「あ、いたいた。吹雪さん!」
その声で我に返った。夕暮れだった。僕はなぜか道端にひとりきりでぽつんと立ち止まり、もう暗くなりかけた空の遠いところを見つめていた。天侯はあまりよくない。暗く澱んだ雲にぼんやりと覆い隠されるように、僕の心もわけなく沈んで、リズムよく近付いてきた赤い制服が視界の隅に触れることで僕はようやく心中に渦巻く謎の陰鬱を自覚した。いまのいままで堅く閉ざしてきたまぶたを、ようやく持ちあげたばかりのような気分だった。
急に開けた世界の中では十代くんと、それから少し遅れて明日香が、俄かに不審そうな表情を浮かべながらひとり佇む僕に近づいてきていた。
「あーあ、やっと見つけたぜ。いったい今までどこ行ってたんだよ吹雪さん。寝起きみたいな顔しちゃってさぁ」
寝起きとは失礼な、と僕は苦笑したが、同時に、案外間違った形容ではないのかもしれないなと思った。最近の僕は奇妙な夢ばかりを見るので、ときどきそれに現実が混ざりこんでいたとしてもさっぱり気づかないんじゃないだろうかと、いやに神妙に考える。けれどそれを言えば明日香にまた心配をかけるだけだと分かっているので僕はやはり苦笑いに留めて、それから口を開いた。空を見ていたんだよと言った。
「青空がむらさきに飲まれたら、いったい僕はどんな色になるのかなって、そんなことを考えていたんだ」
僕の答えに十代くんは「は?」と首を傾け、明日香はなにやら呆れたふうにかすかに眉を寄せた。僕は微笑む。「要するに、詩を詠んでいたのさ」
その答えに彼らはふたりして顔を見合わせ、それから、お互いに確かめあうようなタイミングで深く嘆息してみせた。実に息のあった無言の掛けあいだ。にこにこと笑顔を浮かべて感心を示す僕に、明日香だけがなにかごまかすようにひとつ咳払いをした。呆れた、と言う明日香は、けれど本当は安心したのだろう。脱力したように肩を落とす妹に「心配をかけてすまなかったね」と言うと、「急にいなくならないで。驚くから」と、そっけなく、それでも充分にあたたかな声が返ってくる。ごめんごめんと僕は笑う。
「で、二人していったいどうしたんだい。僕になにか用事かな?」
明日香はともかく、十代くんに探しに来てもらうような心当たりはない。仲がいいのは結構だけど、わざわざ見せつけにきたということはないはずだった。訊ねた僕に十代くんは案の定「ああ、そうだった」と返し、それからふいに目が覚めたような唐突さで、
「……えーっと、なんだっけ?」
と首を傾げた。
「なんだっけと聞かれてもなぁ……」
「いや、いやいや、あれ? ちょっと待ってくれ、俺なにか吹雪さんに聞こうと思って……。あ、そうだあれだ。あれ、結局どうなったんだ?」
あれじゃわからないよ、と笑う僕に、しかし十代くんはごく真面目なようすで、もう一度「ほら、あれだよ」と言った。「なんか変なの、連れてたじゃん。子どもくらいのサイズの、なんかこう、もやーっとした感じのやつ」
「もやー?」
「そうそう。なんか、こんな、えーっと……どんなのだっけ」
とにかくなんか連れてただろ、と言う、十代くんの問いかけはあまりに大雑把で、僕にはいまひとつ飲み込めない。愛想笑いで首を傾け、なんのことだかさっぱりだと伝えると、彼は思い切り両目を丸めてみせた。なぜ分からないのかが分からないとでも言いたげに、十代くんは「あれー?」と何度か繰り返し、ついには自分の頭をかかえて唸りだした。
「おっかしいなあ、なんだっけ。たしか吹雪さん、あいつのことなんとかって名前で呼んでたはずなんだけど」
「ええ、なんだいそれ、僕そんなの全然覚えてないんだけど。怖い話かなにかかい?」
驚かそうとしたってそうはいかないぞと少々身構えた僕に、しかし十代くんはふざけたようすを見せることなく眉をひそめていた。なにかを否定したそうに言葉を探していた彼は、けれど、結局はなにも思いつかなかったらしく、諦めたようにただひとつ頷く。
「あー、うん。怖い話なのかも」
つーか俺もよく覚えてない。と随分いい加減なことを付け足し、十代くんはごまかすようにして笑ってみせた。なんだそれはと僕は拍子抜けするけれどそれは明日香も同じようで、まったくなにを言っているのだかというふうに呆れ顔を浮かべながら肩を竦めている妹を見ていて僕はふと思い出す。怖い話といえば、と、今まで誰にも話したことのなかった、幼い頃何度も家に現れた老婆のことを口にする。
なぜ今さらこんなことを思い出したのだろう、と自分でも不思議に感じながら、しかし自然な調子で零れ出る長年の疑問は、怪談話というよりはただの昔話だ。十代くんはとくに怖がったようすなく「へえ」と軽い相槌を打ちながらそれを聞き、僕と同じ家で生まれ育った、言わば当事者であるところの明日香はしかし、僕の話に目を丸めてみせた。なんのことはなさげに、「それってお庭のおばあちゃまのことじゃないの?」などと言う。
僕はびっくりして言葉を失う。
お庭のおばあちゃま?
「え、だれそれ?」
「ほら、覚えていない? 昔、私たちが幼稚園くらいのころかしら。短い間だけだったけれど、お庭の手入れにうちに来てくれていた女性がいたじゃない」
「……いたっけ、そんなひと」
問いかけに、いたのよ、と明日香は返した。力強く、キッパリと言いきった。
「花壇のお手入れと、家の中の生花も面倒を見てくれていたおばあさん。父さんたちのいない日には私たちのお世話をしてくれたこともあるし、ときどきはうちで夕飯を食べていったりしていたみたい。もう随分昔のことだし、正直に言うと、私もほとんど覚えてなかったんだけどね。私がこの島に来る少し前に、一度うちにいらしたことがあって、その時に思い出したの。兄さんのこと、すごく気にかけてた」
驚きのあまり硬直する僕に、明日香は苦笑した。元気そうだったわよ、と言う。
「幽霊扱いしていたなんて知ったら、きっと怒るんじゃないかしら」
「お、怒るだろうねぇ……」
そんなもの、怒らないほうがおかしい。僕は思って頷いた。どうやら長い間、随分と失礼極まりない勘違いをしていたらしく、人間の記憶とはなんていい加減なものなのだろう、と驚きを通り越して感動さえ覚えていた。
なんということだろう。
あれは、幽霊ではなかったのだ。
「生きていたのか……」
実に不謹慎な呟きを零した僕に、話を聞いていた十代くんはなにやら愉快そうに笑って「なあんだ」と言った。どこか安心したみたいな声だった。
「結局、ぜんぶ吹雪さんの思いこみだったんじゃん」
そう言った彼はすでに自身の持ち込んだ幽霊話について語る気はないらしく、日暮れの空を仰いで、気の抜けた調子で空腹を訴えた。そろそろ帰ろうぜ、と言い放ち、こちらの返答を待つことなくさっさと歩きだしてしまう。僕と明日香は素直にそれに従うことにして、三者三様、別の建物へ至る帰路を選んで歩を進めた。別れ際、十代くんがふいに思い出したように僕を振り返る。
「そういや吹雪さんさ、探し物は見つかったのか?」
ふたたび向けられた、身に覚えのないはずの曖昧な問いかけに、しかし僕は詰まることなく頷いた。「見つかったよ」と言うと、十代くんはまるで自分のことのようにうれしそうに「よかったじゃん」と笑い、それから再び僕に背を向けて歩きだした。
赤い背中が高い空の向こう、厚い雲に覆われたその果てを目指すように遠くなるのを見届けて、僕もまた同じように、自分の道をゆくことにする。帰るのは森の奥の廃墟ではなく、今の僕の生活するブルー寮だ。
* * *
さてその夜、僕はふいに思い立ち、引き出しから何枚かの写真を取り出してみることにする。
特別にカメラが好きというわけではないのに、なぜだか僕の手元には一年生のころの写真がずいぶんと残っていて、いままでなんとなく機会のなかったそれらを整理してみようと唐突に思いついたのだった。懐かしい顔ぶれを机の上に並べ、手にとって眺め、僕はひとり黙々とアルバムを作ってゆく。亮をはじめとする友人たちはみんな笑顔で、ときどきはおどけたような顔で、ばかげたポーズで、ひどく明るいようすをひけらかしながら四角い枠のなかに収まっているので僕もうれしい気持ちになる。なつかしいな、と思う。会いたいな、と考える。
そこに並ぶ顔のすべてを僕は覚えている。ひとりひとり、指さして名前を唱えることができる。どんな声で僕に語りかけたか、どんなデュエルをしていたか、どんな時間をともにすごしたかをきちんと記憶している。懐かしむことができる。思い出の中で輝く僕らの姿はまるで永遠のようだった。
完成したはずのアルバムを眺めて僕は満足して、ひと仕事終えた気分でそれを閉じるのだけれどなにかが物足りない。ひどく寂しい気持ちになる。感傷は不可解に重く、しかし僕はその理由を探る気にはならない。欠けているものがあるのだ。それを埋めるために僕は僕のカードに触れる。
僕の手の中にはあの闇の証があった。ダークネスのカード。渦を巻くように、いまだ深い暗闇の気配を抱えたままのそれは、僕にとって忌避すべき過去そのものだった。多くの人を傷つけ、僕自身の人生を狂わせた、恐るべき呪われた力だった。
なにより忌むべきはずのそれは、けれどいまも僕の手元にある。愚かなぬくもりを携えてここにある。誰になにを言われようと、決して手放したりはしない。
その闇に触れると僕の寂しさは甘く和らいだ。それがそばにあるというただそれだけで、なんとなく懐かしく、充たされた気持ちになるのだ。ダークネスへと繋がるはずのカードは、けれどあの暗闇そのものではない。心音はここからは聞こえない。遠く、まだはるか遠くにあって、今でもときどき、僕の気を引くようにこの裾を握る。僕の手を取り、懐かしい声で囁く。
吹雪、と名前を呼ばれている気がするけれど、その声の主が誰なのか僕にはわからない。
それでもカードはここにあった。僕のそばに、ちゃんと存在していた。胸のポケットにそれを仕舞い、心臓のそばに置くことで僕はあの闇と鼓動を共有しているような気分になる。それはとても嬉しくて、けれど虚しくて、僕は自分が泣いているのだか笑っているのだかよく分からなくなってくるのでまぶたを降ろす。今夜もきっと、懐かしい夢を見る。