ひかれ者の小唄 - 6/6

 最初はただ、夜中に目を覚ましただけだと思った。
 暗い室内に高い天井が広がっている。闇夜と呼ぶのには、少しばかり月が明るい。うっすらと目を開けたボクは、夜の気配に引きずられるようにすんなりと覚醒していた。まだかすかに夢の淵に引っ掛かったままの意識が、ここはどこだろう、ととぼけた問いかけを視界に寄こす。
 ここは、特待生寮だ。
 ボクの部屋ではない。ボクじゃない、もうひとりの彼の部屋。それに気付いた瞬間飛び起きた。ここはどこだ。
 窓の外を見る。暗い、夜の森の奥。ざわりと素肌を撫ぜる真夜中の空気を吸い込んで、ボクは驚いていた。夜に、それもこんな深夜に、こちらに来てしまったのははじめてのことだった。
 いったいいつの間に飛ばされてしまっていたのだろう。ボクは何分を、何時間を無駄にした? 夢の中で眠りから目覚めるなんて、こんなバカげたことを、よりにもよって今日引き起こすなんて信じられなかった。これで最後なのに、もう二度と来られないかもしれないというのに。
 瞬間的に逸る気持ちを抑え込み、薄暗い部屋の中で時計に目を向けた。午前二時。
「……冗談だろ」
 なにかがあるはずだと思っていた。こう言ってはなんだけれど、ボクは自分がこちらに来たことに運命めいたものを感じていて、だから、これで全部が終わってしまうなんて信じていなかった。彼に会うことが出来るのがこれで最後だとして、それでもきっとなにかが起きるものだと確信していた。ボクの身に起こったこの奇妙な夢物語が、藤原優介と出逢い別れさせるためだけのものだとは思いたくなかった。
 なのに、これだ。
 ボクは自分自身の甘ったれた思考を叱咤した。なにもない。ここにボクの居場所は本当には存在しない。最後の日に特別ななにかが起きるなんて、他人任せに考えてはいけないのだ。
 ボクは立ち上がり、部屋を出た。こんなところで終わってたまるかという気分と、終わりを受け入れるための諦めとがないまぜになって、半ば自棄になっていた。灯りの落ちた廊下を優介の部屋に向かって歩きながら、こうなったらいっそ夜這いでもしかけてやろうかと考える。この時間だ。タイミングが良かったのだと思うには丁度良い。
 無理やりに犯してしまえば優介は今度こそボクを嫌いになるだろう。だったらいっそ、もう『吹雪』の顔を見るのもイヤになるくらいまで酷くしてしまえば良い。そんなことを割合本気で考えながら、けれど、ボクの足がまっすぐ、ひたすらに彼の部屋に向かうのは、そんなことをしたいためじゃないことにも気付いていた。

 暗く静まった寮内は、けれど先が見えないほど闇に沈んではいない。勝手知った足取りで優介の部屋へと歩を進めるうちに、ふと、目当ての扉の隙間からかすかに灯りが漏れているのが見えた。前回、彼の机周りを支配しはじめていた書物のたぐいを思い出す。こんな時間まであんなものに齧りついて、はたして彼はなにを極めようとしているのだろう。
 ボクは呆れつつ、同時に優介がまだ起きているらしいことに安堵していた。夜這いなどはともかくとして、鍵を開けてもらえなければ顔すら見られないのだから仕方ない。彼はあまり眠りの深いタイプにも見えなかったが、こんな時間に叩き起こしに来た相手を快く歓迎する人間なんてそうそういないに決まっている。
 深閑とした廊下にひんやりと灯る、彼の気配はひどく遠く感じられた。
 扉へと近寄るにつれてそれは遠のいてゆくように思えた。不可思議な感覚は、本来の自分のいるべきではない場所を、非日常的な時間帯に歩いているからだろうか。目覚めた瞬間には全身をひっかきまわしていた焦燥が、急に不安に似たものへと変わってゆくようだった。
「……どうせ消えてしまうくせに、か」
 それは、けれど、本当は。
 本当には半面して、「消えないでいてほしい」という、望みの意味を持つのではないだろうか。

 永遠に続くかのように思われた暗い廊下を抜けてボクは優介の部屋の扉の前に立っていた。
 すべてを拒むようにぴたりと閉じられているその板は、けれどドアとして建てつけられている以上ほんの僅かな隙間が生じる。どれだけ頑なに鎖しても、それは開閉するために造られたものだ。開かないことなんて絶対にない。
 そのほんのちいさな灯りを目前に、ボクはなぜか一瞬躊躇して、それから軽くノックした。返事はない。もう一度、確認するようにゆっくりと叩くと、室内ではかすかに人の動く気配があった。
 眠っているわけではない。
「――優介?」
 ちいさな声で名前を呼ぶと、途端に先ほどまで消えかかっていたはずの急いた気持ちがまた湧き上がって来た。早くここを開けさせないといけない。恐慌にも近い感情に突然襲われて、ボクは再び扉を叩いた。反応はない。今度は、なにかが動いた気配すらない。
 思わずドアノブに手をかけたが、そこにロックの掛っていないわけがない。ガチリと音を立てて侵入を拒まれ、ボクは知れず舌打ちした。優介、とまた声をかける。「優介、ボクだ。開けてくれ」
 大声を張り上げるわけにはいかない。寝静まっているはずの寮生たちに、なにごとかと思わせてはならなかった。けれど眩暈にも似た嫌な予感は、絶えず足元を這いずりまわっている。本当は、蹴破ってでもこの扉を開きたかった。
 動くはずがないと知りながら、もう一度ドアノブに触れる。先ほどまで無機質な冷たさだけを含んでいたはずのその取っ手が、なぜだか妙にあたたかだった。
 ボクは驚いて、ノブから一度手を離した。もう一度、おそるおそる触れてみる。まだあたたかい。いったいこれはどんな現象だろう、と考えながら、ゆっくりとそれを捻ってみた。
 カチャリと、あっけないほど容易く扉が開いた。

 ――率直に、『吹雪』はなにをしていたのだろう、と思った。

 広く、整然としていたはずの彼の部屋が、ひどく汚く荒らされていた。なにかバケモノのようなものがやって来て、この部屋だけを破壊して帰っていったようだった。そこら中に放り出された本と、なにやらわからない記号ばかり書かれた紙切れ、無残に傷つけられた床、存在を失ったように放逐された家具たち。あまりの状態に目が眩む。
 その狂ったような衝動に満ちた部屋のまんなかで、優介はじっと佇んでいた。
 突然の闖入者であるボクを見て、驚いたように両目を見開いている。ふぶき、とその唇がかすかに動いたように、ボクには見えた。錯覚だろう。彼はボクを吹雪と呼ばない。
 あのボードに貼られていた写真はすべて消え去っていた。彼が大事にしていた思い出は、まるでゴミくずのように部屋の隅に棄てられ虚ろに散らばっている。
「…………」
 それらを視界のすべてで見つめながら、今にもなにか声を張り上げたい気持ちを無理に飲みほして、震えそうになる手足を奮い立たせながらボクは彼に近付いた。なにをしているんだ、と思う。なにがこんな、こんなにもわけのわからない状態にまで、優介を追い詰めたというのだろう。いつの間に、ここはこんな場所になってしまったんだ。ボクが『吹雪』なら、彼の呼ぶ本物だったなら、その理由にも気付くことが出来たのか?
 黙りこんだまま近付いてくるボクを、優介は取りつくろうような素振りも見せずただ眺めていた。その足元に広げられていたノートを拾い上げ、ボクはそれに目を通す。嫌にうるさく響く心臓に気を削がれたけれど、そこに記された言葉の数々は不思議なほどあっさりと頭に入り込んできた。
「……キミは、こんなもののために自分を捨ててしまうつもりなのか」
 呟きは問いかけより独白に近かった。『ダークネス』という、あまりに安易な単語と、目前に広がる現状が一致せずに混乱する。吹雪は、藤原優介とともにすごすことの出来た本物の吹雪は、この事態を知っていたのだろうか。アイツはボクなんかよりずっと多く、この部屋に来ていたはずだ。優介本人に招かれて、広げられたわけのわからない書物も、それに関する研究も、すぐそばで見ていたはずなのだ。
 ボクではなく、こちらの吹雪だけがそれに気付けた。
 こみ上げたのは怒りではなく悔しさだった。優介の目が最近常に眠気を湛えていたこと、授業と無関係の奇妙な本が部屋に増えていたこと、彼の口元が描いた歪んだ笑みだってボクは見ていた。この目で見て、理解していたのだ。このままでは彼は悪意に飲み込まれると、そう、はじめて会った日からボクは知っていたのに。
 条件の問題ではない。彼に会うことに浮かれて、なにも考えずうつつを抜かしていたのはボクも同じだ。
 沈黙したまま、ただ現状に立ちつくしているボクを、優介はどこか吹っ切れたような眼差しで見つめていた。長い長いかくれんぼを、ようやく発見されて安心しているようにも見えた。目元を赤く腫らして、けれどいまにも「見つかっちゃった」と微笑んで告げそうなほど、彼は落ち着いた表情を浮かべている。
 痛々しかった。なにもかも、壊れてしまったあとなのだと思った。
 この部屋を荒らしたバケモノはまだ去ってなどいない。ここに、優介の周りに、あるいは彼の中に、傲慢にも居座ってすべて食らい尽くそうとしている。ボクはひとつ息を吐いた。吹雪なら、と思った。
 いま、ここで彼と対峙しているのがボクではなく『吹雪』なら、優介はこんな顔をせず本心を打ち明けて、泣きながら救いを求めてきただろうか。
 長い沈黙があったような気がする。実際に流れた時間はわからなかったけれど、先に口を開いたのは彼のほうだった。優介は優雅とも思えるような仕草で、ボクの手から分厚いノートを取り上げ、そして言った。
「そっちの俺は正しい選択をしたんだ」
「……なんだって?」
「そっちの、もう一つのデュエルアカデミアに、藤原優介は存在しないんだろう? それはひとつの答えだ。お前の世界の俺は存在を放棄した。いないんだ、どこにも。俺がいなくたって変わらない。吹雪は吹雪だし、丸藤は丸藤で、みんなそれぞれ好き勝手にデュエルをして、世界は進行する。変化なんてない」
 優介はまた、あの悲しげな笑みを見せた。自分自身のことも、ボクのことも、なにもかも放擲するように笑う。「本当は、それで正しかったんだ。間違ったのは俺のほう」
 告げられた言葉の意味は、よくわからなかった。
 優介は変わらない穏やかなようすで、手にしたノートをいとおしげに撫でた。そこに広がる世界の果てに、彼の本当に望むものが在るようだった。「忘れてしまうんだ」と、彼はどこか陶然としたふうにそう言った。
「そうすれば苦しくない。悲しくもない。どうせみんな消えてしまうのなら、大切なものなんてなくて良い。この研究が完成したとき、俺は全部失って、それでようやく、手に入れるんだ。もうなにも失わない世界。もう誰も傷つかない世界。それがどれほど素晴らしいものか、天上院吹雪であるお前にはきっとわからないだろう」
 彼の言葉は問いかけではなく確認だった。それを知りながら、けれどボクは頷いた。ああ、と硬い声で返す。「わからないさ。まったく、一切なにもわからない」
「…………」
 ボクの答えに、彼はひどく悲しげに両目を揺らした。ほら、まただ。そうやってすぐに傷ついてしまう。自分から言葉をかけたくせに、返される刃を避けることを知らない。どれほど混沌とした感情の中にあっても、優介は変わらず優介だった。
 だからボクは言う。彼が藤原優介である限り、ボクの気持ちだって変わらない。
「キミの求めていることなんてボクには理解できない。当然だろう? なんだ、その飛躍した考えは。忘れてしまえば傷つかずにいられるって? バカにしているのか。どうせ消えてしまうくせにと、この間キミはボクに言ったな。そうだよ、もう消えてしまうんだ。これで最後なんだよ。キミにだってわからないだろう、ボクが、」
 捲し立てるように言い募る。
 優介は虚ろな顔でボクを見ていた。
「いったいボクがどれほどキミに出会いたかったか、そんなこと、考えたこともないんだろう」
 こんな形じゃなく、もっと正しい在り方で、消えるとか消えないとか、世界がどうのとか居場所がどうのとか、そういうややこしいことなんてない場所で、藤原優介に出会いたかった。
 天上院吹雪と藤原優介として、ひとりとひとりの人間として、ボクだってキミに出会いたかったのに。
「……わからないだろう、キミには。ボクがキミを理解できないように、どうせキミにだってわからない。好きにすればいいさ、どこへでも行ってしまえ。最初から、ボクが関わるはずのない世界での出来ごとだったんだ」
 言いながら、内心で失笑する。これではまるで駄々をこねる子どものようだ。自分の思うとおりに行かないからといって癇癪を起こし、ゲームを放棄してしまう考えなしと変わらない。同じじゃないか、ボクも優介も。
 けれどそれが本心だった。ボクは彼に出会いたかったのだ。
 どうしたって会えるはずのない相手に、それでもどうしても、会いたかったのだ。
 なんの成果もない、これは本当に、ただの夢だった。ボクに優介を止めることは出来ないのだろうし、彼もそれを望んではいない。写真を残すことさえ許されない。ボクはこのまま消えるだけで、そうしていずれ、優介もどこかへ消えてしまうのだろう。ひとりきりで、闇の果てへ。
 けれどなにも出来ないのなら、なんの意味もない出会いなら、だったらこんなところに来なければ良かったなんて、そんなふうには思わなかった。
 ボクに出来ることがあるのだ。ひとつだけ。たぶんそのために、ボクはここへ居合わせた。
「好きなように、キミの信じることをすればいい。ボクはもうここからいなくなるけれど、キミの苦しみを解くことは出来ないけれど、その代わり、絶対にキミを忘れない」
 ダークネスとやらがどれほどの影響力を持つのかなんて知らない。彼の計画によれば、どうやら『吹雪』は藤原優介を忘失するさだめにあるようだけれど、そんなことボクには無関係だ。じきにここからいなくなるボクを、次元を超えてまでダークネスが追いかけてくるとは思えない。
「絶対に、忘れたりなんかしない。目の前から消えたから、もう会えなくなったからといって、誰もがキミを忘れるなんて思うなよ」
 半ば喧嘩腰で断言したボクを、優介は不思議そうに見つめて、それから、それがどうしたというように口元を歪めた。「そんなこと、確認しようがないじゃないか」
 まったく、そのとおりだ。
「それでもボクは忘れたりしない。賭けたって良い」
 他愛のない子どもじみた賭けごとを思い出し、ボクは少し笑って、優介の頬に手を伸ばした。彼がそれを嫌がらないことに気を良くして、そのまま口づける。最後なんだ、これくらいは貰っておいてもバチは当たらないはずだった。
「……こんな非現実的な経験、忘れられるわけがないじゃないか」
 短い口付けに重ねるように囁くと、優介は、そう、と特に感慨を含むことなく言った。
「もう、こっちには来ないのか」
「来ないんじゃない、来られないんだ。ボクにもいろいろ事情があってネ」
 軽くそう告げたボクに、優介は納得したみたいにちいさく頷いた。別れを惜しむような気配はない。最後の最後までこれか、とボクは少しばかり苦々しく思ったけれど、もう良い。しかたない。あとのことは本来の役者に任せて、余所者はとっとと退散するに限る。
 もっとも、『吹雪』に優介を止める気があるのか、その手立てがあるのかどうか、ボクには知りようもなかったけれど。なんとなく無理な気がする。だって天上院吹雪は、結局、天上院吹雪でしかないのだ。アイツもボクと同じなら、優介にとっては無力で役立たずなただのクラスメイトにすぎない。
 だから希望を託すのなら、もっと別の存在が良い。たとえばさっきドアノブをあたためた、ボクをこの場に招き入れたような力。あれはきっと、彼を守護するためのものなのだろう。わらにも縋るような思いで開けてくれたろうに、期待に応えられなくて残念だ。
「――吹雪」
 と、そんなことを考えているボクに向けて、唐突に優介が言った。ボクの目を見ていた。
「…………」
「吹雪のこと、いろいろ、言ったけど。でも、べつに嫌いじゃなかった。たぶん、そっちの俺も……」
 途切れ途切れに言葉を詰まらせながら、優介は自分に言い聞かせるように語った。それはこの、ひどく殺伐とした、崩壊の兆しを容赦なく突きつける室内からは想像もつかないくらい、まったくいつもの藤原優介の声だった。
「もうひとりの、別の俺もきっと、出来るなら吹雪に出会いたかったと思う」
 だからだいじょうぶだ。
 もうなにもかも壊れてしまったのだと、ボクはさっきそう思ったけれど、きっとそんなことはない。
 優介の言葉をボクはしっかりと受けとって、けれどやっぱり名残惜しくて、もう一度キスをしても良いんじゃないかと考えるけれど時間はそれを許さなかった。頭の遠く、奥の方で聞き慣れたチャイムの音が響きはじめる。まったく、空気を読んでいるのだかいないのだか。
 ここでボクが帰ってしまえば、吹雪はこの部屋の惨状を嫌でも目撃するだろう。なんだか手柄を横取りされるような気分で少し癪だが、応援だけはしておいてやろうと思う。精々がんばってみればいい。彼を見捨てて逃げ出すようなことをしたら許さない。
 負け惜しみのように軽く笑ってから、「そろそろ帰らないと」とボクは言う。「じゃあネ、優介。さよなら。けっこう楽しかったよ」
 その言葉に彼がなんと返したのかは、残念ながら聞き取れなかった。
 ただ最後にかすかに見えた優介の表情が、ほんの少しだけ寂しげに揺らいだような気がしたので、たぶんボクはそれを安直に受け取り、素直に喜んでおくべきなのだろう。

* * *

 目を覚ますともちろんいつもの教室。
 授業時間は終了、枕にしていたテスト用紙は真っ白。教壇にはやっぱりもうだれも立っていなくて、黙々と回収されてゆく薄っぺらい紙切れを流れに任せて白紙のまま提出し、ボクは嘆息した。あんまり沈痛な溜め息に、隣席で呆れた視線を寄こしていた亮も、俄かに不安げな顔つきになった。生真面目な学友は、試験を放棄して眠り続けたバカなクラスメイトにさえ、どうした、と言葉をかけてくれる。「なにかあったのか?」
 傷心のボクは返した。思った以上に、悲壮感たっぷりな声で。
「……失恋した」

 ボクの夢で起きた恋物語は、こうしてあっけなく、場合によっては劇的とも取れるラストを迎え幕を下ろした。
 錬金術の教師は結局一度もボクに顔を見せることなく学園を去り、無意味とわかっていながらボクは別の授業の最中にも居眠りを試みて、何度となく玉砕した。おかげで心なしか成績が落ちたが、デュエルの実力だけが物を言うこの島では大した問題にはならなかった。ただボクが少しばかり女々しいというだけの話だ。それも、他人に露見するようなことじゃない。
 亮は案外優しかった。恋に破れた友人を、なにやら腫れものでも扱うかのように気遣ってくれる。無暗に詳細を訊ねてくるような野次馬根性を持たない彼に、ボクは感謝するべきなのだろうか。あるいは、もっと他人に興味を持てと叱り、どさくさまぎれに洗いざらい喋ってしまうべきなのだろうか。分からないけれど、こちらの世界に於けるボクらは相変わらずのツートップ、誰もが認めるアカデミアの双壁だった。
 藤原優介のことは、やっぱりこちらでは誰も知らない。
 例のニュースサイトの記事は、いつの間にか見つからなくなってしまっていた。膨大な情報の海に押し流されたか、あるいはボクが無意識に見落とすことを望んでいるだけか。どちらにせよ、べつになにかが大きく変わるわけではない。ボクは相変わらず優介の姿を探していたけれど、どこまで行ってもそれは無意味で、自分の諦めの悪さを痛感するだけの行為だった。
 そんな未練がましいボクが、完全に吹っ切れるまでは実に二週間近くかかった。情けない話にも思えるが、けれど失恋の痛手から立ち直ることを考えれば、一般的に見て早すぎるくらいじゃないだろうか。アメリカ・アカデミアへの留学が決まったことを機に、ボクは新たな恋を探すことを決意して、中途半端に優介とのやりとりを思い出させる島から抜け出すことにしたのだった。
 次に好きになるのはとびっきりキレイで色気があって、デュエルの強い女性にしようと思う。
 男に惚れるのなんて、人生で一度あれば充分だ。

 あのあと優介や向こうの吹雪がどうなったかはもちろん知らない。けれど、一度だけ妙な夢を見た夜があった。
 例の授業や優介の言ったような体外離脱は絡んでこない、それは完全にただの夢で、言ってしまえばボクの妄想のようなものだったのだけれど、不思議と納得のいく結末を示してくれていた。残念な『吹雪』はやっぱり優介を止められず、さらにあっさりと彼のことを忘れてしまい、なんだかわからないうちに何年も時間が経ってしまったかと思うと、見たことがあるようなないような感じのオシリス・レッドの生徒が何故か突然出張って来て、見事に優介をダークネスという闇から救い出してくれるストーリー。
 夢の中でボクはそれらを遠い場所から、まるでテレビ番組でも眺めるような感覚で見つめている。闇に囚われ自分を失くした優介を前に、吹雪は案の定なにも出来ないでデュエルにさえ負けてしまって、ザマァみろと思いながらボクはそれを傍観しているのだけれど、同時に羨ましくも感じている。ボクなら彼を助けられたのに、なんて、そんな大きな口を叩く権利はないのだろうけれど、もうちょっとくらいはマシだったんじゃないのかなと思う。
 どちらにしても夢は夢だ。
 目が覚めたボクは自分の執念深さにウンザリして、けれどその夢がきちんと優介が救われる形で終わったことに満足する。忘れてしまえば楽になれるのだと言った彼は、はたしてボクのことを覚えているだろうかと考える。
 確認しようのないことだけれど、たぶん、忘れてはいないだろう。

 人生は長い。ボクは優介だけを想って一生を送るつもりなんて欠片もない。新しい恋はなかなか思うようにいかなくて面白いし、これからだってなにが起こるかわかったものじゃない。あれ以上に奇妙で説明のつかないような体験だって、ボクの人生にはまだまだ残されているかもしれないのだ。
 こっちの優介が、ある日ひょっこり目の前に現れないとも限らない。
 もしもそんな日が訪れたとしたなら、それは、ひょっとしたら奇跡のような出来ごとなのかもしれないけれど、そのときこそボクのあの夢は大きな意味を持つのだろう。
 万が一にも出会うことが出来たなら、伝えるべき言葉は決まっている。ボクはキミを忘れなかったと、きちんと覚えて、それでずっと探していたんだと、そう言って大きな顔をしてやろう。
 もう一度彼を好きになるかどうかはわからない。そんなことは実際に、藤原優介を見つけてから考えたって、まったく遅くはないのだから。

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