邂逅のエンドロール - 2/7

 龍可はまず、笑わないで聞いてね、と前置きして、それから言った。「たぶん、天使だと思う」
 てんし、とオウム返しに呟いた龍亞に、どこか厳かとも思える表情を浮かべて龍可は頷いた。心なしか顔色が暗い。龍可は傷ついているのだ。おそらく、このカードに同調して。
 龍亞は妹を励ますように強く頷きかえし、両手で抱えたその箱の表面を撫でた。古臭く、埃っぽい小さな箱。骨董品めいたそれは硬く、臙脂色に覆われた牢のように龍亞には思えた。軽く揺らすと、かつん、と中でなにかがぶつかる音がする。箱の中にはカードが一枚閉じ込められている。
 天使が閉じ込められているのだ。
 助けなければ、と龍亞は思ったし、龍可だってもちろんそうだ。けれど鍵が開かない。双子はじっとその赤い箱を見おろして、それからどちらともなく顔を見合わせた。ふたりは視線だけで行き先を確認しあい、手早く鞄を引っ掴むとあっという間に教室を飛び出した。

* * *

 遊星のもとに双子がやって来たのは陽の傾きかけた夕方のことで、慌てふためいた調子で口を開いた彼らの言い分は(おもに龍亞の言葉は)正直に言って支離滅裂だった。
「だからぁ! 俺は掃除をしてたんだよ、学校の、倉庫の! 倉庫っていうか物置っていうか、とにかく色んなものがあって、全部いらないから捨てるように言われてそれで」
「先生の許可はちゃんともらってきたわ」
「そうそう、先生は古いものだから好きに持ってって良いって言ってたんだ。で、それカードが入ってるっぽいだろ? なんのカードかなって興味があって当然じゃん? そしたら龍可が天使だって」
「天使族のモンスターカードなのは間違いないの。その子、すごく苦しんでる。ねえ、遊星」
「頼むよ、遊星!」
 助けてあげて! と両サイドから訴えられ、遊星はふむと考え込んだ。制服姿のままでいつものガレージに駆けこんできたふたりは実に深刻な様相で、自分たちの望みは遊星にしか叶えることが出来ないのだと言わんばかりの熱い視線を注いでくる。
 彼らの主張は脈絡なく少々ややこしいが、約めれば事態は簡単なものだ。アカデミアの倉庫を掃除していて、古びた箱を見つけた。中にはどうやらデュエルモンスターズのカードが入っている。龍可にはそのカードの精霊が苦しんでいることがわかる。
 天使のカードを救うため、遊星に助けを求めているのだ。
 龍亞の差し出してきた古めかしい小箱を受け取りながら、遊星は彼らの言い分を理解してひとり頷いた。問題の箱は思ったよりしっかりとした作りだが、そう重くはない。両手のひらに丁度収まるほどのサイズは、カード一枚を保管するのには少し大きすぎるようにも思えた。
 耳を近づけて揺すってみれば確かに、かすかになにかが壁にぶつかる音が聞こえる。ふむ、と遊星は箱を手に思案し、「それで」と小さな友人ふたりを見つめた。「俺はなにをすればいい?」
 双子の回答は簡潔だった。
「「蓋を開けて!」」
 なるほどたしかに、それは遊星向きの依頼である。
 納得し、遊星は手にした箱を改めて見やった。鍵もなければ蝶番もない、ごくごくシンプルな、上下に分かれるタイプのただの箱だ。錆びているようなようすもないし、封を施されているようにも見えなかった。臙脂の木地に金の装飾。中央には碧い石が嵌めこまれている。安物というわけではないだろうが、目を見張るほど高価なものでもないはずだ。遊星は値踏みをするようにさまざまな角度から箱を眺め、そのぴたりと閉じられた器と蓋の堺を見つめた。もともとこれは開閉するようには出来ていないのではないだろうかと思うほど、完全に密閉されている。
 カードを取りだすことだけが目的なら解体してしまうのが一番早いが、しかしこれが誰の所持品であるのかわからない以上、いくら教員に持ち出し許可を取ったからといって破壊してしまうのは乱暴すぎる。遊星はデスクの上に箱を置き、なにか使えそうな道具はないものかと工具箱を持ちだした。期待に満ちた眼差しを双子から向けられながら、はてどうしたものかと無表情に考え込む。繭のように隙間なく覆われたそれは、閉じ込めるためではなく護るためのもののようにも見え、ならば自分は侵略する側の人間なのではないかと思い付いて俄かにおかしな気分になった。
 けれど龍可いわく、天使のほうは護られることを望んではいないようなのだ。
 持ち主のもとに戻りたいと、そう訴えているのだという。閉じ込められることで苦しんでいる、そのカードの所有者ははたして今どこでなにをしているのだろう。自身のカードの嘆きの声に、少しでも気が付いているのだろうか。
 工具を漁る手を止め、静かに存在する小箱を眺める。表面を指先でそっと撫でると、そこには不思議とぬくもりが宿っているように感じられた。なんとなく、空気が軽くなったような気配がする。遊星はふと思い立ったような気軽さで、ひょいと蓋の部分を持ちあげた。
 先ほどまで頑なに開放を拒んでいた小箱が、あっけなく開いた。
 遊星は目を丸めていた。双子も、同じようにぽかんとそれを見つめていた。あまりに容易く開かれたことへの拍子抜けももちろんあったが、それより先に眼前に晒された箱の中身に目を奪われていた。
 臙脂の檻のなかには天使のカードなど入ってはいなかった。ただ、膨大な量の封筒が、そこにはぎっしりと詰め込まれている。
「…………」
 時間が止まったかのように全員が言葉を失くす中、遊星は呟いた。
「……手紙、か?」
 どうにかそう口にしたことで、張りつめていた空気が一気に解けた。まっさきに龍亞が手を伸ばし、箱そのものをひっくり返さん勢いで中の封筒を取り出しデスクに広げる。少々粗雑な仕草でそれらをかき分け、龍亞は叫んだ。「ない! なんで!? カードは!?」
「消えちゃった……」
「えええ、なんで!? 消えたって、どこへ!?」
 もっともな龍亞の疑問に、もちろん龍可が答えられるわけがない。遊星だってそうだ。たしかに、つい先ほどまでそこにはカードが、あるいは、縦しんばカードでなかったとしてもなにか軽い音を立てるようなものが入っていたはずなのだ。間違っても、これだけの量の手紙が押し込まれているようなようすではなかった。
 それともただの思い込みだろうか。龍亞と龍可にここにはカードが入っていると訴えられ、勝手にそうだと信じてしまっただけなのだと、そう自分に言い聞かせることは可能だった。けれど龍可には精霊が見える。彼女の言葉を信じる限り、この中にはたしかにいたはずなのだ。天使が。
「龍可、そのカードの精霊はもうどこにもいないのか?」
 遊星の問いに、龍可は戸惑ったようにこくりと頷いた。箱が開かれて、外へ出たわけではない。消えてしまったのだ、どこかへ。いったいどこへ?
 不審に眉をひそめる遊星を尻目に、龍亞はいまだ封筒を漁り、箱をひっくり返しては問題のカードを探しているようだった。ない、ない、と呟きながら、ついにはしっかと糊付けされた手紙をぴりぴりと破りはじめる。先に声を上げたのは龍可だった。
「龍亞! だめよ、人の手紙を勝手に読んじゃ!」
「仕方ないじゃん、カードがどこに行っちゃったのかわかんないんだから、せめてこの箱がどこの誰のものなのかくらい調べないと。えーっと、なになに、親愛なるお父さま、お母さまへ……」
「ちょっと、龍亞!」
 内容を読み上げはじめた龍亞から、龍可が慌てて手紙を取り上げる。いかにもおかんむりといったふうに眉を吊り上げ、まったく龍亞ったら、と兄を叱咤しながら手紙を元に戻す龍可に、龍亞は少々不服そうだ。
「でもさ、だって、カードのこと心配じゃん。龍可だってそうだろ? どこ行ったのかとか、持ち主のとこに帰ったのかとか、知りたくないの?」
「それはもちろん気になるけど……」
 ダメなものはダメなの、と龍可はぴしゃりと言い放ち、散らかった封筒を丁寧に小箱の中に収めた。純白の紙の上には宛先も差し出し主の名前もなにもない。手紙の束に触れる彼女の横顔には疑念と不審が宿っていたが、龍可はその表情のままで慈しむように優しく蓋を閉じた。例のカードの行く末を案じているのだ。遊星は龍可のちいさな頭に手を伸ばし、ついでもう片方の手で龍亞の頭を撫でてやった。双子はくすぐったそうに少し笑って、それから、ふたりしてどこか申しわけなさそうにはにかんだ。
「ありがとう、遊星。とっても不思議だけど、あの子はきっと、自分の在るべき世界に帰ったんだと思うわ」
「うーん、龍可がそう言うならそれで良いか。それにしても、あんなに堅かった箱を簡単に開けちゃうなんて、遊星はやっぱりすごいや」
 実際には遊星はなにもしていないのだが、子どもたちは人懐こく目を細め、どちらからともなくこの箱を遊星に預かってほしいと提案しだした。「なんだかね、箱のほうが遊星を選んだみたいな気がするの」と龍可が言い、「遊星なら持ち主も割り出せるかもしれないし」と龍亞も頷いた。
 特別邪魔になるようなものではないし、断る理由はない。
 快諾した遊星に双子は諸手を挙げて感謝を示し、そろそろ時間も遅いからとふたり仲よく帰って行った。入れ違いに、散歩にでも出ていたのかジャックが帰宅し、そこで双子とすれ違ったと不審げに言った。「学校帰りに寄ってくるのは珍しいな。なにかあったか?」
「いや」と、遊星は一応否定してから、しかしなにもなかったというわけではないな、と考えなおし、ジャックに例の小箱を指し示した。さきほど起こった不思議な出来事を簡単に説明すると、ジャックは軽く鼻を鳴らし、これといって興味もなさそうな仕草で箱を取り上げて、「ずいぶん軽いな」と言った。「本当に手紙なんて入っているのか?」
「ああ。……勝手に読むなよ」
「誰がそんな不躾なことをするものか」
 心外だというふうに顔をしかめながら、ジャックは箱を開けようとして、そして停止した。かすかに首を傾げている。
「おい、遊星」
「なんだ?」
「これは本当に開くように出来ているのか?」
 担いだのではあるまいな、とジャックはうろんな目付きで遊星を見つめ、それから再び小箱に手を伸ばしたようだった。ジャックの長い指に持ちあげられて、けれど蓋はぴくりとも動かない。
 遊星は半ば諦めたような気分になってきて、だから言っただろう、と苦笑した。「それは不思議な箱なんだ」
 ジャックはやはり興味なさげに「不思議なことだ」とだけ返してデスクの上に小箱を放った。ついで冷蔵庫の中身を気にしだした彼には今日の晩飯の内容のほうがよほど大事なようだったし、遊星にしても似たようなものだ。
 まったく不可思議だが、害もなければ好奇心を揺さぶるようななにかもない。
 再び鎖された小箱をかすかに揺らすと、今度は手紙もカードも入っているような反響はなく、ただからの空間だけが虚しく転がる気配がした。

* * *

 その箱の存在を忘れてしまっていたわけではなかった。
 ガレージに備えたデスクの上、パソコンの隣に小箱は常に置いてあったし、誰の目にもつくその位置にあっても別段邪魔にはならなかった。決して地味な置き物ではないはずなのに、それは不思議と存在感を放たず黙したままで座して、当然のように誰にも開かれることはないままだった。遊星はもちろん、ジャックが再び興味を示して話題にするようなこともない。一度ブルーノが「これなに?」と訊ねたが、「龍亞と龍可から預かっている」と返した遊星に彼は「ふうん」と相槌を打ったっきり、それ以上なにも言わなかった。クロウにいたっては気付いているかもわからないし、アキにしても同様である。
 そのまま数日が経って、遊星がふとその箱をもう一度開けてみようと思いついたのは、だからまったくの偶然だった。
 深夜だった。相変わらずDホイールの改良作業に没頭していた遊星は、ふと我に返ったとき窓の外の気配だけでいまが夜中だということを察し、本来ならば「そろそろ眠ろう」と考えるべきところを「少し休憩にしよう」という一般的でない思考に向かわせ、ひとつ息をついた。疲労はないが集中力が途絶えてしまっている。気分転換も必要だと感じながら、なんとなく例の小箱を手に取った。
 その存在を忘れていたわけではなかった。
 ただ不思議と、突然に気にかかった。なぜだかわからないけれど、いまならこの箱は開くに違いないという確信を遊星は抱いていた。昨日ではだめだ、今この瞬間にこそこれは開く。漠然とそんなふうに感じて蓋の部分を軽く持ちあげると、実際に箱は開いた。あの日、大量の手紙が詰まっていたときのように、ひどくあっさりとした開放だった。
 真夜中の静寂のなかで遊星は瞠目していた。箱が開いたことに対してではなく、その中身を見つめて、戦慄にも近い感情を抱いていた。
 箱の中にはすでにカードも手紙も入ってはいなかった。ただ、ノートをちぎったような小さな紙が一枚、ひとことの言葉を添えて放りこまれている。
≪誰だ。≫
 書き手の怒りをじかに表すような、乱雑に尖った文字だった。
 遊星は息を飲んでその紙切れを見つめ、けれど妙に冷静な気持ちで、謝らなければ、と感じていた。箱の持ち主が怒っているのだ。たぶん、勝手に封を切られ手紙を読まれたことに気付き、何者がこの箱を暴いたのか問うている。
 箱はずっと遊星のもとにあった。それは間違いない。誰かが侵入した形跡もないし、むしろお前は誰だと訊ねたいのはこちらの方だ。
 けれど遊星はためらわずペンを取った。便箋のようなものはなかったので、デスクの周囲にあった適当なメモ紙を引っぱりだして文字を走らせる。
≪すまない。所持者を調べるために友人が封を切ってしまった。プライベートを侵すつもりはなかった、本当にすまなかった。≫
 我ながら無機質な字面だと感じながら、遊星は一度手を止めた。それから少し迷って、この不可思議な現象に問いかけを投げてみようと思った。気持ちを切り替えるようにペンを持ち直し、それから、白い紙の上に黒のインクを交わらせる。言葉を繋げる。
≪あなたがこの箱の持ち主か? どうやってここへ?≫
 警告めいた紙きれを取り出し、代わりに自分の書いたメモ紙を箱の中へとしまう。蓋を閉じると、それはまるで磁力でも発生したかのようにぴったりと引き合い、それから再び開かなくなった。
 ほんの短い時間の出来ごとだった。
 瞬間的に夢でも見ていたのだろうかと遊星は思い、けれど自分の手元に残った、小さな紙がそれを否定する。『誰だ』と相手の存在を問うただけの、けれどいやに攻撃的なひとこと。
 すまないことをした、と遊星は心中で再び謝罪をした。秘めるように詰め込まれていた手紙の数々は、きっとこの箱の持ち主にとってとても大事なものだったのに違いない。宛先もなければ差出人の名も記されていなかった、あの手紙たちを他人に見られたことが、きっと許せなかったのだ。知らぬ間に、わけのわからないうちに暴かれたことが、悔しくてたまらなかったのだ。
 奇妙なことが起きていることは理解していた。遊星は自分が半ば夢見心地であるという自覚があったし、次にあの箱が開いたとき、返事が戻ってくるとも考えてはいなかった。どうやってここへ、と問いかけたは良いが、この空間に、自分たちの居住場所に何者かが侵入してきたようには、やはり思えなかったのだ。
 遊星はジャックほど現実主義者ではない。けれど、クロウほど子どもたちにおとぎばなしを聞かせてやったような経験もなかった。奇妙な出来ごととは縁がない、などと考えるのは、赤き龍に選ばれたデュエリストとしては謙虚にすぎるかもしれないが、実際に遊星は現状を稀に見る奇異な現象であると感じていた。
 不思議とは、折り重ならないからこそ不思議なのだ。
 そんなふうになんとなく、このやりとりはもうこれで終いだと思っていた遊星に、実際に箱は返事を届けてくることはなかった。遊星の問いかけに、彼、あるいは彼女は、まったく返答と呼べるようなものを送りつけてはこなかった。

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