ボクは藤原優介を知らない。
こちらの世界で生きてきたボクがまったく出会ったことのない彼は、けれど向こうに『天上院吹雪』や『丸藤亮』が存在するように、こちら側にも同一の生命として在って当然のはずだった。
ボクは手の空いた時間にコンピュータ室へと足を運び、アカデミアに所属する生徒のデータを片っ端から引っぱりだしてみる。おおよそ七割にあたる男子生徒の数は膨大だけれど、閲覧しようとして出来ない量では決してなかった。名前を検索するだけなんて正攻法で見つかるわけもなく、ひとりひとりの顔写真を開いて確認し、学年すら遡り、それでも見つからない優介の姿には困惑より虚しさを覚えた。――こちらの世界の彼は、いったいどこにいるのだろう。
どうやら学内の生徒に、藤原優介と思わしき人物は存在しない。それでもなお諦めきれず、姉妹校の資料までも隅々に調べ尽くしたが結果は同じだった。こちらの彼はデュエルの道を選ばなかったのだろうか? 件の授業で対峙した優介は、たしかにその白の制服が主張するとおりの腕を持っていた。あちら側の亮やボクと並んで、天才と呼ばれるほどの才能。それがこちらの世界では、どことも知れない地のもとに埋まってしまっているというのだろうか。
ジュニア選抜、各地方で催されたアマチュアのデュエル大会、よもやと思いプロリーグの公開資料にまで目を通したが、彼らしき人物はやはり見当たらなかった。我ながら必死なものだと自嘲する。ずいぶんと時間をかけて調べてみたものの、やはりこちらに藤原優介の痕跡は見いだせないままで、いい加減潮時かなと感じながらボクはモニターに疲れきった目を瞬かせた。そろそろ寮に戻らないと、あまり遅くまで残っていて誰かに問い詰められても面白くない。
椅子に背をもたれさせ、無意識に嘆息する。自分がなにを求めてこんなことをしているのかは、正直あまりよくわからなかった。こちらの優介を見つけて、それでどうするっていうんだろう。まさか夢の中で出会って以来惚れこんでいるので付き合ってくれなんてバカを言えるわけもなし、そもそもこちらの藤原優介があの優介と同じ性格をしているとは限らないのだ。天上院吹雪がそうであるように、彼もまた『ぜんぜん違う目』をした別人だとしたなら、ボクがこうまでして彼に出会う必要がはたしてあるだろうか。
それでも、無駄な徒労であるとは感じなかった。
別人ならそれで、まぁ、構わないはずだ。問題なのは、ボクは優介のことを知っているっていうのに、こちらの優介はボクを認識しないままで過ごしているということ。もしかしたらデュエルモンスターズに触れることさえしていないかもしれない彼と、こうなると一生出会うことがないかもしれないということだ。だったらそんなの、自分から動くしかないじゃないか。
軽く肩を鳴らしてから、ボクはふと思い立って、再びコンピュータに向き直った。ウェブ上の大規模な検索エンジンを開いて、《藤原優介》とだけ入力してみる。同姓同名ばかりが引っかかるのは想像に難くないが、デュエル以外の場所で彼が別の才能を発揮していないとも限らないのではと思った。彼は学業にも秀でているようだし、どこかの有名高校で、思わぬ成果をあげて大々的な表彰を受けたりしている可能性だってあるはずだ。
もちろん予想した通り、インターネットの世界に展開される《藤原優介》は無数で、そのどこかに彼が紛れ込んでいたとしてもそうそう見つけることは出来なさそうだった。要領の悪い作業だと知りながら、それでも適当にページを開いていると、ふと引き寄せられるようにひとつの記事に目が行った。ちいさなニュースサイトの、古い、もう十年も昔に書かれたページだった。
別段大きなニュースではない。悲惨だが、年に何度かは起こりうる規模の交通事故だ。都市内にある一般国道で発生した、乗用車三台による衝突事故。二名が軽傷、一名が重傷、――巻き込まれた家族三名が意識不明の重体。
事故の続報は掲載されていなかった。病院に運ばれたあと、その一家がはたしてどうなったのか、調べる気にもならなかった。ボクは少しのあいだその記事をじいと見つめてみたけれど、それによってなにかが見つかるようなことはなかったし、優介の姿だってどこにもない。ただ名前が並んでいるだけだ。十年前、両親とともに事故にあった、八歳の藤原優介。
コンピュータの電源を落とし、ボクは立ち上がった。時計を見ると、思った以上に遅い時間になっていた。明日は金曜日だ。振り返ることなく寮への道を歩きながら、ボクは優介の部屋に飾られた写真のことを思い出していた。
* * *
ふと顔をあげると、目の前に優介がいた。
あ、こっちに来たんだ、とボクが気づくのと、彼と目が合うのとがほとんど同時だった。ボクをボクと認識した途端、優介の両目がふっと濁った感情を映す。ついさっきまで『吹雪』に向けられていた上機嫌な眼差しが、ボクの前では消えうせる。この瞬間が、ボクはあまり好きではない。端的に言ってしまえば不愉快だ。ボクが無意識に放った剣呑な気配に気付いたか、優介は若干身を竦めてから、かすかに眉を寄せた。明らかに歓迎の気配のない声で、「いらっしゃい」などと低く言う。
場所は優介の部屋のようだった。彼らは隣り合ってソファに腰掛け、なにやら談笑でもしていたのだろう。ふたりきりで。
「お邪魔だった?」
「……なにが」
不機嫌極まりない態度で優介はそう返したが、もちろん、なにがもなにもそのままの意味だ。正直にいうと、お邪魔出来たのなら好都合という気持ちがボクにもあるので、下手に突き詰めるつもりはないけれど。
そもそもテーブルの上に広がったカードたちを見るに、これといって色っぽい状況にあったわけでないのは明白だった。まったく呆れるほどに奥手というか、初々しいというか、『吹雪』はボクにとって恋敵にあたるはずなのに、いい加減にこの現状をどうにかしてやれよと説教さえしたくなってくる。感情としては矛盾しているが、同じ天上院吹雪として、もうひとりの自分があまりに鈍感なのはちょっと喜べない。
そんなことを考えながらボクは、なんとなく久しぶりに見るような気がする優介の部屋をぐるりと眺めた。ここを訪れるのも、もう何度目だろう。相変わらず殺風景な、面白味もなにもない生真面目そうな室内だが、最初に来た日よりもすこし本が増えているように見えた。むつかしそうな分厚い何冊かの書物。寮に戻ってまで勉強を、それもおそらく宿題のたぐいとはまた違った個人的な知識の詰め込みを行うなんて、ボクから見ればどうかしているとしか思えないけれど。
優介は夜遅くまでそれらを捲り、いずれなんの役に立つとも知れないような勉学に身を投じているのだろうか。よくよく見ると最近の彼はいつだって、睡眠不足を如実に物語った目をしている。ボクは少し呆れたけれど、その勤勉ささえ、彼らしいと考えれば好ましく思えた。ここにいる、この『藤原優介』に必要なパーツなのだ。無機質な部屋も、夜の名残りを持つ学の気配も。
彼の部屋の奥にはボードがあって、そこには数枚の写真が貼られている。写真を撮るのは優介の趣味だ。それらは唯一、この退屈な室内に彩りを添えるのに貢献していた。この部屋にやって来るたびボクを迎えてくれるそれらの存在はもちろん知っていたものの、近寄って細かに目を通したことはない。そこに写っているのは『吹雪』であり、どこを探したところでボクはいないのだから当然だ。
だからボクがその一枚一枚をきちんと見たのは今日がはじめてのことだった。ソファから立ち上がり、まるで吸い寄せられるようにボードの前へと向かったボクを優介は不審そうに見やったが、なにも言わずテーブルの上に広げていたカードを片付けはじめる。ボクは彼の存在を、その気配をきちんと背中で感じとりながら、ただそこに並べられた数々の写真を見つめていた。
その多くはこの学校で撮られたもので、クラスメイトや優介自身を映しこんでは、いかにも学生時代の無邪気な思い出のひとつとして華やいでいる。けれど中に数枚、明らかに古い写真が紛れ込んでいて、そこにはまだ幼い彼自身や、おそらく優介の両親と思われる人物が写っていた。まだ小さな優介が、家族三人で撮った古い写真。
――……キミの親は交通事故で死んだのかい?
と、そんなことを気楽に訊ねるほど、ボクは無神経でも図太くもない。それを問うことで、なにかの答えが見つかるとも思えない。ただその一枚を確認したくて、たとえその行為に意味がなかったとしても、とにかくこの目で見ておきたくて、ボクは押し黙って幼い優介を見つめていた。
「なにか気になるものでも写ってる?」
気がつくと、優介がとなりに立っていた。怪訝そうにボクの横顔を見つめ、その視線の先を確認し、やはり不思議そうに小首を傾げる。
「べつに? キミは昔から泣き虫だったんだなァと思って」
「昔からって……、俺が泣いたところなんて見たことないくせに」
「泣きそうになってるところなら何度も見たけど。嫌いなモノ食べられなくて泣いちゃうなんて、子どもだよねェ、キミ」
わざと意地悪く笑って言うと、優介は不服そうに顔をしかめた。罰ゲームの納豆一パックはよほど堪えたらしい。彼は言いわけらしい言葉を口にすることはせず、代わりに、「次は絶対に負けない」と口の中でもごもごと呟いたようだった。随分控えめな宣戦布告だと、ボクはやっぱり笑ってしまう。彼の中に『次』があることが嬉しくもあった。
優介は横目でじろりとボクを睨み、そのまま時計の針を確認してソファへと戻ってゆく。そろそろ夕食の時間かな、とボクも思いながら、そうだと思いひとつ提案してみる。
「ああそうだ、優介。写真で思いだしたんだけどさ」
「…………」
「ボクもそのうち、一枚撮ってよ。見た目は同じだけど、せっかくだからボクもキミのあのコレクションに加えてほしいな」
本当は彼の写真を持って帰りたいのだけど、精神のみを行ったり来たりさせているボクにそれは不可能事だ。だったらせめて彼の方に、ボクがこちらに来ているという証明を所持していてほしいと望むのは自然だろう。
さほど無茶な願いごとを口にしたつもりはなかった。断られる理由なんてこれといって見つからない、ただの雑談だ。優介は嫌がるかもしれないけれど、それはそれでスキンシップの一環にすぎないし、彼がボクを邪険に扱うのはすでに定番のやりとりのようなものだから気にしない。案の定、優介はボクの提案に口をつぐんでこちらをじいと睨んでいたが、けれどどうやらそれは、ボクの想定とは少々違ったところに対するもののようだった。
重苦しい視線は、憮然とした感情よりも嫌悪や苛立ちに近いものを含んでいる。
思っていなかった反応にボクは少し驚き、「優介?」と目の前の人の名を呼んだ。途端に彼はぴくりと眉を寄せる。見えない糸にでも縛られたみたいに、なにか痛みに耐えるようにぎゅっと拳を握り、優介は言った。
「……それ、やめてくれないかな」
その言葉には、そうだ、聞きおぼえがある。はじめてこちらに来た日、優介とふたり、空き教室で向かい合って会話をしている最中。チャイムの音に引きずられるように目を覚ましたボクの耳元に、かすかに残った彼とのやりとりだ。
《それ、やめてくれないかな》
《なにを?》
《……だから、その、》
その言葉の先。
「――俺のこと名前で呼ぶの、やめてほしいんだ」
彼の両の目は、焦燥と厭悪が交りあっているかのように揺らいでいた。
こちらの吹雪が、彼のことを「藤原」と苗字で呼ぶことは知っている。だからこそボクはきちんと人前では、こちらの吹雪を演じる際には、間違うことなく彼のことを「優介」ではなく「藤原」と呼んできたのだ。彼とふたりきりになる、こんな機会を除いては。
ボクに名を呼ばれることを、彼は嫌っている。そのことにはなんとなく気付いていた。気付いていて、敢えて無視をしてきた。こうやって言葉にしてその意志を伝えられたのははじめてのことで、突然の指摘をボクは少しばかり意外に思ったけれど、だからといってわかりましたとあっさり頷こうとは思わない。
「イヤだね」
と、分かりやすい単語で拒否を示したボクに、優介はかすかに狼狽したようだった。握り拳にあらためて力を入れ、彼は言った。「どうして」
「『吹雪』と同じになりたくないから」
「…………」
即答に、優介はまた押し黙る。やはりこういった対峙の仕方をするとき、どうもボクが彼をいじめているような構図になってしまうのはなぜだろう。優介は相変わらず害意から逃れるのが下手くそで、ボクを睨みつけているように見せかけて本当は視線を逸らすことができずにいるだけだ。たとえボクにその気がなくとも、彼のほうが勝手に追い詰められてしまっている。
「……きみは、吹雪とは違う。呼び方なんかで差別化したところで今さらだろう? 呼ばれたくないんだ、名前で。だからやめてほしい」
それは随分、切実な訴えであるように思えた。単にボクへの反発から来るいつものダメだしではなく、優介自身の感情によって告げられる主張。けれどこっちにだってそれなりの理由はあるのだ。ボクは悠々と彼の視線を受け止めながら、もう一度言う。「イヤ」
「…………」
「ボクが吹雪と違うっていうのなら、それこそなんて呼ぼうがボクの勝手だ。差別化なんて、そんな意味深なものじゃない。ボクはアイツと同じ言葉でキミを呼びたくはないし、本音を言うと、『吹雪』の積み上げてきた関係でキミとの距離を縛られるのだってゴメンだ」
優介は言葉の意味を図るように、ボクの言葉を飲み込みきれずにいるようだった。少し迂遠な言い方をしすぎただろうか。突然聞き慣れない言語で話しかけられたような顔をしている優介に、ボクはこっそりと笑んだ。
「わからなければ別に良いさ。とにかくボクは、キミの中の『吹雪』と同一になりたくない。だからその要望は飲まないよ」
「……心配しなくたって、きみと吹雪が同一なんてことはありえない」
「ホントにそう思う?」
問いかけると、優介はかすかに身じろいだ。当然だ、という顔をする彼の、その意味もなく『吹雪』のことを信じ込んだ目が気に食わなくて、ボクは自然と彼の隣に腰をおろしていた。近しい距離にあっても、彼はもう以前ほど嫌がる素振りをみせない。ボクが近付いてゆくことに優介は慣れてしまっていて、その危機感のなさをもたらしている原因のひとつはこの容姿と声だ。
天上院吹雪だからこそ許している距離。
そこにとっくにボクが入りこんでいることに、彼はまだ気づいていないんだろうか。
え、と優介がちいさく声を発するのと、ボクがその身体を軽く押してソファの上に押し付けるのが同時だった。押し倒すというほど乱暴なものじゃない。軽く、けれど決して逃がさない程度には力強く、ソファに背を沈めた優介が混乱しているうちに身体ごと抑えつけてしまう。
大きく見開かれた優介の両目を覗きこみながら、ふと、『吹雪』とボクでは目が違うのだと言った彼の声を思い出した。ならばと、ボクは身を屈めて優介の首筋に顔をうずめた。これで彼からボクの目は見えない。そのまま優介の耳元にくちびるを寄せて、ボクは言った。
「――藤原」
ソファに押し付けた身体が跳ねた。大袈裟なほど大きく息を飲んだ彼は全身を強張らせて、けれど抵抗らしい抵抗もしないままでただ首を竦めていた。ボクはもう一度彼の名を、『吹雪』と同じ声と言葉で彼を「藤原」と呼びながら、この行為に意味合いを含ませるよう、やわらかな耳を軽く噛んだ。悲鳴だか吐息だか分からないような弱々しい声が、優介の口から漏れるのが聞こえる。そこに強い拒絶の意思は感じられない。
このまま押し進めてしまいたい欲求に駆られたが、それでは意味がない。ボクは『吹雪』の代わりになりたいわけではない。
名残惜しむように軽く音を立て、耳の縁に吸い付けた唇を離すのと同時に彼の身体を解放した。顔を上げ、目を合わす。優介はひどく動転した顔つきで、けれど逃げ出すような素振りは見せずにこちらを見つめ返していた。目尻が赤い。かわいいものだな、とボクは思う。かわいすぎて腹が立つ。
嫉妬で痛む頭をどうにか堪えながら、ボクはなるたけ悠然と見えるよう微笑んだ。優介の頬に手を伸ばし、ついさっき口付けたばかりの耳元を指先で撫でながら、ほらネ、と言う。優介の肩が震える。
「キミがそういう顔するからイヤなんだよ。お生憎さま、ボクはアイツの代替え品じゃない。同じようになんて呼んでやるもんか」
その言葉に、彼は少なからずショックを受けたようだった。動揺ばかりが表れていた顔色に放心が見えて、かと思うとつぎの瞬間には羞恥に染まってゆく。あっというまに真っ赤になってしまった優介は、ついにボクから目を逸らして顔を伏せ、ちいさな声で「ちがう」と言った。また、泣きそうな声。「そうじゃない。ちがう、俺は吹雪のこと……」
「好きなんだろう? 見ればわかるよ」
「……ちがう」
はたして自覚していないのか、認めたくないだけなのか。おそらく後者なのだろう、優介はこちらを見るなというふうにボクの身体を押し返すけれど、こちらにも逃がすつもりなんてない。まったく、本当に違うのなら、ボクだってこんな手間のかかることはせずにすんだのに。
優介、と宥めるように彼の名前を呼んでみる。彼の好きな吹雪の顔で、この声で、けれど彼の知るものとは絶対的に違う感情を含めて。『吹雪』が決して手を伸ばさない部分にまで、ボクの声も熱もすべてを差し向ける。
「ねェ、優介。ボクはこっちの吹雪とは別だ。キミが吹雪に向けるような熱い視線を貰っても、まったく嬉しくない。むしろ不快なんだよ。わかるかい? いまさっきキミに触ったのはボクなんだから、キミはなにを言われてもボクを突き飛ばして、力の限り抵抗すべきだったんだ」
そうしてくれればボクの心情もいくらかマシだったろう。まったく、どこまでも頭の痛い話だ。
優介はボクから目を逸らしたっきりで黙り込んでしまっていて、どうしたって返事なんて期待できそうにない。ボクはさっさと本題に入ることにした。
「吹雪はべつに、キミのことなんてなんとも思っちゃいない」
「…………」
「――ってコトには、どうやら気付いてるみたいだネ」ホントに罪作りだなァ、もうひとりのボク。「だったら話は早い。今からでも遅くないから、ボクにしときなよ」
と、さらりと言ってみる。
優介は一瞬呆けたような顔をしたかと思うと、ゆっくりと顔を上げて、言葉の意味を確かめるみたいにボクを見た。ようやく目を合わせてくれた彼の表情は、なんとも滑稽なほどにぽかんとしていた。どうもボクからの気持ちなんて予想だにしていなかったらしい。これはこれでちょっと寂しいというか、彼は本当にボクに興味がなかったんだなぁ、なんて、卑屈なことを思わざるを得ない。ま、今さらだけど。
「ボクのことを好きになっちゃえば良い。そしたらいっぺんに両想いだ。あ、『吹雪』に愛されたいのなら代わりに、なんて健気なことを言うつもりはないよ? さっきも言ったけど、ボク、代替え品なんてゴメンだから」
そうは言っても、突然には難しいだろうことは分かっていた。姿かたちが同じなのだから、単純に前の相手を忘れさせるのとはわけが違う。けれど彼の中の吹雪への感情を、ボクのほうへとスライドさせるのがそう難航する作業だとは思えないのも事実だった。ちょっと押し倒すフリをしただけでこれなのだから。
優介はやっぱりまだ理解が追いつかないような顔をしていた。これは返事を聞くより先に今度こそ本気で押し倒してしまったほうが早いかもしれないな、とボクが真面目に思いだしたころにようやく、彼は口をひらいた。なんとなく聞きとりにくい、小さく掠れた声で言う。
「……それは、だったら、」
「ン?」
「俺のことが、好き、ってこと……?」
「それ以外にどういう意味に聞こえるのさ?」
それともいまきちんと言葉にしたほうが良いのだろうか。なるほど、彼にはそのほうが良いのだろう。ボクはソファの上に放り出されたままの優介の右手に自分の左手をかさねて軽く指を絡めてから、「好きだよ」と言った。「理由とか原因とか聞かないでネ? 自分でも男相手なんて信じられないし、ちょっとバカみたいだと思ってるんだからさ。でも、もう好きになっちゃったんだから仕方ない。キミを愛しいと思うし、そばにいたいと思う。それが叶うなら、こっちの世界に永遠に住んでもかまわない」
むしろそうありたいと願う。
ボクはボクのいままで生きてきた場所を、たとえ捨ててしまってでも、優介と同じ空間にいたかった。向こうでは彼に出会えないかもしれない、その事実に気が焦ったのも事実だ。一生をこちらですごす方法なんてもちろん今はわからないけれど、言語の壁も歳の差も恋愛の前では大きな障害にならないというのが一般論なら、次元や空間だって関係はないはずだった。
優介は静かにボクを見つめていた。知らない人物に行く手を阻まれ、ひとり困惑して立ち尽くしているような眼差しだなと思った。彼は不思議と淡々とした声で、そう、と小さく呟いて、それから、
――それからかすかに、笑ったようだった。
その笑みが決して穏やかなものでなく、ボクの言葉に喜んだのでも呆れたのでもなく、ただ口の端を持ちあげてみただけの冷然としたものであることに、ボクは驚いて言葉をうしなった。風ひとつなくどこまでも平らに広がっていたはずの水面に、突然小石が一粒投げ込まれたかのように思えた。音のない乱れが、けれど確実に波紋を刻みつけるような歪み。
そうして口元をかすかに上げた優介は、はたして本当に本物の優介なのだろうか。
「好きって、俺のこと? 本気で?」
「……ああ」
戸惑いながら、それでも躊躇わず首肯したボクに、彼はひどく悲しげな目を向けて言った。まるでボクの言葉の端に暗い渦を見つけたみたいに。すべてを手放す狂人のように。笑わせるなと、嘲けるように。
誰だかわからないような顔をしながら彼は、けれど聞き慣れたいつもの、いまにも泣きだしそうな声で言ったのだ。
「どうせ消えてしまうくせに?」
* * *
いつもはもっとゆっくりと、授業を終えるチャイムの音に導かれるように覚醒するのに、今日に限ってはまるで急な通信の遮断にでもあったかのように唐突な帰還の仕方だった。突然に足元から落下してゆくような感覚に驚いて顔を上げると、そこは見慣れた三年生の教室だ。ボクは金曜の夢の世界から目を覚ましてしまっていた。
授業時間はまだ残っている。
けれど講壇に先生の姿はなくて、ボクは驚いて隣に座った亮に訊ねた。「授業は?」
「見ればわかるだろう、今日はもう終わりだ。残り時間は自習。……どうせ眠るなら授業中じゃなく自習時間にすれば良いのに、なぜこのタイミングで起きるんだ?」
「そんなのはボクが聞きたいよ。もう終わりだって? 授業時間はまだ三十分以上も残ってるのに?」
思わず険のある口調で返したボクに、亮は怯むようすもなく返した。「先生にも色々あるんだろう。毎時間居眠りしているお前は知らないだろうが、学習単元自体は先週でほとんど終えていたんだ。もともと余裕を持って時間を確保していたんだろう、来週に試験時間を設けるつもりらしい」
そのための自習時間だ、と、亮は生真面目にもひとり開いたノートに目を落とす。生徒たちは各々で自由に振る舞っている。この場所にいるだれも、ボク以外のだれひとりとして、藤原優介のことを知らない。そのことが突然おそろしく思えて、ボクは身震いした。
《どうせ消えてしまうくせに?》
彼の抱えるその言葉にどんな感情が含まれているのか、ボクは知らない。あんな表情をした優介を見たのははじめてだった。彼はもっと肩の力を抜いて笑う。無理に笑みを作るときには、頬の緩ませ方を模索するようにたどたどしく口元を模る。そもそもあれが微笑みだったのかどうかさえ、ボクには自信がなかった。夢の出来ごとはいつだって精細で現実と間違えるほどだったけれど、あの一瞬に限ってはまるで本物の眠りの中にいたかのように、世界が翳って記憶されている。
どうあれ、告白をしくじったのは間違いない。
すぐさま頷かせることが難しいのは分かっていたけれど、あの返答は予想外だった。多少なりと脈のあるものだと思っていたが、彼にとってボクは結局、いずれ消えてしまう余所者でしかないのだろうか。
考えながら、ボクはもう一度机に顔を伏せた。もう一度眠って、いまからもう一度向こうに行くことはきっと出来ないだろう。授業は終わってしまった。あの状態の優介を部屋に残して、ボクは『吹雪』に身体を明け渡してしまったのだ。そう思うと俄かに荒んだ気分になった。どうしてボクじゃダメなんだろう。
本格的に向こうへ留まる方法は、探せば見つかるものだろうか。はじめてあちらの世界へ行った日、優介の滔々と語ったオカルトじみた胡散臭い発言のなかには、体外離脱や十二次元宇宙といった聞き覚えのある単語も含まれていた。それらを紐解く鍵をボクは持たないけれど、自分の気持ちがハッキリしたいま、胡乱な視点など捨てさってすべての可能性にぶつかってみるべきなのだろう。ためらうことはない。いますぐにでも、ボクは向こうへ戻りたい。
それを可能にするのはきっとこの、錬金術の時間の教師だ。そう思い、けれどすでに誰もいなくなった講壇に視線をやった途端、ボクは気付いた。ついさっきまであそこに立っていたはずの人物を、ボクは知らないのだ。顔も声も名前も、なにひとつ思い出せないことに驚く。
たしかに授業時間はすべて眠ってしまっているが、それでもまったく記憶していないなんてことがありえるだろうか。慌てて頭を起こし、白紙状態のノートと教科書を捲る。なにか痕跡のようなものが、頭の片隅に引っかかるようなことが書かれていないかと考えたが、それらはなんの役にも立たないただの紙切れのようだった。
薄ら寒い気持ちで、再び前方に視線をやる。あそこに、あの場所に立っていた人物の、性別すらもボクは覚えていないのだ。
「……亮」
「なんだ?」
「錬金術の授業って、ボクらいつから受けていたっけ」
「? 三年になってすぐだ。臨時カリキュラムだから、正確には丁度三カ月になるな」
「そう。じゃあボクは、初回から眠っていた?」
「ああ。……吹雪?」
寝ぼけているのか、と亮がボクの顔を覗きこむ。わけもわからず動揺するボクを現実へと連れ戻すように、彼は言った。
「……お前がこの授業になんの呪いをかけられて毎週寝こけているのか知らないが、最後くらいはまともに受けておけ。試験があるとしたら尚更だ。付け焼刃でも、教材に目を通すくらいすれば少しは違うだろう」
それはたぶん、ボクのことを心配して言ってくれたのだろう。ノートを貸すことはしないと、いつだったか彼はそう告げたはずだけれど、頼めば出題されそうな範囲くらいはきっと教えてくれるはずだ。そんなことを、不思議なほど冷静に頭の隅で考えながら、ボクはつぶやいた。
「最後?」
特殊カリキュラムで組まれた授業は回数が決まっている。初耳のような気もするし、とうに知っていたような気もする。どちらにしてもこの時間は、来週あと一度を残して消えてしまうのだ。
どこのだれが受け持っているのかさえ定かではない、ただボクと優介を繋いだ、週に一度きり、たった一時間の授業。
どうせ消えてしまうと、そう告げた優介の言葉は真実だ。ボクは彼のそばにいられなくなる。それももうすぐに。この授業時間を失えば、ボクはもう、彼の隣に立つすべを持たないのだから。