はやはり遊星の生み出した存在というわけではないのだろう。古びた時計を思い出す。自動巻きの懐中時計が存在すること自体、遊星は知らなかった。知らないものを創造することはできない。
遊星が手紙を読み終え、そうして一拍の休憩を挟んだ隙に、箱の中にはもうひとつ手紙が届いていた。今度は便箋ではなく、いつもの小さな付箋だった。いつの間に、と驚きながら、遊星はそれを手に取り、かすかに目を細めた。
≪時計、直してくれてありがとう。大事にします。≫
見慣れたインクと文字で、そこにはそう書かれていた。きっと大事にしてくれるのだろうと遊星は思い、それから、優介からの手紙を一度小箱にしまいなおし、外へと出た。
以前に訪れたのもこのくらいの時間帯だったような気がする。夕暮れ時の雑貨店は人気も少なく、遊星はまるで場違いな空間に迷い込んできたような気分になりながら、けれど別段躊躇せず店内に足を踏み入れた。
商品棚の前で少しだけ考えてから、なんの装飾もない、シンプルな空色の便箋を買った。
* * *
優介との手紙のやりとりはその後も何度となく続いた。奇妙なシステムの上に成り立ってはいるものの、おそらくこれは文通と呼ばれるものなのだろう、と遊星は思う。互いに互いを窺うような質問と回答を繰り返すうち、次第にそれは親しい友に近況を報告するような気配を含みだしたが、しかしこの関係をなんと呼ぶべきか、適切な単語を遊星は探しあぐねていた。
優介は学生だった。デュエルを学ぶための学舎に、寮から通っているのだという。学校に通うという経験をほとんどしたことのない遊星にとって、彼から届く日常を語る言葉は、双子やアキの姿を見守るのに近い感情を抱かせた。
≪勉強は楽しいから好き。≫
そう語る優介は、文面から読み取るに、なかなかの好成績を収める優秀な生徒のようだった。
≪けど、遊星くんみたいな技術の力もほしいな。俺は時計のひとつも修理出来ないし、そもそも、する必要がないと思ってた。形のあるものはいつか壊れてしまうし、それはそれで、仕方がないって考えていたんだ。自分で直そうなんて思いもしなかった。ましてや、作り出すなんてしたことがない。≫
せめて自分のデュエルディスクの管理くらいは出来るようになりたいものだと、そう零した優介に、遊星は手ずから初心者にもわかるよう設計図を描き、比較的エラーの起こしやすいポイントや、ある程度なら弄っても差し障りのない箇所を図に示して小箱に詰めた。ちいさな箱はそれだけでいっぱいになったが、優介は遊星のその、ある種おせっかいとも言えるような手引きを素直に喜び、感心し、自ら進んで知識を乞うた。機械技術には縁がないと優介は言ったが、おそらく遊星と言葉を交わすのに備えて、ある程度勉強したのだろう。微かに用語を交えて綴られてくる文面には、彼の持つ勉学への意欲めいたものがたしかに浮かび上がっていた。
『勉強は楽しいから好き』という呆れるほど単純な主張は、しかし偽りのない優介の本心であり、本質なのだろう。そんなふうに感じながら、遊星はその前向きな姿勢を気に入り、時には感服しながら手紙を書いた。日毎に行き来する紙束は、自然とその量を増してゆく。
そうやって送られてくる情報から推測する限り、彼の使うデュエルディスクは遊星の知るものよりかなり古い。優介はDホイールを知らなかったし、ライディングデュエルを知らなかった。どんな孤島に暮らしているとしても、そんなことはまずありえない。まして、彼はデュエルアカデミアに在学しているのだ。デュエルの最新教育を施すための学び舎で、それらを目にすることなくすごすことなど出来るわけがない。
優介が過去に属する存在だということに、遊星は気付いていた。箱は時を遡っている。それも、一年や二年の時間ではない。彼は遊星の生まれるよりずっと昔、それこそ、武藤遊戯の時代に近しい場所に暮らし、遠い未来に属する遊星とコンタクトを取っている。
いよいよ夢想めいた話だ。小箱から繋がった奇妙な関係は、不思議なほど淡々と持続して遊星の日常に入り込んでいた。会話の端々に浮き上がる認識のずれ、時代の相違に、聡明な優介が思い至らないわけはない。けれど敢えてその事実に触れまいとするように彼は時間の話題を避け、ふいに見え隠れする核心的な違和は当然のように無視していつも文面を整えた。こちらからの言葉をあっけなくなかったことにしてしまう、その態度ははじめてメモが届いたころとあまり変わらないなと遊星は思ったが、しかしそれは遊星とて同じだ。
幽霊と会話をしているようなものなのだ。
俺の住む時間にあなたはいませんよと、わざわざ言葉にして語る必要などあるわけがなかった。あるいは、優介は実際に亡霊としてこの近辺に、あるいは小箱のあったというデュエルアカデミアの倉庫に、ぼんやりと佇んだままで過ごしているのかもしれない。自らが死したことに気付かず、思い出だけを手探りに寄せ、偶然出会った対話の出来る相手に縋っているのかもしれなかった。
べつにどちらでも構わないし、どちらであろうとなにも変わらない。遊星は手紙を書き、それを読んで、優介もまた返事をよこしている。自分たちにそれ以上はない。
優介の言葉は柔らかく、感情豊かだ。彼は常に前向きで、遊星の言葉の端々に微笑を投げるように返答を寄こした。デュエルについてを語り、ともに過ごす友人たちをいかに尊敬し良い関係を築くことが出来ているか、自身の環境の充実していることを薄い便箋に滲ませる。ノートの切れ端に言い捨てるように言葉を放り投げていた、あのころの面影はすでに消えうせていた。
『彼らのほうが、僕を忘れてしまった。だから書かない。もう意味がない。』
優介から届いたものは、手紙も、メモも、すべて手元に残してある。遊星はときどきそれを眺めやり、漠然と、この寂しげな細い文字が彼の本心なのだろうと考える。遊星に向けられたものではない、誰かに伝えようとしたわけではないはずの言葉を自分が手にしているのは、ひどい罪悪だと思うことがあった。それこそ、彼が両親へと宛てたあの手紙を、勝手に暴く行為と変わらない。
≪遊星くんへ≫
その先に続くのは、彼を取り囲んだ優しい世界の物語だ。優介は遊星に届ける手紙の中に、未来を語り、展望を謳った。プロデュエリストになりたいのだと、既にいくつか企業からの声もかかっていることを嫌味なく告げ、親しい友人がデュエル雑誌に紹介されたことを明るい口調で羨んだ。遊星はそれに淡々と頷き、彼の夢の背を押す。
不思議だった。
声を聞いているわけではないのに、優介から届くものすべてが、彼の感情を浮き彫りにするようだった。遊星には彼の笑みが見えた。デュエルへの意欲、友への信頼、未来を切り拓く熱意を語る、彼の頬笑みがまざまざと見えた。
箱の底に沈む湖にひとり立ちつくしている、優介の姿が見えるのだ。
あの夜に見た夢の人物と同じ、諦めきった穏やかな顔で、彼は遊星に理想の自分を語っている。
とはいえ、彼の言葉を偽りだとは遊星は思わなかった。そんなことを言えば自分だって変わらない。本当の自分の姿など、遊星とてなにひとつ手紙に綴りはしなかった。
≪優介へ≫と、彼の文面をなぞるようにはじまる遊星の言葉は、自分でも呆れるほど無機質なものだ。そもそも手紙などろくに書いたことがない。なにかの報告書か、下手をすればマニュアルめいた気配さえその文脈には漂っている。自分でもそう思うのだから、読まされる優介にしてみれば相当であろう。
遊星の抱える過去。罪についても、懺悔についても、一度だって触れたことはない。当然だ。そんなことを告げ、許しを乞うために彼と出会ったわけではないはずだった。我ながら単調な文章だと苦笑しながら、遊星は優介に、それでも精一杯の声を投げかけた。かすかに見える彼の孤独が少しでも和らげば良いと思いながら、同時に救われているのは自分のほうであることにも気付いていた。