チャイムとともに生徒たちが教室に吸い込まれてゆくのを確認した僕らは、誰にも見咎められないように人気の少ない場所を探してこそこそとしていた。崖っぷちとまではいかなくても、悲しき留年生の僕は本来なら授業をサボっている場合じゃない。優介にはああ言ったけれど、ダークネスから復帰して以来真面目に勉学に励んできた僕にとって、これは実に久しぶりの怠業なのだった。それこそ、入学したての頃の経験がものを言うというものだ。
最初のうちこそ僕の手を力強く握って、ただひたすら縮こまっていた優介は、けれど次第に人目を避けての移動が楽しくなってきたらしい。気付けばまるでかくれんぼでもするみたいに、きょろきょろと視線を彷徨わせては落ち着きなく僕の名前を呼んだ。「ねえ、吹雪、吹雪。あっちの部屋には入れないのかな?」
その子どもらしい感情の切り替えのすばやさがおかしくて僕はくすくすと笑ったけれど、彼はそれを見上げるとかすかに首を傾げ、「吹雪はいつも楽しそうだね」と、どことなく大人びた口調でそんなことを言うのだった。
「オネストっていうのは、どんな人なんだい?」
「オネストはやさしいよ」
「見た目は?」
「おおきくて、あったかくて、ええと、髪がながくてふわふわで柔らかくって、とっても目がきれい」
優介が指折り数え上げる『オネスト』の特徴は不明瞭だ。予想はしていたけれど、そう容易く見つかる相手とは思えなかった。少なくともアカデミアの生徒ではないようだし、いったいどんな立場の人物なのか、子どもの語る言葉だけでは想像もつかない。
「あ、あとね、きれいな羽根が生えてるよ」
とどめにこう来たものだから、僕は思わず肩を落とした。どこをどう探せば見つかるのだか、これではさっぱり分からない。
そもそも幽霊の探し人なのだ。この世のものと決めてかかること自体が間違っている、と僕は自分の菲薄な想像力を叱咤した。少なくとも、世間一般の視点で見ていては、きっと『オネスト』は見つからない。
はたして天使か、それとも妖精か、おそらく『オネスト』はいずれこの子を天国へと導く、そんな役目を担った存在なのだろう。何にせよ優介はその人物に全面的な信頼を寄せているようで、彼が「オネスト」とその名を口にするとき、なんだか僕の名前を呼ぶのよりも随分と親しげなように聞こえて、それに気付いた僕はちょっとだけ、ほんのちょっとだけ不服に思う。同時に、変なの、と思う。『オネスト』は彼とずっといっしょにいたのだ。これからもいっしょにいると、そう約束した相手なのだ。今朝出会ったばかりの僕よりはるかに近しい存在に、親しみを込めて接するのはあたりまえのことじゃないか。
「優介は、オネストがこの学校の中にいると思う?」
その問いかけに、子どもは迷うことなく頷いた。
「オネストはぼくのそばにいるって、言ってたもん」
彼がそう言うのならば、学内のいたるところを余すことなく見て回り、羽根の生えたきれいな目の人物を探し出してやろうじゃないか。そんなふうに誰にともなく決意を固め、僕は優介と手を繋いだまま、真昼の校舎を歩きだした。
「オネスト? オネスト、いる?」
小さな声で呼びかけながら、優介は室内をそろそろと移動する。最初は僕の手を決して離そうとしなかった彼は、しかし次第に慣れてきたのか、おそるおそるだった足取りを段々と早め、いつの間にか自ら率先して歩き回りだしていた。はたしてどの辺りが探索条件に当てはまるのだろう、とその動きを観察していると、からっぽの会議室の中で彼は、机の下や物影を覗きこみ「オネスト?」と囁いて回りはじめる。まるで小さな落としものでも探すみたいなその動作を眺め、なるほど天使ではなく妖精のほうか、と僕は判断した。着せ替え人形ほどのサイズの、羽根の生えたきれいな目の妖精を想像する。自然と脳裏に思い浮かんだ『オネスト』は、ティンカー・ベルのようにキラキラとまたたいては幼い優介の周りをふわりふわりと飛び回っていた。この世のものとは思えない光景だけれど、個人的にはこの手のロマンティックは嫌いじゃない。
優介はまるで不注意で紛失してしまったカードでも探すみたいに、低い位置ばかりを見て回っている。それを真似るように僕が身体を屈めると、けれど彼はぱっと顔を
あげて、「吹雪はうえのほうを探して」と言った。「そのほうが、効率がいいから」
もっともな指示である。僕は苦笑し、はいはい、とその言葉に従って立ち上がった。なんとなく、窓の外を見る。かすかにくすんだガラス窓の向こうから、午前中のまだ少し弱い太陽の光が入り込んで、床に近い位置にいる優介のちいさな身体を照らしている。
その姿が陽にかき消されずにいるのを確認し、僕は不思議と心の底から安堵して、それから嬉しくなって微笑んだ。本当はここにいるはずのない優介、闇の向こうから溶けだしてきた亡霊のはずの彼が、そのくせ陽気の下で当然に存在していることが、どうにもおかしくって仕方なかった。理由はわからないけれど、こうして授業をエスケープして、彼とふたりでいることが、僕には楽しくてたまらないのだ。
思わずくすくすと笑っていると、優介は振り返りこちらを見上げ、吹雪、となんとなく拗ねるような声を出した。「なにがそんなにおかしいの?」
「さあ? 自分でもよくわからないんだ。天気が良いせいかな、なんだかとても気分が良い」
「ふうん」と優介はやはり小首を傾げ、それから、「オネスト見つかるかなぁ」と誰にともなく呟くように言った。
「見つかるさ」
「ぼくのこと、忘れてないかなぁ」
「だいじょうぶだよ」
また不安に俯きがちになる優介の、その小さな頭を撫でてやる。同じ言葉に、昨夜かぶりを振り続けた彼は、けれど今度は嬉しそうに目を細め、うん、とひとつ頷いた。
「吹雪がいっしょだもん。きっと、すぐに見つかるよね」
ふと、『オネスト』を見つけたとき彼はここから消えてしまうのかな、と考えた。それは嫌だな、寂しいな、と感じながら、僕は再び彼とともに探し人を求めて歩きはじめる。次第に空の真ん中に昇ってゆく陽光が暖かくて、ずっとこうして優介といっしょにいたいなと強く思ったけれど、それが不可能なことにもなんとなく気がついていたので、口には出さず祈るだけにとどめた。願いごとは人に話してはいけないものなのだ。心に隠しておかないと、簡単にどこかへ逃げ出してしまう。
広大なアカデミアの校舎内を子どもの脚で歩いて回るのは、思った以上に膨大な時間がかかった。正午を過ぎたころには優介は見るからに疲れはじめていて、休憩がてら売店につれてゆくと、彼は当然のようにドローパンを選んで頬張った。甘いショコラを引き当てて「これが一番好き」と頬を緩める。そのちいさな身体のどこに仕舞い込んだのか、あっという間に平らげて、吹雪、吹雪、と優介は呪文のように僕の名前を繰り返した。先ほどまで覗かせていた疲弊は、ショコラといっしょに飲みほしてしまったのだろうか。「吹雪、ねえ、行こう。早く、早く」
彼は僕の手を握りしめ、導くように引っぱって歩きだす。まるで目当ての場所でもあるようだけれど、どうやらそういうわけではないらしく、「次はどこを探せばいいの?」と探索の主導権をあっけなく僕に引き渡しながら、優介はにこにこと笑んでいた。なにがそんなにおかしいの、とさっきは呆れてみせたくせに、自分のほうがよほど上機嫌じゃないか、と僕は言いたくなるけれど、おとなげないのでやめておく。なにより、彼が笑っているのを見るのは、僕だってとても嬉しいのだ。
当てのない僕らは目的だけを手にふたりでふらふらと彷徨って、陽気な昼下がりの校舎を楽しげに並んで歩く。オネストを見つけるどころか、手掛かりさえ一向に掴めないままで、それでも焦るようなことはしないでのんびりと過ごしている。亡霊と手を引きあっている僕はもしかしたらこのまま死んでしまったりするのかな? と少し不安に思うけれど、その考えに見て見ぬふりをして、ただ彼との時間を楽しんでいる。
僕らは屋上へと向かう。オネストに羽根が生えているのなら、ひょっとしたら彼はどこか高いところにいるかもしれない、とそんなふうに考えた結果なのだけど、でも実をいうと単純にこの場所が、かつて一年生だったころの僕らのお気に入りのスペースだったからというだけなのかもしれなかった。
校舎のてっぺんは柵に囲われていなくて、そのかわりというふうに高く青い空にすっぽりと覆われている。誤って足を踏み外せばまっさかさまだし、なにも誤らなくたって少し強い風が吹けば優介のちいさな身体はふわっと浮き上がってそのままころころと転がって、あっという間に空中に放り出されてしまいそうだった。ひゅうひゅうと爽やかに吹き抜ける、微かに潮の気配を含んだ風の音を聞きながら、僕はひそかに懸念した。こんな小さな子を連れてくる場所ではなかった。優介はすでに島の景色を見渡しながらはしゃいだ声をあげていて、仕方がないので僕はその身体に手を伸ばし、彼をひょいっと抱きあげる。いっそ面白いほど簡単に、小さな優介は僕の腕のなかに収まってしまった。驚くほど軽い。
「わ、わ、わ。なに、吹雪、なに?」
「あんまり端に行ったら危ないからね。風もあるし」
「へ、平気だよ。気をつけるから、降ろして」
「だめ」
即答に、優介は不服そうにくちびるを尖らせた。子ども扱いしないでよ、と不平らしきものをぶつぶつと漏らす、そのようすがかわいらしくて僕は少し調子に乗って、抱え上げた子どもの柔らかな頬に自分の頬を擦りよせてみる。ちいさな子の肌に触れる機会なんてそうそうないから、なんだか新鮮でおもしろい。優介は嫌がるかと思ったけれど、決してそんなことはなくて、それどころか、大きな両目を気持ち良さそうにやんわりと細めてみせた。
「吹雪の顔、すっごく近いね」
言いながら、物珍しげに片手でぺたぺたと僕の頬に触れてくる。見上げるばかりだった視線が近い位置で合うのが嬉しいのだろう。僕の耳元に鼻先をこすりつけてはふふふと笑う優介に、「近くで見るといっそうカッコいいでしょ」と言ってやると、彼はぱっちりと目を丸め、うーん、と唸るようにかすかに首を傾げた。
「吹雪は、どこから見てもカッコいいよ」
「残念だけど、俺には今の吹雪さんはロリコンの変質者に見えるぜ」
随分と嬉しいことを言ってくれた優介の、そのせっかくの言葉をまるで遮るようなタイミングで、聞き覚えのある声が投げて寄こされた。僕はぎょっとして、優介はやはり不思議そうに目を丸める。
僕らから少し離れた場所、屋上に生えた長い柱の影から、見慣れた赤い制服がむくりと起きあがった。
「うわっ、いつの間に昼休み終わったんだよ。誰か起こしてくれよなぁ、もう」言いながら身体を伸ばし、いかにも寝起き一番ですというふうな表情で、遊城十代は僕らを見上げて両目を何度か瞬かせた。いつもと変わらないようすでにっと笑い、彼はなんの疑問も持たない素振りで僕に向かって軽く手を振ってみせた。
「よっ、吹雪さん。それどうしたんだ? 隠し子か?」
「…………」
「いやいや冗談だぜ? いくら俺でも、吹雪さんの年でそんなサイズの子どもがいるはずないことくらい計算できるって」
呆然とする僕をからかうみたいに彼はへらへらと笑みを浮かべていたけれど、しかしこちらからの反応がないことを不審に思いはじめたか、視線は次第に訝しげなものへと変化していった。「げ、ひょっとしてマジなのか? 図星?」と挙動不審に陥る十代くんに対し、僕は誤解をとくより先に言った。
「……見えるのかい?」
優介は状況を飲みこめないふうに僕と十代くんを交互に見比べ、それからぎゅっと、しがみつくように僕の身体に抱きついてきた。十代くんの目は明らかに優介を追っている。今まで誰にも見えなかった子どもの霊を、遊城十代は視認している。
驚きのあまり硬直したままの僕に、けれど十代くんは、は? と意味を計りかねるように首を傾げ、それから、「なぁ吹雪さん、真面目に聞くけど、その子どうしたんだよ。誘拐? 隠し子?」と、本当に真面目な顔で言った。
「俺としては、後者のほうがまだマシかなって感じなんだけど」
僕の話を聞き終えた十代くんは、へー、ほー、と興味深げに目を瞬かせながら何度か頷いた。感心するようなそのようすは、けれどどちらかというと物珍しいものを観察するふうで、どうやら僕の話は彼からすればそう突拍子のないものではないらしい。
「幽霊ねぇ……」と呟いて、まじまじと優介を見つめている。「全然、そんなふうには見えないけど」
僕らは屋上の隅に座り込んでいた。時刻はとうに真昼をすぎて、まだ高い位置にある太陽は、けれどこれから私はどんどんと沈んでゆくばかりですよ、とでもいうふうに思わせぶりな調子で輝いている。優介はまるで身を隠すように十代くんに背を向け僕の胸に顔を伏せていて、なんだか怯えているようでもあったので、なんとなく慰めるみたいに僕はずっと彼の背中を撫でている。なるほど、こんなふうに幼い子どもに、それも自分とはまったく関係のない赤の他人の子に対して過剰なスキンシップを図れば、傍目からはもれなく変質者という誤認を受けてしまうらしい。世知辛い世の中だ。
十代くんはふむふむと優介を眺めていて、触って良い? と何故か僕に確認を求めてから、けれど返事を待たないまま手を伸ばした。とたん、優介は素早く彼の手から逃れ、まるで僕を盾にでもするように今度は背中にしがみついてしまう。どちらかというと人懐こい性格のように思えていた優介のその態度に、僕は少し驚いて言った。
「どうしたんだい、十代くんが怖いの?」
問いかけに、優介はしかしふるふると首を横に振る。両手で僕の背に縋りついたまま、耳元でちいさく、知らないひと、と呟いた。思ったより人見知りをするのだな、と思いながら、僕は苦笑した。「ごめんね十代くん、慣れない相手は苦手みたいだ」
「慣れない相手って、吹雪さんだって今朝会ったばっかりなんだろ?」
「ん、そういえばそうか」
言われてみれば、なんとなく旧知の間柄のような気分になっていたけれど、僕に優介の姿が見えるようになったのはほんの数時間前のことなのだった。『知らないひと』である十代くんに怯え距離を取る優介にとって、それなら僕は『知ってるひと』にあたるのだろうか。
「うーん、不思議だなぁ。どこの誰なのか、どうして僕にだけ見えるのかもさっぱり分からないし。まあ、幽霊なんてみんなそんなものなのかもしれないけどさ」あの老婆だって僕にしか見えなかったけれど、だからといって特別になにか訴えかけてくるようなようすはなかったはずだ。「ね、優介。きみはどこから来たんだろうね?」
問いかけに、子どもは言葉の意味がわからないというふうな顔をして、知らない、と小さく呟くように返した。それはそうか、と僕は思う。自分がいったいどこから来たのかなんて、そんなの僕だって答えられない。
僕らのやりとりを見つめながら、十代くんはなぜか呆れたような顔をしていた。彼はかすかに首を傾げ、「幽霊ねえ……」ともう一度つぶやいてから、言った。
「なあ吹雪さん、ほんとにそいつのこと覚えてないのか?」
僕の背後で優介がかすかに身を強張らせた。十代くんは僕らのようすを観察するみたいに眺め、それからゆっくりと言葉を続ける。「いや、なんとなくだけど」と、大した興味もなさそうな声で、そのくせ、よそ見をしながら神経衰弱のカードを揃えるみたいなやる気のない鮮やかさで、彼は続けた。片手で軽く頭をかきながら。
「幽霊かどうかはともかく、少なくともそいつは吹雪さんのことを知っていて、それで頼りに来たんだろ? だったら、ほんとは前にもどこかで会ってるんじゃないの?」
つーか、やっぱり幽霊って感じがしないんだよなあ。
十代くんはそう言って、やはり優介をじいと眺めやったけれど、しかしその言葉は間違っている。優介の身体はあたたかくてやわらかくて、たしかに触れている重みがあって、命の気配がするけれどそれは間違っているのだ。この子はもう死んでしまっている。とっくの昔にもう、僕の手の届かないところに行ってしまったのだ。何故だか分からないけれど僕はそれを知っていて、出来ることなら彼に生きていてほしいと思うのに、それを願ってももう仕方がないことを理解している。悲しい僕はそれを口にすることはしないで、代わりに問いかける。
「だったら十代くんには、この子がいったいなにに見えるんだい?」
幽霊以外のなにか、もっとほかの、彼が生きてまだここにいる可能性が、遊城十代の目には映っているのだろうか。
訊ねた僕に、十代くんは「なににって……」と意外そうな顔を見せ、それからけろりと言葉を返した。彼にはやはり、僕とはまた別のものごとが、はっきりと見えているようだった。
「精霊じゃないの? それ」
「……精霊?」
「そう。吹雪さんさ、昔よく使ってたカード失くしたりしてない?」
「カードって、デュエルモンスターズのカードかい?」
「当然」
頷き、十代くんは優介を見やった。「なーんか、幽霊よりそっちのほうが近い気がするんだよなぁ」
そっちのほうがと言われても、いったいなにがどっちなのか僕にはよくわからない。
唐突に与えられたカードの精霊という単語に戸惑う僕に、彼はしかし、先の発言をひっくり返すようにことさらふざけた調子で笑みを浮かべた。
「いや、だってさぁ、そいつ全然怖くないじゃん。俺、オバケってもっと怖いもんだと思ってるし」
「怖くないオバケだっていると思うよ、たぶん」
「怖くないならオバケって言わなくないか?」
そういうものだろうか。
首を傾げる僕に十代くんはそういうものなんだよと笑い、それから、
「ま、幽霊でも精霊でも、なんでも良いんだけどさ。少なくとも俺には、あんたたちが初対面の赤の他人ってふうには見えないぜ」
そう言って空を見た。なにか遠い記憶でも探すような視線で、真昼の青空を通り越して、彼ははるか遠い宇宙の先を見つめているようだった。つられるように僕も視線を上げる。高い空は澄んでいるけれど、僕の目にはその果ては映らない。
そうやって揃って空中を見上げる僕らに倣うように、優介も空を見ていた。むらさきの目が仰いだ空ははたして何色になるのだろうな、と彼のとなりで僕は考える。僕の世界はいずれあの双眸に飲み込まれてしまうのだと、昨夜そう感じたことを思い出す。同時に子どもが「あっ」と言った。ぽかんと口を開け、目を丸め、優介は空を指差した。
「オネストだ!」
そう叫び、子どもはぱっと駆け出した。慌てて伸ばした僕の手を容易くすり抜け、幼い足取りで危うく歩を進めた彼は、一点でぴょんっと跳びはねた。ひらひらと空中に舞う、なにかをその小さな両手で捕まえたようだった。優介の手の中には一枚の羽根があった。奇妙な光彩を放つその大きな羽根は、どうやら突然に、僕らの見上げる空の上から降って来たらしかった。
「吹雪、これ、オネストの羽根だよ」
「それが?」
「うん」頷き、優介はきょろきょろとあたりを見回した。「オネストは、いないけど。でもこれ、オネストのだ」
どこか他人事のようにそう言ってから、優介はじいと手の中の羽根を眺めた。彼の幼い指には少し余る、それは天使の翼のひとかけらだった。
十代くんは次の授業から出席すると言って屋上をあとにした。去り際、彼は相変わらず怯えるような視線を向ける優介に、けれど人懐こく笑みを浮かべて「またな」と言った。ついでのようにポケットから飴玉をひとつ取りだして、ちいさな手に握らせる。「探しものが見つかったら、俺にも紹介してくれよ」
優介は頷くことも首を振ることもしないで、黙って十代くんを見送っていた。赤い背中が見えなくなると、彼は左手でオネストの羽根を握りしめ、右手で僕の指先を掴んだ。行こう、と言う。
「行こう、吹雪。オネストを探さなきゃ」
僕らはまたふたりきりで、なんの当てもなく校舎を歩きだした。夕方に近付くにつれ、授業を終えた生徒たちとすれ違う機会も増えたけれど、優介はやはり誰にも見られないまま、誰からも存在を問いかけられないままで、やっぱり僕は、これが幽霊でなくてなんなのだろうな、と考える。十代くんの言うことは気にかかったけれど、精霊も幽霊も得体が知れないという意味では大して変わらないように思えて、僕はじんわりと寂しくなる。同時に、本当はこうして手を繋ぐことなんて出来ないはずの優介が、いま自分のとなりにいるということが嬉しくてたまらなかった。この子の正体がなんであれ、別にかまわないとそう思った。
もらった飴玉を口のなかでころころと転がしながら、優介は僕のとなりをのんびりと歩いていた。オネストを探して、輝く羽根を片手に握りしめながら、廊下の隅や柱の影を覗きこんではガッカリしたふうに溜め息をつく。気がつけば陽はどんどんと暮れていって、僕は優介に「そろそろ帰ろうか」と言うけれど彼は頑なに首を振る。
「やだ」
「でも、お腹すいただろう?」
「すいてないよ。平気。吹雪、もういやになった?」
「? なにが?」
歩を止めてしまった優介の顔を覗きこむと、彼は今にも泣きだしそうに唇を噛んで俯いて、駄々をこねるようにぶんぶんと首を横に振った。やだ、ともう一度言った。
「帰りたくない。吹雪といっしょがいい」
「僕もだよ」
「……」
「僕も優介といっしょが良いな。いっしょに帰って、いっしょに晩ごはんを食べて、それでいっしょに寝て、また明日、いっしょにオネストを探そう」
言うと、優介はなんだか分からないけれど驚いた顔をした。思ってもみないことを言われたような、突拍子もない思いつきに面食らったような表情を浮かべて、「いいの?」と言った。僕も首を傾げた。「なにがだい?」
「ぼく、吹雪の部屋に帰って、いいの?」
僕らはお互いに相手の考えが分からないみたいな顔をして向き合っていて、それは本当に滑稽な光景に違いないけれどそんなのはべつに構わない。どうせ、優介の姿はほかの誰にも見えない。彼はいったいどこへ帰るつもりだったのだろう、どこに帰ることを拒んだのだろう、と僕は考え、かすかに眉を寄せた。その答えを知っているような気がするけれどよく思い出せなくて、結局記憶をしまい込む。
その代わりというふうに、ひとつの景色が脳裏に過ぎった。奇妙に霞んで揺らぐ過去の中で、けれどたしかに、僕は以前にも彼とよく似た会話をしたことがあったのだった。あのころの僕らは無意味なほどに長く、長く、ただ同じ時間を過ごしていたけれど、僕が彼の寂しさに直接触れたのはその日がはじめてだった。見慣れたはずの四角い部屋のまんなかで、僕には彼が泣いているように見えた。ひどく困惑したようすで、信じられないものを見るみたいにこちらを見つめながら、記憶の中の彼はやっぱり僕の制服を握りしめていた。震える声で《いいの?》と言う。《俺、吹雪のそばにいていいの?》
あの夜に僕はなんと返しただろう。考えると急に頭が痛んだ。ただ、目の前の知らないはずの子どもは、けれどどうやら十代くんの言うとおり、まったくの見知らぬ他人というわけではないのだと、僕はようやく得心し、理解した。
僕はこの子を知っているのだ。過去に何度も向き合い、言葉を交わし、いっしょに過ごしてきたのだ。
吹雪、と彼が言う。僕にだけ聞こえる声で語りかける。
それが聞きたかっただけだ、と僕は思った。きみの声が聞きたかった。幽霊でもなんでも、会えるのならそれで構わなかったのだ。僕は自分の望みに気付き、それが叶えられたことを素直に喜び、それから、少し笑って優介の手を取った。「だいじょうぶ」と、ひどく無責任なことを言った。「いっしょに帰ろう」
彼がこくりと頷くと、僕らの足元にもう一枚、オネストの羽根がふわりと降った。