≪名前を教えて。≫
次に遊星が小箱に触れたのはその夜が明けて翌日、じきに夕方になろうかという午後のことで、やはりふと思い立った瞬間に当然のように開けたそこには、今度はそう書かれた紙が入っていた。前回よりは冷静さを感じる、少し癖はあるが丁寧な文字だった。
遊星はどきりとし、三度目にしてまた言葉を失っていた。こちらからの謝罪などまるで気にも留めないような、一方的な言葉だ。思いがけない切り返しに若干狼狽しながら、遊星は一度箱を閉じた。ひとつ息をつき、気持ちを落ち着かせてから再び蓋を持ちあげる。そこにはやはり、よくわからない誰かからのメッセージが放りこまれている。今度はノートの端のような紙ではなく、名刺サイズの付箋に書かれているようだった。
遊星はそれを確認し、もう一度小箱を閉ざした。ジャックとブルーノがホイール・オブ・フォーチュンを前に話しこんでいたので、少し出てくる、とだけ声をかけて外出する。まだ夕陽になりきれていない太陽を背中に、入り慣れない雑貨店に足を踏み入れた。
おそらく学生向けなのだろう、商品棚に並べられたメモ用紙は目移りせざるを得ないほど多種多様で、遊星は少し考えてから、ごくシンプルな白いカード風のものを手に取った。支払いをすませてまっすぐ帰宅し、当然のようにまだ話しこんだままのジャックとブルーノに「ただいま」と言う。「おかえり」とふたつの声が返って来る。
遊星は買ったばかりの白いメモ用紙を開き、その真ん中に≪遊星≫と書いた。なにか言葉を続けようか迷ったが、前回自分の問いかけを完全に無視してきた相手に、もう一度なにかを問うのは無意味なことのようにも思えた。
結局、自分の名前だけを書いた紙を箱に放り込む。向こうからのメッセージは、最初の『誰だ』と書かれた紙と重ねて手近なファイルのポケットに入れた。
蓋を閉ざすと、やはりそれはぴたりと引き合い、今度はまた開かなくなった。高性能なポストだ、と改めて感心しながら、遊星はジャックの不機嫌な怒鳴り声とブルーノの笑い声を背後に聞いていた。
箱の向こうからの返答は早かった。
夕食を終えた遊星が、やはりなんの気なしに小箱を開くと、そこにはすでに新しい紙が入り込んでいた。遊星はさすがにもう驚かなかったが、相変わらず走り書きめいた短いメッセージは一方的で、それに対しては少し呆れのような感情を抱きはじめていた。
≪きみの親は天文学者かなにか?≫
名を訊ねられたから返した、それに対する返事がこれである。思いがけなかった対応に遊星はかすかに眉を寄せ、その時はまた一度蓋を閉じた。クロウからじきに帰るという連絡が入ったばかりで食事を温め直す必要があったし、今夜のうちに完成させてしまいたいプログラムもあった。遊星がその返事を書いたのは、その日予定していた作業の全てを終わらせた後、真夜中と明け方の堺のような時刻だった。
≪父は研究者だったが、天文学には携わっていない。≫
送りつけられた問いかけに律儀に返答し、遊星はそれから、少し考えて前回見送った問いを書きくわえてみることにした。本当は、名を訊ねられた時点でこちらからも訊ね返すべきだったのだ。
≪あなたの名前は?≫
短い文を並べただけの単調なこれは、はたして手紙と呼べるのだろうか。
そんなことを考えながら、得体の知れない誰かに向けて遊星は箱を閉じ、それからソファに身を預けて短い仮眠を取った。うすぼんやりとした夢の中では、あの小さな箱の奥底のほうに大きな湖が沈んでいた。広い水辺にぽつんと佇む人影は男のようで女のようで、個性的な容姿をしているようにも見えたが同時にまったくの無機質な存在であるようにも思えた。夢の中の遊星はこの人物こそが箱の持ち主であると確信していて、何度か声をかけるのだが一向に返事は返って来ない。箱の中の人物は足元に広がる湖に向けてカードを一枚手放して、どこか吹っ切れたような表情を浮かべたかと思うと霧に紛れるように消えてゆく。
いやに暗示めいた夢だ。遊星が朝陽の気配に目を覚ますと、その起床を待ちわびていたかのように小箱の深い赤色が目に入った。いつの間に手元に置いていたのだろう。遊星は緩慢な動作でそれに手を伸ばし、そっと蓋を開けてみた。箱の中には、すでに返事が入っていた。
≪優介≫
短い、ほんとうに短いひとことは、遊星が先日返したものと良く似た音をしているような気がした。ゆうすけ、と口にして呟きながら、遊星はその紙を取り出して眺めた。
――優介。
彼は何者なのだろう。奇怪な事象は遊星から冷静な判断力を奪っているようにも思えた。不可思議なやりとりを行っているという自覚はある。それを平然と受け入れている自分への違和も、少なからず抱いていた。けれど、だからといって現状を誰かに相談する気にも、ましてや気味が悪いといって箱そのものを忌避する気にもならなかった。それどころか、名前をきちんと返してくれたことが、遊星には嬉しくもあったのだ。
優介はどこか別の、ここではない遠い場所に暮らしているのだろうか。この小箱の底では、夢で見た湖畔のような静かな世界が広がって、優介と自分の居場所を仲介しているのだろうか。そんなふうにらしくもないことを考え、遊星は苦笑した。つまらない想像だが、決して悪いことではないように思った。
淡々と並べられただけの文字は、彼の、優介の感情を刻みこむように記されている。そこに悪意は感じられない。
遊星はかすかに笑って蓋を閉じ、それから再び少しだけ眠った。彼も眠りについているのだろうか、と僅かに考えたが、夢にあの湖はもう現れなかった。
* * *
優介から再びメッセージが届いたのは、その二日後の真昼のことだった。
ゾラの友人から引き受けた年代物の音楽レコーダーの修繕が、ようやく終わろうかというタイミングだった。決して複雑なたぐいの故障ではなかったが、時代がかった機材は興味深く、あれやこれやと弄っている間に随分時間がかかってしまった。その二日の間に遊星は優介になんと返事をしたものか思案していたが、結局は思いつかないうちに彼のほうから別な話題が示されたのであった。
≪手紙をどこまで読んだ?≫
相変わらずの短い文面に、遊星は一瞬なんのことか疑問に思い、ついで、龍亞が開けてしまった封筒のことだと気がついた。優介の問いかけには強い嫌悪は感じず、ただとりあえず事実を確認するかのような気易さがそこにはあった。
遊星はその場でペンを取った。先日購入したばかりのメモ用紙は優介に充てる以外に用途はなく、三十枚綴りの束は妙に厚く思えた。使いきれる気がしない。
≪俺は読んでいない。ただ、両親に充てた手紙だということだけわかった。≫
『親愛なるお父さま、お母さまへ』
手紙を音読しはじめた龍亞が、そう言ったのを覚えていた。それより先は知らないし、知ればよかったとも思わない。遊星はペンを片手に少し考え込み、≪離れて暮らしているのか?≫と書き加えた。踏み込むべきかどうかの迷いがあったが、質問に答えを返すだけで、また話題が途切れるのもつまらない。もちろん、優介がそれに回答を寄こしてくるかどうかは分からなかったけれど。
この箱を手にして以来、遊星はことあるごとに優介のことを考えていた。それはある一定の人物が自身の心中を埋めてゆくような、誰かを想うような感情とは少々異なった、もっと即物的で単純な興味から来ている思考のように思えた。からくりなど存在しえない箱の中で、いったいなにが自分と彼とを繋いでいるというのだろう。どこか遠くに存在するのか、あるいは、彼は人ではないのか。
龍亞と龍可の、あるいはブルーノやクロウたちも絡んだイタズラであるという可能性も、決してありえないものではないはずだった。もっと酷い出来ごとを想定するならば、遊星自身の自作自演ということもありうる。寝不足が祟って、頭がおかしくなってしまったのかもしれない。
それらの可能性を考慮しながら、けれど遊星は、それでも箱の向こうには優介という名の人物がいるのだと信じてみたかった。それが何者であったとしてもだ。
そんなことを考えながら箱を閉じ、再び密閉された金の装飾をたしかめるように指でなぞってから、遊星はふと思い立ってもう一枚メモを取りだした。
≪きみが天使なのか?≫
書き出してみてから、いくらなんでもばかげていると思いなおし、遊星はそれを屑かごに放った。
* * *
優介からの返事はその日の真夜中にあった。深夜一時を回った時計をちらりと見やってから、遊星は小箱を開いた。底にぽつりと置かれた小さな紙。毎日ずいぶんと夜更かしをするのだな、と、遊星は自分のことを棚に上げて考えた。
優介の字は最初に比べれば随分やわらかくなったように思う。黒いインクのボールペンで、カリカリと刻みつけるような筆圧で文字が浮かんでいる。遊星は僅かに重たげなまぶたで、彼から送られてきた、いつもより少し長めの文章を見つめていた。
≪遠くにいる。≫とそこには書かれていた。それが『両親とは離れて暮らしているのか』という自分の問いへの答えだということに、遊星は一拍遅れて気がついた。
≪宛先もわからないくらい遠く。別に届かなくてもいいんだ。だから書いてた。≫
過去系で締められているのが気にかかった。遊星は深く考えずペンを取り、その場で返事を書いた。≪今は?≫とだけメモ用紙に記し、それから先に続ける言葉が見当たらず、結局そのまま箱に入れて蓋をした。
『遠くにいる』
それはたぶん、本当に遠い場所なのだろう。遊星の両親もそうだ、とても遠い場所にいて、宛先などわからない。手紙を書いても届くわけがないけれど、たとえ届かなくとも伝えたいことはたくさんある。
ひたすらに更けてゆく夜の気配に、遊星は少し眠ろうと思った。本当に頭がおかしくなってしまったのだとしたら、充分に睡眠を取ることで優介からの手紙は止まるのだろうか、と考え、少し惜しくなったがゆったりと襲い来る眠気はどうしようもない。それに抗う理由も今はなかった。
けれど遊星は、眠りにつこうとする頭のままで再び蓋を開いた。そこには優介からの返事が、もう届いていた。
≪書かない。もう忘れてしまった。≫
彼の文字はどことなく寂しげだな、と遊星は思った。ペン先が細いからだろうか、あるいは単調な言葉遣いが能面な雰囲気を出して、遊星に寂しさを錯覚させているのだろうか。そんなことを考えてから、ようやく文面が頭に入って来た。
忘れてしまった、と彼は言う。遊星にはその意味がわからなかった。なにを忘れれば、今はもう手紙を書くことをやめてしまった理由になるというのだろう。
遊星は思案し、再びペンを手にするとメモ紙を開いた。昼間には使いきることなどないだろうと思ったはずの紙束が、これではきっとすぐになくなってしまうに違いないと感じた。
≪伝えるべきことを?≫
白いメモの真ん中に、それだけ書いて箱にしまった。
返事はやはり早かった。五分と待たずに遊星は彼からの回答が寄こされたことを感じ、当たり前のように箱を開いた。
≪違う。≫とそこには書かれていた。遊星はやはり、彼の言葉には寂然とした気配を感じるなと思った。
≪彼らのほうが、僕を忘れてしまった。だから書かない。もう意味がない。≫
遊星はすぐに返事を書いた。
少しも迷うことはなく、ただ思ったことを、彼の寂しさに届くかどうかもわからない言葉を並べた。つまるところ、遊星には他に言えることがなかったのだ。箱を閉めてからそのことに気付き、遊星はかすかに眉根を寄せた。なぜだか確信的に、今夜はもう、彼からの返事はないだろうと思った。
≪子どものことを忘れる親なんていない。≫
遊星が並べた文字は真実を示している。けれど、それが優介にとって意味をなす言葉であるとはあまり思えなかった。彼が、その行為を無意味だと感じたのだ。どこにも届かない手紙は、結局だれにも記憶されることはない。そこに意味は残らない。
けれど遊星の言葉は真実だった。優介がそれを読んでどう感じるか、否定するか受諾するか、もっと強い拒絶を示すのか、遊星にはわからなかった。けれど、遊星の言葉はたしかに真実なのだ。正しく、決して揺らがないものであるはずなのだ。
じきに二時を指そうとしている時計に、遊星は小さくあくびを噛み殺し、ようやく小箱のもとを離れて眠りについた。結局、やはりその日のうちに優介から返答が送られてくることはなかった。