やわらかな傷痕 - 4/6

 久しぶりに顔を合わせた親友に対して、亮の見せた顔といったらそれはもう酷いものだった。
 彼の暮らしているマンションの場所は知っていた。手紙を書くからと言って卒業前に聞きだしたのだけれど、結局は電話やメールの方が手軽だからと僕はいまだ一通も出さないままで、そしてそんな紙の束を送りつけるより先に結局は自らの指でインターホンを押したのだった。さすがにプロデュエリストの住まうマンションらしく、エントランスでは強面のお兄さんから剣呑な視線でもっていくつか質問を浴びたけれど、別にやましいことがあるわけではないので平然と僕はそれらに受け答え、ついには青春をともに過ごした心の友と感動の再会を果たしたのであった。
「…………」
「ぐんもーにん!」
 とびきりの笑顔であいさつした僕に、亮はあからさまに奇怪な生き物でも呆れ見るような視線を向けながら、しかし律儀に「おはよう」と返してくれた。「なにかあったか?」
「遊びに来たのさ。なんとなく、顔が見たくなったから」
「……そうか」
 授業はどうしただとか、どうやって抜け出してきただとか、そういった野暮な質問を亮は投げかけてはこなかった。ただかすかにようすを窺うような目で僕を見つめ、それから小さく嘆息した。「あがれ」とだけ言って、踵を返して部屋に入ってゆく。「おじゃまします」と機嫌よくあがりこむ、僕のとなりでは小さな子どもがきょろきょろと視線を彷徨わせている。
 丸藤亮にさえ、優介の姿は見えないのだ。僕にはそれがとても意外で、なんだか少しだけ残念な気持ちになる。きみにだって見えるはずなのにと、一方的に裏切られたような妙な落胆を感じている。ひとり暮らしの部屋は広くて、整頓されたキッチンに向かった亮はお茶を二杯いれてテーブルに置いた。僕と亮のふたり分。僕は思わず優介を見るけれど、彼は別になにかを気にしたようなようすはなく、僕のとなりにちょこんと腰かけてぼんやりと亮を見つめていた。僕はまた不自然な悲しみに満たされそうになるけれど、でも、そんなふうに意味もなく落ち込むためにここに来たわけではないのだ。
「朝食はもう取ったか?」
「ううん、一応、船の上で軽く食べたけど。え、なに、きみが作ってくれるのかい?」
「まさか。突然来ておいて、そんなサービスまで期待するな」
「だよねえ」笑いながら、きちんと連絡を入れてから訊ねていたなら彼は朝食を用意してくれたのだろうかと考えたけれど、おそらく電話口では訪問許可は下りなかっただろう。だからこそのサプライズなのだ。僕のよく知る丸藤亮は、遠路はるばるやって来た友を冷たい言葉で追い返すような人物ではない。
 僕らは向かい合って適当に会話をして、優介はそれを黙って眺めていて、平日の午前なのに授業にも出ずこうやってすごしていることが僕には不思議に思えてくるけれどそれは当然だった。今はもう、授業に出る必要があるのは僕だけなのだ。亮は午後から仕事の予定が入っているらしく、それじゃあ僕は夕方の船でアカデミアに戻ろうと決める。陽が暮れるころには帰らないとね、と言うと、亮は少し目を細めたけれど、それは僕の呑気な発言に呆れたのではなくなにか眩しいものを見つけて眺めているような表情だった。「懐かしいな」と彼は言った。
「早朝の貨物船で街へ出て、夕方の船で島に戻る。典型的なパターンだ」
「僕らの定番コースだったもんね。思い出すなぁ、授業サボってふたりで何度か出かけたよね」
 思い起こせば、アカデミアきっての天才と呼ばれた僕らが揃って勝手に島を抜け出すなんてとんだ不良行為だ。僕自身はともかくとして、この生真面目な友人がよくもあんな暴挙に出たものだなぁと、思い出を手繰る僕は思わず感心したけれど、しかし亮はというとかすかに瞠目し怪訝そうな顔をした。僕の顔をまじまじと眺め、彼は言った。「俺は授業をサボったことなど一度もないが」
「……そうだっけ?」
「ああ、何度かお前に連れられて島を出たことはあったが。そういうときは常に休日を選んだし、そもそも、ふたりきりではなかったはずだ」
 誰かと勘違いしているんじゃないか。
 亮はそう言ったけれど、その誰かというのが誰なのかは彼にもよく分からないみたいだった。僕らはふたりして首を捻り、僕のとなりでは、優介がそのようすをただ黙って眺めていた。
 僕が近況を語り、亮がそれに相槌を返す、ただそれだけの時間が淡々と流れていった。朝食のサービスはなかったけれど昼食は用意してくれるらしく、いったいなにが出てくるのかと期待した僕にしかし亮は出前のメニューを差し出し、好きなものを頼めと言う。
「普段から食事はデリバリーなのかい?」
「いや、適当になんとかしている」
「適当になんとかって、白米だけとかパンだけとか、そういう適当でしょ」
 僕の指摘に、亮はそれがどうしたと言わんばかりの真顔で「外食で済ませることも多いな」とだけ返した。この男の偏食も変わらないものだなと呆れかえると、となりで優介が苦笑いを浮かべているのに気がつく。放っておくと甘いものばかりを食べたがる彼に、はたして亮を笑う資格があるのだろうか。思いながら、けれど敢えて口にはしないまま僕はメニューを開いた。「どれがいい?」と訊ねてやると、子どもは案の定、デザートの欄に載っているチョコレートパイを物欲しそうな目で見やっていて、そのあまりの分かりやすさに僕は思わず噴き出した。
「どうかしたか?」
「ううん、なんでもない」
 優介は僕が笑った理由に気が付いたみたいで、すこしバツが悪そうに顔をしかめると、「これにする」と今度はチキンライスを指した。僕はやっぱりおかしくて、亮は真顔で、優介はちょっと拗ねたような顔をしていた。
 早めの昼食は注文してすぐに届けられ、僕らのとなりで優介もいっしょに食事をとっているけれど亮にはやっぱり彼の姿が見えないみたいだった。チキンライスは減っていくのに、僕は優介に「おいしい?」と語りかけるのに、その全部が亮の目にはまるでひとつも映り込んでいないらしい。
 優介はというと三人ですごす時間が素直に楽しいようで、さっきまでの拗ねたようすなどなかったみたいに機嫌よくお昼を平らげたあとは、ただ僕らの会話に聞き入っている。椅子の上で幼い両足をぶらぶらと揺らしながら、亮のことを見て、僕のことを見ている。幸福そうに笑んでは、ときどき、小さな声でなにかを言う。
 そうやって嬉しそうな優介に、僕は微笑んだ。「ほらね」と言った。
「その気になれば、いつだってこんなふうに、また三人で集まることが出来るんだ」
 優介はそれを聞いて、一瞬だけ泣きだしそうな顔をして、それから頷いた。「そうだね」と、そう言ってなんとなく寂しそうに微笑む彼は、僕が頭を撫でたあの夜、静かに首を振り続けたのとよく似た表情を浮かべていた。

 亮は最後まで僕がなぜやって来たのかを訊ねはしなかった。「なにかあったか」と最初に言ったきり、僕がそれに「遊びに来たのさ」と返したきり、彼はそれ以上のやりとりは不要だというふうにただ僕のおしゃべりを聞き入れてくれるので、僕は嬉しくてつい調子に乗ってしまいそうになるけれど、それに比例するように時間は刻々と過ぎてゆく。僕らは結局デュエルの話ばかりをしていて、それはほとんど昨夜見た夢と同じような光景で、ほら現在の僕らだってあんなふうに眺めるばかりじゃなく過去の僕らと同じに笑いあって語り合うことが出来るじゃないかと、誰にともなく言い聞かせるようにそんなことを思って僕は満足する。
 帰り際、別れ道の途中で「また来てもいい?」と訊ねると、亮は思ったよりあっさりと「好きにすればいい」と言った。「出来れば、あらかじめ連絡くらいは入れてくれ」
「連絡したら来るなって言うだろう?」
「……卒業してからならなにも言わんさ」
 亮は皮肉げに笑ってそんなふうに言って、僕と、それから優介を送り出した。またね、と手を振ると、軽く頷き返してくれる。僕らは手をつないで船着き場へと向かおうとしたけれど、歩を進めるうちに優介が急に振り返った。僕の手を離して、まるでなにかを思いついたかのような唐突さで亮のほうへと駆けもどる。子どもの足で数歩、跳ねるように亮へと近づいた優介は、すでに背を向けた彼をその両目でじっと見つめていた。決してこちらを見ることのない、声の届かない友人へと、それでもなにか言いたげにくちびるを開いては閉じる。亮は振り返らない。背中はどんどんと遠くなる。
 優介はそれを残念そうに眺め、そうして結局、
「……バイバイ」
 それだけを口にした。足元にふわりと降って来た、オネストの羽根を拾い上げてから彼はふたたび僕のもとへと駆けもどる。「行こう、吹雪」そう言って僕の手をとる彼は、決して満足気ではないけれどどこか吹っ切れたような顔をしていて、僕はやっぱり、亮に優介の姿が見えないことを不思議に思う。どうして見えないのだろう、と憤慨さえしたくなってくる。きみになら見えるはずだろう、見えないわけがないだろう、そんなふうに詰めよりたくなるけれど、でも、仕方がないのだ。本当の優介はここにはいないのだから、亮に彼を視認するすべはない。彼の姿がこんなにも見えている、僕のほうがおかしいのだから、本当は。
 僕らは手を取って来たときと同じ船で同じ海を渡って同じ島に戻る。僕らの帰るデュエルアカデミア。僕らの居場所。薄暗くなりはじめた空の下では、遠くに灯台の灯りが見えている。僕らはそれを道しるべにゆっくりと帰路を運ばれて、やがて正しい軸のもとに収束するのだ。悲しい留年生の僕は真面目に授業を受けるし、優介はどこにも存在できない。僕らはオネストを探して明日もふらふらとふたりで彷徨って、そしてまた眠りにつく。優介の心臓は遠くにある。頭上に広がるこの夜空より遠いどこかに、ぽつんとひとり置き去りにされて、けれど今もまだ、正しいリズムで脈打っている。
「あの灯台が僕を救ってくれたんだ」
 波間に揺れる甲板に座り込みながら、疲れたのか、眠たげにまぶたを擦っている優介に、僕はおとぎ話でも語るような口調でそんなことを言う。亮と明日香、大切なふたりが照らしてくれた僕の帰り道。その灯りが眩しく、懐かしくて、あの闇の色を思い出す。
「あのころの僕にはなにもなかった。ただ虚無の闇の中でもがいているだけ、空っぽだったんだ。なにも見えなくて、ただ薄ら寒いだけだった。その闇の底で唯一僕を導いてくれたのがあの光で、だから僕はいまでも、あの灯台を眺めるのが大好きなんだよ」
 きれいだろう、とその灯を指すと、優介は眩しさを堪えるみたいに目を細めた。なにかを嫌悪するような視線にも思えた。
「吹雪」
「なんだい?」
「吹雪は、帰りたかった? 暗いところは、嫌だったの? 嫌いだった? あの光が呼ぶ方へ、ひとりで帰って、それが一番しあわせだった?」
「もちろん、そうだよ」
「……」
「しあわせかどうかと聞かれたら、僕はいつだって今が一番しあわせなんだ。だから、あの場所でもそれはそれで、ひょっとしたら楽しかったのかもしれないけれどね。でも、僕の本質はあそこにはない。あそこじゃ、僕は生かされない。だからこそ、ここに戻って来られたんだ」
「……そう」
「うん。僕はね優介、いまこうやって、きみとあの島に帰ることが出来るのが、なにより嬉しいよ」
 微笑むと子どもは俯いた。陽の翳った海の上で揺られながら、僕は彼の背中を撫でた。
「だいじょうぶだよ」と言う。
「だいじょうぶ、オネストを探そう。優介。きっと見つかるさ」

* * *

 けれどそう簡単に探しものは見つからない。羽根だけを降らせるオネストは、それでもその姿をいっこうに現しはしないままで、放課後の僕らはやっぱりなんの手がかりもなく、ただのんびりと島の中を歩いて回るだけだった。優介が誰にも見えないのと同じようにひょっとしたらオネストも僕らには見えない姿をしているのではないだろうかと僕は思いはじめるけれど、それを言うと優介は珍しくムッと怒りを滲ませた。
「ぼくには見えるもん」と言った。「オネストはぼくといっしょにいるって言ったんだから、ぜったいに見えなくなったりしないもん」
 その言葉を聞いて僕は考える。僕に優介の姿が見えるのも、ひょっとしたら彼の言うのとおなじで、つまり僕は優介といっしょにいるとそう言ったから、約束したから、誰にも見えないはずの彼にこうして触れることが出来るのだろうか、と思う。いっしょにいると誓えば、本当に、ぜったいに見えなくなったりしないのだろうか。忘れないのだろうか。
 優介は相変わらず僕のそばでくっついて、吹雪、吹雪と僕の名前を呼んで、昼間はいっしょに授業を受けて夕方にはオネストを探してふたりで歩いて、夕食を食べて、僕の宿題を覗きこんでは時々びっくりするほど的確な助言を口にした。夜は僕のベッドで眠る。朝になると目を覚ます。僕は夢の中で呼んだ彼の名前を毎朝思いだそうとするのだけれどやっぱり覚えていなくて、結局彼を優介と呼ぶ。「朝だよ。おはよう、優介」というと、眠たげにまぶたを持ちあげながら優介も「おはよう」と言う。
 僕がとなりにいることを確認して安堵するように頬を緩める優介のことを僕は心から愛おしいと思うけれど、この気持ちがどこから来ているものなのかは分からない。愛情に出口も入り口も存在しないはずなのに、僕は彼との関係に理由や根源を求めている。優介のことを好きだと思う。触れていられると嬉しいし、会話をしていると急に涙が出そうになる。彼の笑顔が見たいと思う。けれど本当はそうではなくて、僕がこの愛情を本当に向けたいのはこの小さな子どもではなく、もっと他の誰かなのだ。その誰かとはおそらく夢の中に出てくる彼のことで、優介の言葉の端々から突然訪れるあのフラッシュバック、脳を抉るように再生されるあの声の持ち主のことなのだ。
 僕は彼のことを忘れている。
 それが誰なのかは分からないけれど、記憶からすっぽりと抜け落ちている人物がたしかにいる。僕はその誰かのことが大切で、大好きで、たぶん僕らは屋上や放課後の教室やこの島のいろんな場所で語らい、笑いあってすごしていたし、時々は島を抜け出して船に乗って街へ出た。食事を一緒に食べたし、宿題をしたし、デュエルのことや勉強のことや将来のことや、いろんなものを共有して同じ時間をすごしたのだ。
 それらをなぜ忘れてしまったのかはわからない。けれど、たしかに彼はここにいた。
 名前も思い出せないけれど、それでも僕は彼と過ごした時間を覚えている。優介はその、僕の記憶の残像が作りだした存在で、いわば彼の分身のようなものなのではないだろうか。

「へえ。じゃああれって結局のとこ、幽霊とは別なのか」
 僕の憶測を聞いた十代くんは、そう言って、やっぱりなぁとでも言いたげに頷いた。
「なんかおかしいと思ってたんだ」
「幽霊より突拍子もないこと言ったつもりなんだけどね……」
「いやー、どっちもどっちって感じだぜ?」
 決然ともっともなことを言い、十代くんはけれど呆れるでもなく、まして僕の妄言をばかばかしい切り捨てることもなく受け答える。親身になって相談に乗る、というような真面目なスタイルでは決してないけれど、それが逆に心地よくて僕は彼に優介のことを話す。
「十代くんが言ったように、僕はこの子のことを知っているんだと思う。細かなことは思い出せないけど、それは間違いないはずなんだ」
「なるほど。で、吹雪さんはどうすんの?」
 どうするのかと訊ねられても、僕に出来ることなんて知れている。
 優介は僕の膝の上でうとうとと浅い眠りについていて、僕はそのちいさな頭をやさしく撫でてやりながら、この子のそばにいるよ、と言う。優介の求めるもの、彼の探している大切なひと。それを見つけ出すことこそを彼が望むのなら、僕は彼のとなりでその気持ちを守ってやらなくちゃならないはずだった。このやわらかくあたたかな子どもはおそらく彼の感情そのもので、だったら僕は、どうしたってこの子を失うわけにはいかないのだ。
 むにゃむにゃと子どもの口から寝言のような言葉が漏れる。薄く開いたくちびるから吐息といっしょに僕の名前が聞こえてくる。「ふぶき」と、舌足らずに名前を呼ぶ。
《吹雪》
 記憶を探ると頭が痛んだ。けれどその痛みを代償に彼のことを思い出すことが出来るのなら、僕はこの苦痛をずっと味わうことになっても構わないと思うのだ。割れるような頭痛によって掻き乱される記憶の糸、それこそが忘却の罰だというのなら、いずれ僕の罪は贖われるのだろうか。
「……どうして忘れてしまったんだろう」
 こんなにも大切に思うのにな、と呟く。僕の制服を握りしめたまま、幸福そうに眠る子どものまぶたがゆっくりと開いた。視線が宙を見つめる。オネストの羽根が降ってくる。
 とろんとした表情のままで片手を伸ばし、優介はそれを受け止めた。
 オネストの羽根は日に日に降る頻度を増し続けていた。それは僕が彼の記憶に触れるたび、いつだって答えを示すように舞い降りたけれど、最近はもうなんの前触れもなく、ただ自分の存在を訴えるため優介のもとへと現れているようだった。オネストはなにかを思い出させようとしている。僕の確信とその決意を待ちわびていたかのように、羽根はいよいよ僕らを急かし始める。十代くんと別れてからも、僕らの前には再びひらひらと羽根が輝いて、それを拾い上げて顔をあげると今度はすこし先の空間にまた落ちてくる。オネストはどうやら僕らを導いているようで、その唐突なアプローチに僕は困惑するけれど優介は無邪気なものだった。どんぐりでも拾い集めるかのように、はしゃいだようすで追いかけて回る。教室の隅から廊下を抜けて、エントランスの脇を通り、僕らは校舎の外へと運ばれてゆく。
「どうしたんだろうね、オネスト。こんなにいっぱい落としたら、オネストの羽根、なくなっちゃうかもしれないのにね」
 そうなるまえに見つけないと。優介はひとり頷きながらそう呟き、道の端に落ちたかけらをまた拾い上げた。
 薄暮に包まれはじめた放課後の島のうえで、空から降る光の粒は美しく輝きながら優介をどこかへ手招いている。楽しげにそれを追いかける、優介の背を見つめながら僕は彼を追い、そうして考える。これはなんだろう。これからなにが起きようとしているのだろう。不安や不審よりはるかに漠然とした暗がりの気配が立ちこめているけれど僕は優介を止められない。彼がそこにたどり着くより先に、その名前を思い出して、手をのばして、そちらは駄目だと伝えたいのにそれができない。頭がじりじりと痛んだ。ふらついた足取りで、僕はただ優介の小さな背を見失わないよう懸命に歩を進めていた。
「……優介」
 名を呼ぶと、子どもはようやく振り返って首を傾げた。その手にはたくさんの輝く羽根が集まって、夕暮れのなかで彼の幼い姿をおぼろげに光らせていた。「なぁに、吹雪?」
「そろそろ帰ろう。もう、暗くなってくるよ」
「ええ、どうして? だって吹雪、オネストがぼくのこと、呼んでるかもしれないんだよ? あ、ほら、また」
 言いながら、子どもは再び駆けだした。数メートル先、ふわりと大地に落ちた羽根を拾い、嬉しげに僕に見せながら、ね、と微笑む。彼は本当になにも気付いていないのだろうか。この道の先でなにがあったのか、僕らがこれから見せつけられる現実がどれほど酷いものか、本当に理解していないのだろうか。
「たぶん、見つけてほしいんだよ、オネストは。そうでしょう? ぼくのこと、呼んでるんだ」
「……」
「吹雪?」
 不思議そうに僕の顔をのぞき込む、子どもの幼い仕種はけれどなぜか懐かしくて、僕はまた目眩を覚えて俯いた。優介は僕の手にそっと触れる。ほんのちいさな力で、それでもたしかに僕の指先を握り、それから、行こう、と言う。
「いっしょに行こう、吹雪」
 僕は頷いた。ああ、と感嘆のような返答だけを静かに口から漏らし、どうにか優介の手を握り返した。もう二度と、この手を離すものかと決めていた。再び歩きだした僕らの道の先、オネストの示す真実の向こうにはこの島の深淵が広がっている。かつてこの場所に存在した、いまはもう終わりを迎えたはずの、大きなひとつの闇。鬱蒼とした森の奥。いつか僕らがともに過ごしたはずの思い出の建物は瓦礫の城と化して、けれどいまも変わらずそこに佇んでいた。
「……」
 優介は押し黙って、無残に荒廃した特待生寮を見上げていた。時間に流され、ただの過去となり果てた、かつての僕らが帰った家。すでに形さえ残していない寮門を前に立ちすくむ子どもの、その足下にひらりと羽根が落ちる。
 どうして、と彼は言った。
「ここは違う。ここはぜったいに違うのに」
 そうだ、こんなところにオネストがいるはずはないのだ。ここに彼の希望があるわけがない。あってはいけない。ここにはもう、すでに失われた、最悪の形で終わってしまった僕らの物語が、ただ埋もれて冷たく横たわっているだけだ。
 だから僕はここに来なかった。オネストを求めて島中を歩き回ったけれど、この場所だけは決して探しに来なかったのだ。
 どうして忘れていたんだろう、と僕は思う。
「どうして忘れていたんだろう」と優介が呟く。
 か細く震えながら、彼はまるで子どものものとは思えないような、いやに鮮明な口調で言った。まるで本物の彼がこの場に忽然と姿を現し、そんな自分に驚き狼狽しているかのようだった。
 オネストはもういない、と彼は言った。
「だって、俺が言ったんだ。オネストなんかもう必要ないって」
 傾いた陽が彼のちいさな身体を塗りつぶしてゆく。それを拒むように、子どもの手の中で天使の羽根だけがきらきらと輝きを放っていた。

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