彼が泣いている。
がらんどうの部屋の真ん中で、ぽっかりと空いた穴のなかにひとり迷い込んだ子どもみたいにうずくまって、彼がひとりで泣いている。
「どうして泣くの」と僕は言う。「なにがそんなに悲しいの」
彼は僕を見ない。顔を伏せたままで「泣いてない」と虚勢を張る。
「うそばっかり。ねえ、言ってくれなくちゃ分からないよ。なにがそんなに怖いんだい? どうしてきみは震えているの?」
「……吹雪は俺のことが好き?」
「好きだよ」
「だったら分かるはずだ。知っているよ、おまえがいつも俺の不安を見ていたこと。俺の孤独を愛していること。俺が必死に隠そうとした暗闇を、いつだっておまえだけが暴いて見通してしまうこと。だから、ほら、分かるだろう?」
彼は顔をあげた。疲れきったようすで、けれど僕に向かって微笑んでみせた。
「俺はもう平気なんだ。もう泣かなくていい。悲しまなくていい。不安も、孤独も、なにもないんだ」
彼はどこか申し訳なさそうに苦笑した。「なにも持たない俺じゃ吹雪にはものたりないかもしれないけれど」と、冗談めかしたふうにそんなことを言ってみせた。
「ごめん。今まで、たくさん心配をかけたと思う。でもだいじょうぶなんだ。俺はもう平気だよ」
そうしてずっとうずくまっていたはずの彼は自分の足で立ち上がったけれど、僕は彼のその言葉が嘘であることを知っている。いまの僕には彼がまだ泣いていることがわかる。なにひとつ平気なんかじゃなくて、変わらない不安と孤独を抱いたままであることを理解している。けれどこれはただの夢だから、僕の記憶をめちゃくちゃにバラして組み立てて、それらを無理やりに重ねて再生しているだけだから、そのときの自分がほっと安堵の息を吐いてしまうことも僕は知っているのだ。よかった、と愚かなことを口にして、彼の名前を呼んで、それで満足して微笑んでしまうことを知っている。僕は彼のことを好きだと思う。愛おしいと思う。彼が求めた闇はいまだその頼りない身体を堅く包んだままで、夢の中の僕はその気配に気づかないくせにそれでも変わらず彼に惹かれている。彼のことを美しいと思うのだ。薄暗い孤独と不安に支配された彼の、その透明な闇の色が僕には見えない。なにも見えていないくせに、なにも見ようとしないままで、その美しさだけを感じて彼の孤高に触れた気になっている。
僕のその感情を読みとったように彼は笑む。「吹雪なら分かってくれると思ったんだ」と嬉しそうに口にして、それから言った。
「わかるだろう、吹雪。もうだいじょうぶ。俺にはもう、お前は必要ないんだ」
* * *
朝になると優介は僕のとなりでいつものとおり眠っていた。ブルー寮のいやに広いベッドの上、遠く高い位置にある天井を見つめながら僕は考える。夢の中の彼のことを思い出そうとするけれどやっぱりうまくいかず、ただ昨夜の出来事ばかりが蘇った。
廃寮を見上げながら、子どもは放心したように立ちすくんでいた。その場から逃げ出すことも、まして足を踏み入れるようなことも出来ずにただ黙りこんでいる。それをなかば引きずるようにどうにかブルー寮まで連れ戻ると、彼はぼんやりとしたまなこのままでふらふらと室内に歩を進め、棚のうえにおいてあった小箱を手にとった。今まで集めたオネストの羽根を、失くさないようにとしまっておいた箱だった。そっと開くとそのなかはすでにからっぽで、優介は今日降ってきた大量の羽根をほとんど押し込めるように箱に詰め、そうして再びふたを閉じた。
「吹雪」と、僕のほうを見ることなく言う。「いやだよ吹雪。こんなのはいやだ。ぼく、こんな、こんなことがしたかったわけじゃないのに」
「わかってるよ」
「ちがう。そうじゃない。ちがうんだ。オネストはだって、ずっといっしょって、本当にそう言ったんだ。ぼくといっしょにいるって、約束してくれたんだ。それなのにぼく、どうして」
言いながら、優介はその箱に額をこすりつけるようにして蹲った。懺悔するようでも、縋りつくようでもあった。オネスト、と何度か呟き震える彼の声は涙で滲んでいて、僕はその姿から目を逸らしそうになるけれど、それでは駄目なのだ。僕はきちんと見なければならない。これは彼の罪ではない、僕の記憶が生んだ、僕が背負うべき幻影なのだ。
彼の名を思い出せない僕はそのまぼろしを「優介」と呼ぶ。《優介って呼んで》と、そう告げられたことを思い出して、僕だって本当はずっと名前で呼びたかったんだ、とそんなことを今さら考える。僕の呼び声にひくりと喉を鳴らして、それからゆっくりと振り返った子どもは、ふたつの大きな目を涙で溢れさせ、紅潮した幼い頬をひどく濡らしていた。あとからあとから零れてくるそれを僕は優しく指先で拭ってやるけれど、それをするほど冷たい涙は小さな彼の内側に染み込んでゆくような気がした。
優介は無言でしゃっくりあげながら僕の手を受け入れていた。大粒の涙をかわいそうなほどにぽろぽろと零し続けていた彼は、ついに耐えきれないというふうにわっと声を上げて泣き出し、僕の胸に縋りついた。癇癪を起こしたように乱暴に爪を立て、言葉にならない声でなにかを喚いては肩を震わせる。僕の腕の中で、本当に幼い子どもに戻ったかのように彼は感情を曝け出していた。僕はそれを抱きしめながら、はたしてこれは誰の記憶だろうと考える。こんなふうに彼が僕に泣き縋ったことなど一度もなかった。僕は彼の内包する寂しさを何度も見つけたけれど、その孤高に魅せられ、胸を焦がしたけれど、彼の方からそれを僕に晒したことなどなかったのだ。だって結局、僕が彼の本当の望みを聞くことができたのは一度きりで、そのときにはもう、なにもかもが手遅れだったのだから。
《俺はついに見つけたんだよ》
吹雪、と子どもの声が言う。彼と別の姿をした、けれど彼自身が僕の名前を呼ぶ。
「吹雪、やだ、こんなのいやだよ吹雪、こんなふうになりたかったわけじゃないのに。違うのに。俺がほんとうにほしかったのは、こんなのじゃない。俺はただ、俺は、わ、わすれたく、なくて」
いやだいやだと繰り返しかぶりを振って、優介は声をあげて泣いた。助けてほしいと言った。何度も僕の名前を呼んで、全身で悲痛な叫びを漏らす彼を、僕はただ抱きしめていた。力の限り引き寄せてここにとどめておかないと、今すぐにでも彼はここからかき消えて、再びあの恐ろしい闇に溶けていってしまいそうだった。
「だいじょうぶ」と僕は言う。
《俺、吹雪のそばにいていいの?》
「だいじょうぶ。きみは、ここにいていいんだ」
ちがう、そうじゃない。僕はここに、彼にここにいてほしいのだ。いっしょにいたかったのは僕のほうで、失いたくなかったのも、忘れたくなかったのも本当は僕のほうなのだ。泣き出したかったのも、彼に縋りついて子どものように喚きたかったのも、オネストのカードを探したかったのも本当は僕だ。僕が望み、願ったのだ。どんな姿でも良いからもう一度会いたい、名前を呼んでほしい、あの頃のようにまたいっしょに過ごしたいのだと、そう希ったのは僕だった。
亡霊は彼の代わりに僕に抱きしめられて、彼の代わりに泣いていた。彼がそうしなかった分、僕が気づけなかった分、すべてを請け負って肩を震わせ、痛々しいほどに震えていた。「こんなのはいやだ」と僕の後悔を吐きだし、「たすけて」と僕が彼から聞きたかった言葉を何度も何度も繰り返した。
こんなもの、他の誰にも見えなくて当然だ。
この子は全部、僕が求めたものだったのだ。
僕の名前を繰り返して泣きじゃくる優介は間違いなく過去の亡霊で、僕の希求と悔恨が重なって出来たただの残像だった。彼そのものではない。本当の彼はもうどこにもいないし、このままじゃ僕らは二度とふたたび会うことはない。
気でも触れたかのように僕は「だいじょうぶ」と繰り返すけれどその言葉にもう意味なんて含まれていない。僕が安心したいがためだけに放たれる「だいじょうぶ」に彼を救う力なんてあるわけがない。それを自覚しながらそれでも僕は呪文のように何度もそれを唱えて言う。「だいじょうぶ、ここにいていいんだ」
優介はその言葉にけれどやっぱりかぶりを振って、それでも僕の手を拒絶することはせず抱きしめられたままだった。
目を覚ました優介は、しかし昨夜のことなどなかったかのように当たり前にまぶたを開き、ぼんやりと寝ぼけた表情で僕を見つめた。「おはよう吹雪」
彼はちいさくあくびを漏らし、まだねむい、もっと寝ていたい、とぶつぶつ呟きながら緩慢な動作でベッドを抜け出す。洗面所から戻ってくるころには寝起きの顔もいくらかまともになって、まだベッドに腰掛けたままで動けないでいる僕を見つけると、彼は「もー」と窘めるような声をあげた。
「だめだよ吹雪、はやく準備しないと朝ごはん間に合わなくなっちゃう。ほら、顔洗って、ちゃんとしないと」
「……優介」
「なぁに?」
きょとんと首を傾けて優介は僕を見上げた。本当になにもなかったみたいに、涙の痕跡なんてかけらもないきれいな顔のうえで、むらさきの両目がぱちぱちと瞬く。その仕草が愛らしくて、僕の頬は心情を裏切るように勝手にほころんだ。「きみの夢を見たよ」と言うと、彼は「ああ」と得心したふうに頷く。
「いつもの、吹雪の変な夢?」
「そう。本当はつらくて悲しくてたまらないはずのきみが、けれどその感情に蓋をして、僕とさよならするための準備をする夢さ」
「……」
「これだけヒントを与えられても、僕はまだきみのことを思い出せずにいるよ」
僕がそう言うと、優介はなぜだか少し愉快そうに笑った。情けない発言に呆れたようにも、仕方がないことだと諦めを促したようにも思えた。大人びたその表情の向こうに僕は彼の姿を見つけるけれどそれはやっぱり夢のようにおぼろげで、感情ばかり渦巻くくせに記憶にはなにひとつ掠りはしない。頭が痛い。額を抑えて俯いた僕を、優介は心配そうに眺めやった。
「もうやめにする?」
心細げな声でそんなことを言う。僕は首を振った。まさか、と返した。
「そう簡単に投げ出したりしない。最後まで、きちんと見届けるさ」
言うと、彼は「わかった」と頷いた。柔らかく、けれど憂いを含んだ声だった。
「だったら早く顔を洗って、支度しよう。ほら吹雪、今日の一時間目は実習なんだから、早くしないと」
そんなことを僕に言うくせに、彼は教室には現れない。オネストを求める意味を失った優介に、授業の一環としてのデュエルを鑑賞する理由なんてもうあるわけがない。一時間目のはじまるころには彼は忽然と姿を消してしまっていて、僕は、またか、と思う。彼はときどき、こうやって唐突に授業をサボるのだ。入学してすぐのころなんかはとくに酷く、あんまり教室に姿を見せないものだから、彼をクラスメイトと認識していないような生徒さえ少なからずいたくらいだった。ひとりきりでふらりと姿を消して、思い出したように現れる。実技はあまり好きではないらしく、いつだって居心地悪そうに衆目に立ち、しかし態度とは裏腹に大胆な勝利を収める彼を、孤高の天才と呼んだのは誰だったろう。なにも背負わず、なにものにも属さず、なにを与えられることも望まない。己の才だけを守るように抱きしめ佇む、彼の姿はひどく美しく思えた。
その気高さと不安定な存在感を僕は愛したけれど、彼から孤高のレッテルを剥がしたのも僕だった。最近授業が楽しいのだと、いつか彼はそう言っていた。
《誰かと競うことがこんなに楽しいなんて知らなかった》
ふたりのおかげだよと言って彼は笑んだけれど、ふたりというのははたして誰と誰のことだったろう。
昼休みになっても一向に姿を現さない彼を僕は探しにゆくことにする。居場所の見当くらいは大体つくのだ。僕は空き教室をのぞき込み屋上へと足を運び、彼のお気に入りの避難場所を巡ってまわるけれどしかし彼はどこにもいない。もしかすると部屋から出ていないのかもしれない。最近の彼はどうにもそういう傾向があって、詳しいことを話してはくれないけれどどうやらなにかの研究に没頭しているようなのだ。何者かに追われるようにかき集められた資料のたぐいで埋められた彼の部屋は鬼気迫っていて僕は少し心配に感じるのだけれど、知的好奇心に素直に従う彼のその一途さには好感を持っていた。妙に閉鎖的に秘匿された研究内容に関してさえ、孤高の天才にはきっとふさわしい題材なのだろうと、そんなふうに考えて強く言及せずにいた。
僕は深呼吸をする。
もう使われていない、とうに破棄され、廃墟と化したかつての僕らのすごした寮へと歩を進める。
優介はきっとそこにいるだろう。彼の部屋を僕は覚えていない。彼とそこですごした日々を、僕はまだ明確には思い出すことが出来ない。けれど、きっとそこにいるのだろう。人目を避けるように森の奥に建てられた特待生寮は僕の目にはしかしかつてと同じ白く豪奢な洋館に映る。まるで写真でも眺めるように、僕の両目は古い記憶を呼び戻している。
けれどこれは虚像ではない。記憶を再び映しているだけで、僕は幻影を見ているのでも過去に遡っているのでもないのだ。彼を探しにきた、ただそれだけで、それこそが唯一の真実なのだった。授業をサボって部屋にこもっている、彼を引っ張り出すために僕はここまでやってきた。
のんびりと歩を進めて僕は寮門をくぐり僕らの家に足を踏み入れる。ただいま、と小さな声で言う。おかえりと返す声はないけれど、それは当然だ。いまはもう午後の授業がはじまっていて、ここには誰もいないのだ。僕と彼以外の誰も。
階段を上り廊下を抜け、僕は彼の姿を探して歩く。自然な足取りで辿りついた彼の部屋の扉を叩き、返事がないことに首をかしげる。眠っているのかな、と考える。最近の彼はどことなく眠たげな顔をしていることが多いので、いま起こしてしまうのはかわいそうだなとも思うし、同時に日中に眠ることでまた夜間眠れなくなるのではないかなと心配にもなる。僕はすこしためらって、もう一度だけ扉をノックして、そうして気づく。鍵が開いている。
僕は驚いてドアを開いた。だって、彼は自分自身の部屋を、プライベートの空間を、とても大切にしていたのだ。まるで結界でも張るかのように、ここが最後の要塞だとでもいうふうに、いつも頑なに扉を閉ざした。過剰なほど神経質に鍵を閉め、いつだって人を拒んでいた。僕や亮が彼の部屋に招かれるようになるまで半年もかかったのだ。あのとき僕がどれほど嬉しかったか、一度開いた扉がその後何度も開放されて、僕がその領域に入ることを許されるたびどれほど喜んだか、彼の孤高に忍び込むことの出来る自分をどれほど誇りに感じていたか、きっとだれも知らないだろう。僕のほかにだれも、あのときの僕の気持ちを理解できない。覚えていてはくれないのだ。
その彼の扉の鍵が、ほんの一部にしか明かされなかったはずの不可侵の場所が、こんなにも杜撰に放置されているわけはない。なにかが起きていることは間違いなく、そして、慌てて飛び込んだ部屋の中にはなにもなかった。
そこに僕の知る彼の名残はもうどこにも、なにひとつ残されてはいなかった。
僕は愕然と室内を見渡し、その惨状を理解しようと必死に頭を働かせていた。倒壊した家具、床一面に描かれた意味不明の記号の羅列、散らばった紙切れにはなにか言葉のようなものが並んでいるけれどそれらに目を通す気にはなれず、散乱した紙束に手を伸ばして読みとることの出来る言語を探す。断片的に記述された字列は間違いなく彼自身の手で書かれたもので、見慣れた丁寧な筆跡が記す文面に僕は戦慄した。明らかに常軌を逸した内容を、しかしひどく冷静な文字が淡々と描くさまには狂気さえ覚えた。
そこには彼の研究のほんの一握りしか書かれていなかったはずだ。その闇の真相は、彼がどうしてその結論に到達したかのプロセスは、僕の目に映る範囲にはどこにも記されていなかった。
それでも僕はこのときたしかに理解したのだ。彼の感情を、彼の思いを、彼が頑なに隠してきた本当の望みと抱え続けた恐怖を。すでに彼は僕を必要とはしておらず、ただ、闇に溶けることだけを唯一の希望としていることを。
僕は彼の研究にひととおり目を通し、そしてそれらを投げ捨てた。彼を探さなければならないと思った。ここに書かれた儀式を彼は実行するのだろう。今すぐにでも、ダークネスという暗闇にすべてを捧げ、この世界からいなくなってしまうつもりに違いない。
あの日の僕はそれを止めなければならない。
駆けだした僕は自分がどこへ向かうべきなのかをすでに知っていた。廃墟の廊下は崩れて瓦礫にまみれ、足場が悪いせいで何度か転びかけたけれどそれでも立ち止まることはせず彼の姿を探す。彼がどんな恰好をしていたか、どんな顔でどんなふうに笑い、そしてどんなデュエルをしていたか、なにひとつ思い出せないくせに、彼を失うための舞台だけは嫌になるほど理解している。特待生寮の地下に備えられた決闘場はあの日とまったく同じかたちで僕を迎え入れ、そしてその中央には子どもがひとり佇んでいた。
大きなふたつの目をぱっちりと開き、なにが起きているのだか理解できないというふうに幼子はただそこに突っ立っている。僕の姿を見つけ、安堵したふうに頬をゆるめる。吹雪、と僕を呼ぶ。僕を見ている。
彼は誰なのだろう。
「思い出せた?」
子どもはふふと笑ってそう問いかけた。僕が頷くことなどありえないと、そう知っているようすだった。いじわるななぞなぞをしかけて楽しんでいるようにも見えたし、諦念に包まれてついに希望を手放してしまったようにも見えた。僕が首を横に振ると、彼はやっぱりとでも言いたげに軽く肩を竦め、それから口を開いた。「もう終わりにしよう」と言った。
「これ以上こんなことを続けても仕方がないよ。お前は俺を思い出せない。思い出す必要だってない。だってそうだろう? 自己満足では俺を救えない。今さらなにかを変えることなんて出来やしないんだ」
「……そうかもしれないね」
「そうだよ」子どもはほほえんだ。「だって吹雪が言ったんだよ。ぼくのこと、幽霊だって。吹雪の中では、ぼく、もうとっくに死んじゃってるんだ」
そのとおりだ。
彼は死んでしまったのだ。
闇を望んだ彼はとうに僕の手の届かない場所に行ってしまっていて、二度と会うことが出来ないのなら死んでしまったのとおんなじだ。僕は彼を助けたいと思うけれど、終わってしまった過去に向けてどれほど叫んだところでなにも変わらない。亡霊は虚しく僕の言葉を聞くだけで、そこに生まれるものはなにもない。
これで最後にしよう、と彼が言う。僕の愛した声音で、孤独をまとうのにはあまりに優しすぎる、美しい孤高からの囁き声で。
「もう俺のこと、手放して良いんだよ、吹雪」
いやだ、と僕は思う。そんなのは絶対にいやだ、と首を振る。
こんな結末は決して認めない。
僕らの日々が、あんなにも楽しく充たされていたはずの過去が、こんな醜い後悔で途切れてしまうなんて悲しすぎる。あの日の僕はこの景色を否定して、彼に手を伸べて救いたかったのだ。「行くな」と言って、彼の名前を呼んで、それから、本当の永遠はここにあるのだと伝えたかった。
きっと彼は知らないのだろう。僕らはだれも、決してひとりぼっちにはならないということを。たとえ少し離れてしまったとしても、いつだって、三人でまた笑いあうことができるのだということ。闇の底はどこまでも空っぽで、虚ろの場所で手にした力なんて結局はなんの意味もないということ。僕らを導く灯は、いつだってこの島で帰りを待っていてくれるのだということさえ。
そんな簡単なこと全部知らないままで、そのせいでこんなところまで到達してしまった。虚無が携えた永遠なんて、ばかげたものを求めてしまった。
僕がいまこうして立っている、この道の先にあるものこそが本当に彼を救うのだ。闇なんかでは届かない。絶対に、そんなところへ行っても彼が求めたものはなにひとつ手に入らないのに。
僕はきみをこの未来につれて来たかった。なにも恐れる必要のない場所に、きみといっしょに来たかった。
だいじょうぶなのだと伝えたかった。
どこにも逃げなくたっていい。僕はきみに、ただここにいてほしかったんだ。
「僕はきみを手放したりしない。なにがあっても。もうぜったいに離さないって、そう決めたんだ」
言って、僕はゆっくりと彼に近づいた。子どもはじいと、どこか咎めるような目で僕を見つめていた。
「その『きみ』が誰なのかもわからないくせに?」
「ああ」
「俺がそんな未来を望んでいなかったとしても?」
「望むさ。きっと、きみは望んでいたはずだ」
「……」
子どもはすこしためらいがちに、けれどこくりと頷いた。そうだったのかもしれない、と、ひどく曖昧な口調で呟いた。
「それでも人は変わってしまう。変わってしまったら、もう戻れない。この場所がこんなふうに廃壊しまったように。丸藤がもう二度と、あの頃と同じ姿でこの島に帰ってくることがないように」
「変わってしまったらそれでおしまいなのかい?」
問いかけに、僕は自分で答えた。そんなことはない。終わりなんて、そう簡単には訪れない。僕はあの頃の僕らを、かつての日々を、あの日完膚なきまでに朽ち果て終幕を迎えた悲劇のように思ってしまったけれどそうじゃない。続いているし、繋がっているのだ。僕と彼はなにも途切れていない。
彼は無感動に僕を見つめ、それからかすかに目を細めた。「けれど、お前はまたすぐに俺のことを忘れてしまうよ」と言った。
「そういうルールなんだ。もっと大きな力でないと曲がらない。こんな、ほんの少しのほころびで全てがほどけるほど、ダークネスの闇は浅くはない」
「……」
「もう、どうにもならないんだ。時間は戻らないし、お前は俺を救えない。終わってしまった出来ごとを再生して再現してみせても、結局はもう一度、闇に溶けて消えてしまうだけなんだから」
彼はそう言って皮肉げに口の端を上げたけれど、その表情は僕ではなく自分自身をあざ笑うようで、どことなく、変えようのない現実を目前に辟易しているようにも見えた。
そんなふうに世界を蔑みながら、「忘れるために何度も思い出すなんてばかげている」と彼は言ったので、だったらきっと、僕はいずれまた思い出すのだろう。たとえすべてが明確にならなかったとしても、それでも何度でも、変わらず彼のことを想うのだろう。
この痛みを抱えたままですごすのだ。もう死んでしまった、いなくなってしまった、顔も名前もわからない彼を、けれど僕はたしかに愛しているのだから。
終わりは刻々と近づいていた。亡霊は黙したままで僕を見つめ、あの日の彼とおなじように穏やかな笑みすら湛えていた。とろとろと空間を侵食する、闇の気配が彼にはひどく心地よいもののようで、そのようすに僕はまた眩暈を覚えていた。縋ってでも彼を止めたいと強く願うけれど、本当の彼がもうここにはいないことも僕はきちんと理解していて、だから、湧き上がる気持ちを抑えてただ前を見ていた。彼との最後の記憶を再生していた。
僕はそれに手を伸ばさない。
だって、まぼろしにばかりこだわっていては、いずれ真実さえ見逃してしまう。
それではいけないのだ。僕は彼を、彼の本当の姿と声を、きちんと思い出さなくてはならない。もっと正しい形で、こんな独りよがりな方法ではなく、失くした記憶をもう一度取り戻さなくてはならないのだから。
そう分かっているのに、それでもやっぱり寂しくて、最後まで見届けるなんて豪語したくせに再び彼を忘却するその悲しみに僕は耐えられそうにない。当然だ。本当は、なにひとつ忘れたくなんてないのだ。あの小さな優介とすごした時間がたとえどんな茶番だったとしても、虚しいだけで、なんの意味もない空っぽの日々だったとしても、僕はたしかに楽しかったし、嬉しかったのだ。彼ともっと、ずっといっしょにいたかった。
だから僕はその沈黙を破って「ねえ」と言う。優介、と、子どもではなく彼の名前を呼ぶ。
「忘れてしまう前に、ひとつだけお願いがあるんだけど」
僕の申し出に、子どもはかすかに首をかしげた。なに、と妙におさない仕種で僕を見つめる。そのようすが可愛らしくて僕は笑んだ。また彼に会いたいな、と心から思った。
「もう一度だけ、僕の名前を呼んでくれないか」
言うと、彼は思いもしなかったことを告げられたように何度か瞬いて、それから何故か少し恥ずかしそうに眉を下げた。なにを改まって照れているのだろう、と僕はおかしく思うのだけれど、どうやら彼は本気で言い淀んでいるようで、ひとしきり躊躇いのようすを見せたあとようやく、ひどくかすかな声で「天上院」なんて言う。
「そっちじゃなくて」
「……」
ん、と喉を詰まらせる彼はもうとっくに子どもの姿を失っていた。僕と同じくらいの背丈で、見慣れたいつもの白い制服を着ていた。むらさきの目を泳がせて、にこにこと微笑む僕の目の前に立っている。まるで生きているかのように、たしかにここに存在している。
かたく唇を結んだ彼は、しかしようやく意を決したふうに口をひらいて、
「……吹雪」
そう言った。
その声の内側にはきっと、僕らの過ごした時間がきちんと意味を持って横たわっているはずだった。互いに関わった日々を通して感情は成長する。彼の声は失われることなく、あの頃と変わらないままで僕のもとに届く。
けれど僕は、それに返すための名前を知らないのだ。
あの日と同じ闇に溶けて、彼は僕の目の前からいなくなる。世界から、僕の記憶から、姿も名前もすべて消し去って、永遠の暗闇に逃げ込んでしまう。
僕にそれを止めることはできない。過去に閉ざされた出来ごとに、今の僕はひとつだって干渉できないのだ。僕の言葉は本当の彼にはなにひとつ届きはしないし、僕はもう、彼に関わるすべてのことを覚えていられない。
ただ後悔だけが残る。その感情だけが僕を彼のいる場所につなぎ止めていた。僕の足下、薄暗く広がる地面の上には仮面がひとつ転がって、冷たい闇をまとったそれは僕と彼の罪を混ぜこんで一枚のカードになる。
僕はそれを拾い上げて、それからなにかを呟いた。無意識に口から零れたそれはたぶん彼の名前だったのだろうけれど、僕はもうそれを忘れてしまっていたので、どうしてこんなところにひとりでやってきたのかさえ、すでに覚えてはいなかった。