そうやって僕らはふたりですごすようになった。朝が来て、昼を過ごして、夜になればふたりで眠った。優介のちいさな身体は広いベッドの上で丸まって、ほとんど僕の抱き枕みたいになりながら夜毎すやすやと安定した呼吸を繰り返していて、僕はそれに耳をすませながら毎晩のように夢を見る。一晩中くっついているせいで優介から心臓の音が聞こえないことに気付いてしまったけれど、やっぱり怖いとは思わない。血液を循環させる力を失った彼の身体がなぜこんなにあたたかいのか、それだけが少し不思議で、僕は自分の心臓が彼の一部になっているような気がしてくる。僕の鼓動で彼の生命が繋がっているように思えてくる。そんなバカなことを考えているせいで僕の見る夢はなんだかしっちゃかめっちゃかで、たとえば鮮烈なピンク色の血管の内側になぜかとろとろと蜂蜜のような溶けだしたチョコレートのような甘い物質が入り込んでいて優介がそれを夢中で舐め取っているのを見つけた僕はびっくりするのだけど、どういうわけか気がついたら僕もその甘い蜜をぺろりぺろりと舐めはじめてあっという間に夢中で貪るようになってしまって、こりゃあミイラ取りがミイラだなぁとまるで他人ごとのように考えながらへらへら笑っている夢だったり、がらんどうの部屋のまんなかで蹲った彼がなにやら僕の知らない人の名前を何度も何度も呟くので僕はそれが気に食わなくって、こちらを向いてほしいからたくさん声をかけているうちに自分でも誰を呼んでいるのだか段々わからなくなってきてしまって、「ばか吹雪、それ俺じゃないよ」といつの間にか背後に立っていた優介に叱られてようやく僕は自分が全然知らない誰かに懸命に語りかけていたことに気がつくのだけれど、でもその誰かのことも僕は優介と同じくらい好きなんだから仕方ないよ、と自分自身に言い聞かせて慰めているような内容だったり、優介が泣いている夢だったり僕が怒っている夢だったり、かと思ったらふたりでずっと楽しく笑っていられるような内容だったりもして、そんなふうに訳のわからない夢ばかりを見ている僕に対して現実の優介は辛辣だ。
「吹雪の夢、変だよ」
まったく、僕もそう思う。
けれど言葉とはうらはらに、毎日僕の夢の話を聞かされる優介のその表情は案外楽しげで、彼の機嫌が曇るのは物語のなかに自分の名前が出てこないときだけだった。僕の見る夢には大抵彼が登場していたけれど、まったく影も形も見当たらない日もまれにあって、そんなとき優介はむっと眉を寄せて無言で「つまんない」と訴えるのだ。僕はそのようすを愛らしく思うので、彼が出てこない夢も嬉々として語って聞かせる。最後に「僕もきみの夢が見たかったよ」と言うと子どもの機嫌はすぐさま直る。
ブルー寮の広い食堂で僕らは毎朝向かい合って食事を取った。相変わらず優介は誰にも見つからないままで、周りには僕がひとりごとを言っているように見えるのだろうかと思うとほんの少し気がかりだけれど、ひょっとしたらそもそも僕の姿自体がみんなにはあまりよく見えていないのではないかな、と思うようになってくる。べつにそれでも良いか、といい加減に考える。誰に見えなくたって、彼といっしょに食べる朝ごはんがとてもおいしいのには変わりないのだ。
朝食を終えてからは日中を教室ですごすようにしていた。いくらなんでもそう毎日授業を抜け出してオネスト探しに歩きまわるわけにはいかないし、だからといって彼をひとりにするのもつまらないので優介は僕の膝の上でいっしょに授業を受けている。
明らかに年齢に不相応な学力を備えている彼は僕よりよほど真面目に先生の話を聞いていて、ときにはこちらの間違いさえ指摘してくるので正直ちょっと立場がない。これでも僕はデュエルアカデミアきっての天才と呼ばれていたんだよ、とまるで言いわけするみたいに僕が言うと、優介はくすりと笑った。
「過去系なんだ?」
問いかけに、僕は頷く。
過去系なんだよねぇ、と自虐的とも取れるふうに笑うと、なぜか優介も自嘲するような笑みを浮かべる。
僕らは過去系になってしまったけれど、卒業してなおその名に傷ひとつ付けることなく君臨しつづける帝王がいた。在学生たちからはもちろん、すでにその羨望の眼差しはアカデミアを飛び出して、世間一般の多くの人たちからも一心に彼へと向けられる。カイザー亮はこの小さな島だけの存在ではなくなって、今はもう、テレビの中のひとりのスターだった。
勉強熱心な優介は僕の宿題を覗き見ながら就寝前の時間をすごす。子どもらしくアニメーションや教育番組でも見たほうが良いのではないかな、と思った僕がテレビのリモコンを渡してやると、彼はそれをどう扱ったものか思案するようにじいっと見つめ、おそるおそるというふうに電源を入れた。興味深げに画面を覗き見る子どもの姿はなんだか滑稽で、あまりテレビは見ないのかと訊ねると、こくこくと何度か頷きながら、優介はしかしアニメもバラエティもドラマもざっと眺めただけですぐに放送局を変えて、結局はプロデュエルの中継チャンネルに釘付けになってしまった。
「優介は本当にデュエルが好きだねぇ」
僕が言うと、優介はなにを今さらと言いたげな顔をした。「好きじゃなかったら、デュエルアカデミアに来たりしてないよ」
そりゃそうだ、と僕は思う。同時に、部屋の片隅にふわりとオネストの羽根が舞い降りた。優介は慌ててそれを拾い上げ、嬉しそうに微笑む。「今日はふたつめだね」と、その鮮やかな色の美しい羽根を、自慢げに僕に掲げて見せた。
ときどきなんの前触れもなく現れる、その羽根はおそらくオネスト探しの大きなヒントになるはずだった。優介の手元では複数の羽根がきらきらと輝いていて、それらはすべて、決して失くすことのないようひとつの小箱に収められていた。宝物みたいにそれを眺める優介の表情は柔らかい。はやくオネストが見つかれば良いのになと僕は思う。
テレビの向こうでは丁度、人気の高いプロのデュエリストが大手を振って登場したところだった。ここ一、二年で急に台頭してきたらしい、大手企業が力強くバックアップを行っていることで有名な人物だった。至るところで見かけるその顔が鮮やかなスポットに照らされ、俄かに会場が湧きあがる。そのようすをきょとんと眺めながら、優介はちいさく、知らないひと、と呟いた。勉強熱心なわりに流行には疎いらしい。僕はテレビの中のその人物を紹介してやろうと口を開き、けれどすぐに「おや」と言った。画面に映ったその姿を前に、先のデュエリストのことなどあっという間にどうでも良くなった。
司会者の昂る声に導かれ、現れた対戦相手は丸藤亮だったのだ。ほんの数カ月前までこの島で暮らしていたはずの友人が、煌びやかなライトの中で歓声を浴びるさまを眺めるのは妙にくすぐったい。見慣れた横顔がモニターにアップで映されるのを見て、僕は嬉しくなって優介に「ねえ」と話しかけた。
「いま映っている彼、このデュエリストはね、この学園の卒業生で、僕の親友なんだ」
自慢の友を指差してにこにこと笑んだ僕に、しかし優介はきょとりと目を丸めた。
「知ってるよ?」と、いやにのんびりとした口調で返す。
「……」
「? へんな吹雪」
なにを当たり前なことを言っているのだろう、とでも言いたげに優介は小首を傾げ、それから再びテレビ画面に向き合った。今が旬の相手デュエリストには見覚えがないのに、デビューしたばかりの亮のことはよく知っているという。子どもの興味の矛先が理解できずに僕は戸惑ったけれど、でも実際に間違っているのはこちらのほうで、優介の言うのこそがきっと正しいのだということも、僕はなんとなく理解していた。テレビを見る。色彩を撒くモニターの中には紛れもない現実が映り、いまこの瞬間も動き続けている。
当たり前だけど、画面の中の亮は僕らのことなど見向きもしない。ただカードだけを手のうちに、屹然と佇み相手を見据えている。尊重と敬意を決して損なわない孤軍の帝王。昔から変わらないその姿勢を、彼はプロとして活躍する今も貫いていた。一部のひとの目には愚直に映ることさえあるかもしれない、その高潔さが僕は昔からとても好きで、好きなはずなのに、なぜだか足元が覚束ない。優介の両目が亮を見ている。世界を飲みこみ、咀嚼するように瞬く。むらさきの目に見守られながら、丸藤亮は静かに、けれど確実な勝利を収めていた。
「すごいね、丸藤」と優介が呟く。
「いまもこんなに、こんなふうにまっすぐ強いんだ。すごいね」
その声はなぜだかひどく遠くに聞こえた。優介の言葉に交わるように、《丸藤は強いな》と記憶の奥の方で彼が言う。《俺はあんなふうにはなれない》そう言ってむらさきの目を伏せる。亮みたいになりたいのかい、と僕が問うと、そういう意味ではないんだとあいまいに笑った。その姿があまりにきれいで僕はたまらない気持ちになる。警鐘めいた愛しさが喉元にまでこみ上げる。僕は彼の抱える優しく脆い暗闇の気配に惹かれている。
ふと気がつくと、「吹雪?」と彼が、現実の優介が僕の顔を覗きこんでいた。どうしたの、どこか痛いの、と不安げな眼差しに見上げられ、僕はようやく顔を上げた。頭が割れるように痛むのに不思議とそれが苦痛ではない。テレビの中では、亮が会場から去ってゆくさまが映されていた。勝者の背に大袈裟なほどの歓声が響く。その退場を見届けてから僕はゆっくりと深呼吸をして、それから、心配そうにこちらを見つめる優介に微笑んだ。
「平気だよ。ごめんね、心配かけちゃったね」
「……吹雪」
なにか言いかけたらしい優介の言葉を遮るように、僕は彼を抱き寄せた。ちいさな子どもの身体は腕のなかに収めるにはやっぱりちょっと物足りなくて、触れているのに寂しくて、僕は優介にどうかここに戻って来てほしいと請いそうになるけれどそれを伝えても彼を困らせるだけだと分かっているので口を閉ざす。余計なことを言ってこの子を失いたくはない。突然の抱擁に優介は驚き、戸惑ったようすでおずおずと僕の名前を呼んだ。吹雪、と、その幼さに見合わない切実な声音で彼は呟いた。
「吹雪、さみしい?」
「……ああ」
「ぼくも」
言いながら、優介は僕の胸に身体を擦りよせた。どれほど近づいても彼の心音は聞こえない。僕は自分の心臓がこの子のために動いているようだと思うけれど、実をいえばその考えはそもそも僕の一方的な願望で、彼の心臓は止まっているのではなくここにないだけなのだ。本当の優介は僕の手の中ではなくもっともっと遠い場所にいて、彼はこれ以上こちらに寄ることは出来ないので僕が向かうしかない。彼のいる場所に行かなければならない。本当に本物の彼を抱きしめるためには。
「吹雪。ねえ、この世界はとても、とてもさみしいね」
ときどきなにも見えなくなるんだ、と優介は言った。はたしてそれはたしかに優介の声なのか、それとも僕の記憶のどこかに沈んだ誰かの声なのか、いまの僕には判断がつかなかった。子どもは僕の腕の中で何かにしがみつくようにちいさく丸まっている。細い肩を強張らせて、悲しく顔を伏せている。
「いっしょにいたいと願っても消えてしまう。どれほど好きだと言っても忘れてしまう。身体は脆くて、儚くて、そんな命の連鎖で構成されている世界がさみしくないわけがない。だから見えなくなるんだ。ううん、見えないようにしてしまう。なにも見なければ、少しは苦しいのが紛れるから」
だから、と彼は穏やかに微笑んで続けた。《だから俺、みんなといっしょにいるの、好きなんだ》
「けどだめなんだよ。見ないだけではなにも変わらない。時間は止まらないんだ。いつか吹雪も、その手を放してしまう。ここには誰もいなくなる。みんなひとりぼっちになっちゃうんだよ」
「……そんなことは」
「ないの?」優介はぎゅうと縋るように僕の服を握りしめた。それを口にすることで、自らを傷つける覚悟を決めたようだった。嗚咽を堪えるように喉を詰めて、心を守るみたいに身体を縮めて、それでも彼は言った。でも、と、自身の訴えを、この世界を包む真実を証明するみたいに。
「でも、丸藤はいま、ひとりだよ」
つけっぱなしのテレビ画面では、もうとっくに別のデュエリスト同士の闘いがはじまっていて、亮の姿はどこにもない。彼はひとりきりでどこかへ帰ってゆく。知らない人々の熱い視線に見送られ、帝王然と歩を進めながら、けれど彼の戻って来る場所はここではない。あんなに長く、本当に無意味なほどに長く、長く、僕らのそばにいたはずの丸藤亮は、もうこの場所には帰ってこないのだ。
それはとても、とてもさみしいことのはずだった。亮はひとりきりなのだろうか。僕や彼がいま、ひとりきりで過ごしているように、ここを離れた亮もさみしくひとりでいるのだろうか。
優介はその景色に怯えるみたいに身を強張らせてしまっていて、僕はこの子の見つめる物悲しいイメージを拭い去りたいと思うのだけれど上手く言葉が見つからない。そんなことはないよと、亮はいまごろスポンサーとかマネージャーとか、ひょっとしたらデュエルを通して親しくなった新たな友人たちと、楽しく夕食でも食べながら今日の試合について議論でも交わしているに違いないさと、そんな釈明を投げかけるのは簡単だけれど、その想像はきっと一層この子を悲しませる。僕は彼を傷つけたくない。泣かせたくない。安心して微笑んでいてほしいのだ。そのためになにか、僕にはなにかが出来るはずなのだった。
僕のほうから抱きしめたはずなのにいつのまにか優介のほうが僕に抱きついているような姿勢になってしまっていて、僕はそのすこし力を込めただけでポロポロと崩れてしまいそうな脆弱な身体を、まるで押しとどめることで正確な形を保とうとするかのように腕の中に閉じ込めている。閉じ込めながら、ひとつ決めた。彼のために僕が出来ることのひとつを確信し、同時に考えた。はたして僕らはいまでも親友と呼び合える友なのだろうかと、そんな答えのわかりきったつまらないことを、なんとなく自分に確かめるみたいに問いかけた。
* * *
その夜の夢で、僕らはまだ入学したばかりの一年生という設定だった。僕は亮とふたり、机を挟んでカードを広げてむつかしげに話しあっている。その場には優介もいて、けれど僕は彼のことを優介ではなく別な名前で呼んでいるので、どうやらその人物は優介ではない別の誰かのようだった。彼は親しげに僕らの手元を交互に覗きこんではなにか意見を口にして、僕らはそのアドバイスが的確であることに舌を巻き、暮れなずむ空を窓の向こうに背負いながら言葉を交わす。
さながら青春ドラマのワンシーンのようなそのようすを、現在の僕は他人事みたいに少し離れた場所から眺めていて、そこからまた少し遠い場所にはどうやら現在の亮が立っているようで同じように一年生の僕らを眺めている。もうひとりの彼の姿はない。過去の僕らは三人で、現在の僕らはひとりと、そしてひとりだった。
目を覚ました僕は隣で丸まって眠っている優介に声をかける。一瞬、夢で口にしたはずの彼の名はいったいなんだったろうな、と考えるけれど、思い出せないので僕はやはり彼を「優介」と呼ぶ。「優介、朝だよ。おはよう」
子どもは重たげにまぶたを持ちあげて、寝ぼけまなこで僕を見やる。おはよう、と口の中でもごもごと言ってから、彼はしかし、不思議そうに窓に視線をやった。外はまだ薄暗い。時計はまだ、日の出の時刻を指してすらいないのだ。
「吹雪、まだ夜だよ」
「もうすこしで夜はおしまいだよ。朝が来るんだ。行こう、優介」
まだぼんやりとした表情で眠たげに目をこする優介をどうにかベッドから連れ出して、僕は彼の手を取って部屋を抜け、寮を出た。早朝の空気に朝陽の近付く気配が混じる。どこへいくの、と不審そうに訊ねる優介に、僕は微笑んだ。朝一番で港から出る貨物船に彼とふたりでこっそり忍び込んでから、「僕の親友に会わせてあげる」と言った。
「彼がひとりなんかじゃないってこと、教えてあげるよ」