「吹雪」と呼ばれた気がして目を開けると、むらさき色の双眸がじっとこちらを見つめていた。
その両目があんまり近くに、文字通り目の前にあったものだから、瞬間的に世界が彼の瞳の色に染まってしまったかのように思えて僕は驚く。それが錯覚であることに気付かないほど動転してはいなかったけれど、息を飲むことさえ忘れるくらいには動揺していた。僕の枕元には知らない男の子が立っていて、もちろん僕はそのことにびっくりするのだけれど、しかし同時に、どういうわけか彼の存在に安堵してもいるのだ。反射的に、なんだ、きみか、と思う。それから冷静になって改めて、きみはいったいどこの誰だ? と思う。寝ぼけた頭は矛盾を認識しないままでただ彼のふたつの目にぼんやりと見つめられている。
寂然とした深い夜に包まれた部屋の中で彼は黙ったままじいとこちらを凝視していた。むらさきの世界をゆらりと揺らして、大きな両目がゆっくりと、まるでなにかを捕食する仕種のように瞬く。ベッドサイドに貼りつき僕の顔を覗きこんだまま、彼はちいさな唇を開いた。灯りの消えた薄暗い視界にもはっきりと見える。今度こそ間違いなく、彼は「吹雪」と言った。
「吹雪」
「……なんだい?」
「吹雪」
「どうしたの?」
「吹雪」
「……」
淡々と名前だけを繰り返す、不安げな声音はしかし震えることも掠れることもしないまままっすぐに耳候まで届いた。なにかを求めるようでもなく、ただ横になったままの僕をじっと見下ろして、彼はもう一度「吹雪」と言った。
その声を聞きながら、僕はそっと手を伸ばし、ちいさな頭を撫でてやる。
「だいじょうぶだよ」と言うと、彼はふるふると首を横に振った。拒絶ではなく否定の仕種だ。この手のひらを受け入れることはするのに、彼は僕の言葉を信じていない。
僕はもう一度「だいじょうぶ」と言う。
「だいじょうぶ、ここにいていいよ」
彼は僕を見つめている。悲しげに両目を揺らしている。ふたつの目がもう一度緩慢に瞬くのを眺めながら、このままでは僕は彼のこの美しいむらさきに捕えられ、そうしてごくりと飲み込まれてしまうんじゃないかな、とそんなことを考える。意識が再び夢路をまどろんでも、僕の手は彼の頭を撫でつづけている。降ろしたまぶたの向こう、伸ばした手のひらに彼の体温が混じるのを感じていると、ふしぎと穏やかな気持ちになった。このまま彼に咀嚼され嚥下され、そうしてむらさきの世界の一部になるのも悪くはない。
彼は何度も僕の名前を呼ぶ。「吹雪」と言う。愛しい声が、たしかにこちらに届いている。
僕はそれに返すための名前を知らない。
気がつくと朝だった。目覚まし時計の知らせる時間よりすこし早くにまぶたを開き、僕はゆっくりと身体を起こした。無意識に視線を彷徨わせたけれど彼の姿はもうどこにもなくて、なんとなくさびしい気持ちになる。なんだか奇妙な夢を見たな、と考える。深夜の残像は異様なリアリティをもって僕の脳に焼き付いてしまっていて、一晩中彼の頭を撫でていた手のひらには、まだかすかに温もりが残っているような気さえした。毛髪一本一本の柔らかさだって、僕の意識はまだしっかりと覚えているのだ。
どこか懐かしい手触りは心地よくて、いっそ愉快なほどに悪くない気分だった。「……疲れてるのかな」
身に覚えはなかったけれど、自覚なんてなくたって疲労は勝手に蓄積するものだ。その発散口が悪夢ではなく、むしろ愛しさばかり募るようなまどろみだったことは幸運だろうと僕は思う。
心細げに名前を繰り返すあの子を、出来ることならずっとずっと慰め続けていたいとさえ、僕は感じていたのだ。頭を撫で、背中をさすり、彼の気持ちが落ち着くまで。
「だいじょうぶ」と言う僕の声に、彼が何度かぶりを振ったとしても。
そんなふうに僕はひそかに望むのだけれど、でもあれは一夜限りの幻影で、だから、本当ならもう二度と彼が僕の前に姿を現すことはないはずだった。闇夜に紛れて気まぐれに顔を覗かせた、彼はもうここにはいない。そのはずだったのだ。それが当然でなくちゃいけなかった。
けれどその当然を裏切って、僕の部屋の片隅、テレビモニターの前に置かれたソファの上には、ちょこんと座りこむ小さな姿があった。ソファから飛び出したまま床に届かない両足を所在なげに揺らしながら、彼はまるでよく知った友人の部屋に遊びにでも来たかのように、実に自然なようすでそこにいた。存在していた。
びっくりして固まってしまった僕に気付いたか、俯けていた顔をぱっと上げ、彼はこちらを見た。
「吹雪」
と、昨夜と同じ声で僕を呼ぶ、そこにいたのは小さな子どもだった。幼い手足を持て余すように不自然にソファに腰かけて、不安と戸惑いに揺れるむらさきの両目を瞬かせる。拙い調子で子どもは口をひらく。吹雪、と僕の名前を、なぜだかひどく懐かしいリズムで呼ぶ。
見知らぬ子どもはじんわりと目尻に涙を滲ませていた。大きなふたつの目を揺らしながら、弱く心細げな声で、どうしよう、と彼は呟く。
「どうしよう、吹雪。オネストがいなくなっちゃった」
* * *
小さなころ、知らないおばあさんが家に遊びに来ることがあった。
彼女がどんな姿をしていたか今ではもうよく覚えていないけれど、とにかく優しい笑顔を浮かべたその老婆はいつも気が付いたら家の中にいて、僕や明日香が遊んだり、食事をとったり、眠ったりするのをまるで見守るように部屋の隅から眺めている。知らない人が自分の家にいることを幼い僕は何故だかあまり疑問に思わず、あれはああいうものなのだというふうになんとなく認識して、目が合うとたまに会釈をしたり、苦手な晩ごはんのおかずをこっそり残しているところを見られたときには口にひとさし指を立てて黙秘を頼み込んだりしたものだけれど、結局のところ彼女が僕の悪事を母さんに報告したことは一度もなかった。
当然だ。
たぶん、僕以外誰も、そんなおばあさんの姿なんて見えていなかったのだ。
彼女はいつの間にか、気付いたころにはうちに現れなくなり、僕もそれを当たり前に受け入れていて、小学校にあがって少しした頃ふと、そういえばあの老婆はいったいなんだったのだろう、と思ったときに、なるほどあれはいわゆるオバケというものだったに違いない、と僕はひとり納得したのだった。別に、怖いとは思わなかった。この驚きを誰かと共有したい衝動には駆られたけれど、どちらかといえば気味の悪い話だし、たとえば当事者に当たるはずの明日香に語り聞かせたとしてもただ怖がらせるだけだろうし、この嘘つきめと真正面から罵倒されることはないにしてもたぶんそう簡単には誰も信じてくれない気がするし、というわけで、いまだに僕はこのエピソードを人に語ったことがない。
ただ、一度だけ、彼女の姿はおそらくこの中のどこかにあるのだろうと思って、本棚の奥の古いアルバムをめくってみたことがあった。古びた写真に収まったご先祖さまたち。そこに並ぶ顔ぶれは、けれど予想に反してあの老婆の印象に掠りもしない人たちばかりで、そのときになってはじめて僕はほんの少しだけ背筋が寒くなった。え、じゃああれ本当に誰だったの? と思った。答えはいまだに出ていない。たぶんこの先も一生出ないし、いっそその方がありがたいとさえ思う。
今まで生きてきて、心霊体験と呼ぶことが出来そうなのはこれくらいのものだった。金縛りにあったとか、肩に触れられた気がして振り向いたけれど誰もいなかったとか、夜道で人の視線を感じるだとか、そんなありがちな不思議なら人並みに経験しているけれど、どれもただの勘違い、思い込みや体調不良で片付けられるレベルのものだ。夜道の視線に至っては、僕に惚れこんだ女の子が闇に潜んでいる可能性のほうが高い。モテる男はつらいのだ。
ともかくそういうわけなので、今回のことは僕の人生に於ける第二の心霊体験だった。おぼろげな記憶に残っただけの知らないおばあさんなんかより、よほどリアルで奇怪な出来ごとである。僕の制服の裾を右手でぎゅっと掴みながら、うしろをついてくる小さな子ども。その姿をちらちらと振り返りながら、僕はアカデミア本校舎の廊下をゆっくりと歩いていた。すれ違う生徒たちと、ときおり短い挨拶を交わす。自然にやりとりされる「おはよう」のあとに、誰かが目を丸めて「その子どうしたの?」と聞いてくることを、僕は期待していた。外部の人間が、それもこんな小さな子が無断で島に入ってこられるはずはないし、おそらくは誰かの親戚や、教師陣の子どもかなにかが遊びに来ていて、うっかり僕の部屋に迷い込んだのだろうと、そう思っていた。保護者なんてきっとすぐに見つかると考えていたのだ。
けれどどうやら、その考えは根本から間違っていたらしい。誰ひとりとして、彼のことを訊ねてこないのだ。なるほどこれはあの老婆と同じパターンだな、と僕はやはりひとりで納得し、そして困っていた。恐怖心はないけれど、これだけ明確な異常現象を前に、いったいどう対応するのが正しいのかまったく思いつかなかった。塩でも撒けば良いんだろうか?
子どもの霊は、僕の制服の裾をちいさな手で握りしめたまま、危なっかしい足取りで懸命に後ろをついてきている。まるでそうするのが当然とばかりに、彼は僕と一緒に教室へと向かうつもりでいるようだった。ときおり口を開いては、吹雪、吹雪、と僕の名前を呼ぶ。まるで知己のように自然に渡されるその声は、初対面の幼子から受けているとは思えないほど自然と耳になじむもので、僕はひそかに困惑していた。どういうわけだかわからないけれど、昨日まで彼が僕のとなりにいなかったことのほうが、よほど不自然な状態だったように思えて仕方がなかった。相変わらず、恐怖心は芽生えない。それどころか、拙い足取りでついてくる小さな生き物は無性に可愛らしくて、健気にこちらを見上げてくる大きな目を見ていると僕の頬は勝手にほころんだ。少なくとも、無暗に塩を振りかけるような真似をする気は微塵も起きない。
子どもの方はというと、僕の微笑に嬉しそうにはにかんで、それに気を良くした僕が頭を撫でてやれば、にこにこと笑みを浮かべながら制服を握る手をきゅっと強めた。一連の動作は確かに僕の手のひらに感触を与えているのに、周囲にいる誰も、「その子は誰?」と訊ねてはこないのだった。なぜだろう。彼は間違いなくここに存在しているのに。
ほかの誰も質問しないのなら、せめて僕が口にするべきなのかもしれない。きみはだれ? どうしてここに来たんだい? けれどそれを問うことは何故だかひどく彼を傷つける気がして、僕は結局、さっきから似たような笑みを浮かべるばかりで、なにも核心的なことを言い出せずにいた。僕がにっこりと笑うと、彼も嬉しそうに笑顔を返してくる。ただそれだけのことが、なにか特別な時間をすごしているように幸福に感じられて、僕はそれを壊したくはないと思う。もうずっと以前からこの子は僕のとなりにいたのかもしれないと、そんなことを考える。きっと、僕が気づかなかっただけで、忘れてしまっていただけで、彼はずっとこうやって、僕の制服を握りしめていたのに違いない。
「……疲れてるっていうか、憑かれてるのかな、これ」
くだらない、と自嘲すると、子どもが小首を傾げてこちらを見上げてきた。「吹雪?」と不思議そうに僕の名を呼ぶ。彼はなにを求めているのだろう。僕にしか見えない、僕にだけ会いに来た、この子に僕はいったいなにをしてあげられるのだろう。
今朝、開口一番に「オネストがいなくなっちゃった」と言った子どもに、僕は「オネストってだれ?」と当たり前の疑問を口にした。
「オネストは、ぼくのこと守るって言ってた」
子どもは顔をうつむけ、悲しげに呟いた。「ずっといっしょって言ったのに、いなくなっちゃった……」
その言葉から察するに、彼の求める『オネスト』を探すことが、なにかの手掛かりになるはずだった。映画やマンガの世界では、こういった魂魄は大抵なにかしらの未練や後悔を抱えているもので、それを解決することこそが成仏への第一歩のはずなのだ。どうにも口数の少ない子どもは、いまのところ「吹雪」と僕の名前を呼ぶことだけで満足しているみたいで、機嫌良さげにあとを歩きながら「吹雪といっしょ」と呟いては頬を緩めている。そのようすは実に微笑ましいのだけれど、だからといっていつまでもこんなふうに、ただ僕のそばにいるだけではなにも解決しないはずだった。僕は彼のためになにかをしなくてはならない。そんな気がするのだ。
「ねえ」と立ちどまり声をかけてはじめて、そういえば僕はこの子の名前を知らないのだと気がついた。「……ええと」
きみの名前は?
僕がそれを訊ねるより早く、子どものほうが口を開いた。今までのぼんやりとした口調とは少し違った、はっきりとした声音で彼は「ゆうすけ」と言った。
「優介って、呼んで」
「…………」
ほのかに切実さを孕んだ声は懇願にも近い。唐突に向けられた懸命な主張に僕は一瞬言葉を失ったけれど、教えられた名前は不思議とすんなり心に入り込むものだった。自然と、音が形を作って頭になじむ。
「――優介」
口にしてみるとそれはどこかむず痒くて、なんとなく、なにか間違ってしまったみたいな、妙に物足りないような、そんなふわふわした違和感が胸の奥でこっそりと疼いた。唐突なその感覚に当惑する僕に対して、けれど呼ばれた本人はご満悦らしい。嬉しくて嬉しくてたまらない、というふうに、優介はふふとしあわせそうに笑って言った。「なぁに、吹雪」
僕は膝を折り、子どもと視線をあわせた。
「優介、オネストを探しに行こうか」
「オネストを?」
「うん」
「吹雪は、オネストのいる場所を知っているの?」
とくに期待をしたようすではなく、優介はそう言って首を傾げた。もしも知っているのだとしたら不思議だな、と、そんなふうに考えているみたいに見えた。もちろん、僕は首を横に振る。
「知らないから探しに行くのさ、いっしょに」
「いっしょに?」
そう、と軽く頷いて、僕は優介の手を取った。今までずっと制服の裾を掴んでいた小さな手は、物足りないほどあっさりと僕の手のひらの内に収まって、二人ぶんのぬくもりを共有させる。幽霊なのにあたたかいのだな、と僕は思って、昨夜撫でた彼の頭の、その感触と体温を思い出していた。そうだ、触れればあたたかいのだ、彼は。
僕の言葉に、優介はおどろいたみたいにぱちぱちと何度か瞬きを繰り返していた。つないだ手と僕の顔とを見比べて、交互に見つめてはあからさまに戸惑っている。そわそわと落ち着かないようすで、でも、と子どもは不安げに言った。
「オネストがいまどこにいるのか、全然わからないのに……」
「わからないから探しに行くんじゃないか」
「で、でも、だって、授業はどうするの?」
「一日くらいサボったってどうってことないよ」
「……うう」
「嫌かい?」
問いかけに、優介はぶんぶんと首を横に振った。「いやじゃない」と消え入りそうな声で言う。ほんのついさっきまで幸福そうに緩めていた頬を、見る間に情けなく強張らせてゆく。
優介は俯いて、何度も何度も逡巡するように視線を泳がせてから、オネストに会いたい、と小さくこぼした。こんなに会いたいのに、それでも会えなかったらどうしよう、と、ぎゅっと固まった指先で語った。
落胆を恐れて踏み出すことをためらうなんて、そんなつまらないことはない。希望はいつも個人の内側にあるもので、それは外から訪れる絶望に打ち勝つだけの力を必ず持っているはずなのだ。僕はそれを確認して、改めて優介の手をとった。子どもの体温はあたたかく、まるで彼の存在を証明し、僕にそれを訴えようとするみたいだった。
決して離れないと誓った相手を失う、そんな恐怖を、この小さな手にひとりで抱えさせることなんて出来るわけがない。