ひかれ者の小唄 - 3/6

 吹雪、と名前を呼ばれたので振り返ると、藤原優介がそこにいた。
 それがあんまり突然だったから、ボクは驚いて思わず呆然としてしまう。その反応を見てようやく、目の前の彼の表情にもじわじわと驚嘆が宿ってゆく。
 時刻は夕方で、廊下の窓から赤い空が覗いて見えた。あれ、とボクは思う。この感じは知っているぞ、と思う。突然に意識が目覚めたみたいな、いままで自分がなにをしていたのかさっぱり思い出せない、奇妙で不自然な感覚。彼とはじめて対面したときに覚えた違和感と、とてもよく似ていた。
 どうして彼がここにいるのだろう、という考えが過ちであることは、もうわかっていた。彼がここにいるのがおかしいのではない。この空間に於いて、本来在るべきでないのはボクのほうだ。
「…………」
「……やァ、どーも」
 硬直している優介に、とりあえず挨拶をしてみる。「久しぶりだネ」と言うと、彼は信じられないというふうにボクを見つめて「なんで」と返した。「もとに戻ったと思ってたのに……」
「ウーン、ボクもそう思ってたんだけどネェ」
 というか、夢じゃなかったのか。
 予想外の再会に、ボクは優介の顔をまじまじと見つめ、それが以前に会ったときとまったく変わらない相手であることを確認する。なんて整合性の取れた夢だろう、と思うより先に、ひょっとしたらこれは夢なんかじゃないな、と考えた。ボクはいまもどこかの教室で眠っていて、そのあいだにこちらの世界に飛んできているんだ、となぜか確信的にそう感じた。
「アー……ええとゴメン、確認させて。ボクが前に来てから、こっちではどのくらい経ってる?」
「……」
 困惑したふうに押し黙ったあと、十日、と静かな声で優介は言う。
 十日。その時間は、たぶん、優介のなかでもボクの存在をなかったことにするのに充分なものだったろう。彼は本気で驚いていたし、それはもちろん、ボクだってそうだ。再び彼の姿を見ることは、もう二度とないものだと思っていた。
 はたしてボク自身は何日ぶりにこの、ボクの知らない方のデュエルアカデミアの空気を吸っているのだろう。よく覚えていない。いったいいつの間に、どのタイミングでこっちに来てしまったんだ?
 不安に似た驚悸を落ちつけながら、自分の手を握ったり開いたりして、身体が問題なく動くことをそれとなく確認する。窓ガラスにうっすら映った姿に視線をやると、まだ少しだけ細く小さい、一年生の天上院吹雪がそこにいた。ほう、とボクはそれをまじまじと眺め、自分がきちんと『吹雪』であることにひそかに安堵するのだった。
 異常事態も二度目となると、さすがに落ち着いたものだ。一生このままだったらどうしようという不安があった前回とは違い、放っておけばそのうち目覚めるだろうという楽観もあって、ボクはどことなく若々しい自分の身体にちょっと感動したりする。顔立ちは見慣れたいつものボクだけど、やはり雰囲気がまだ少年っぽくてなんだか面白い。
 と、そうして鏡代わりに見つめる窓の下に、数名の女子生徒の姿があった。どうやらボクを見上げてはしゃいだ笑顔を向けているらしい彼女たちに、少し笑んでひらひらと手を振る。きゃあ、と甲高い歓声が、この距離でも届くような気がした。
「ね、ボクってこっちでもモテる?」
「…………」
 優介はその質問には答えず、さきほど「吹雪」と呼んだときの砕けた口調から一転、薄暗く冷めた声音で、「一度寮にもどろう」と言った。「あまり人目につくところにいてほしくない」
 随分な言いようだった。彼はなにかに憤っているようで、それはもう全身という全身から、ボクのことを快く思わない気持ちを隠すことなく立ち昇らせている。人目もなにも、外見や声はこちらの吹雪のままなのだからなにを気にすることもないだろうと思うのだが、しかしそれを言うと彼はいっそう機嫌を曇らせた。

* * *

 ボクとこちらの吹雪との生活の相違点をもうひとつ見つけた。
 寮へ行くといった優介の足がなぜだかどんどんとブルー寮から離れていって、最終的に辿りついた場所はどういうわけだか森のなかだった。そこに佇んだ立派な学生寮を見上げ、思わず立ち止まったボクに、優介はこちらを振り向きもせずすたすたと歩いて入ってゆく。慌ててそれを追いながら、ボクは言った。「キミたちはこんなところで生活してるの?」
 ぽいと飛び出た発言に、優介はようやくこちらを見た。不快さを隠さない視線だった。
「こんなところって……」
「だって森の中だよ? 周りに木しかないし、そもそも校舎からめちゃくちゃ遠いじゃないか。ここから毎日あそこまで通学してるわけ?」
「……共通授業は校舎まで行って受けるけど、特待生のカリキュラムは特別だから、寮内での講習もたくさんある。めちゃくちゃってほど遠くないし、こんなところとか言われなくちゃならないほど辺鄙でもない」
「いや、それにしたってありえないでしょ。ボクの方ではこの寮、とっくに使われなくなって今じゃ廃墟みたいになってるんだけど。なに? こっちじゃ特待生ってこんな扱いなの?」
「…………」
 優介は侮蔑と呼ぶのにふさわしい眼差しをボクに向けて、今度こそ振り向くことなく歩いていってしまう。建物の中に入ってから、彼は少し迷うような素振りをして、行く先を定めてまた歩を進め出した。どうやら吹雪の部屋か自分の部屋か、どちらにボクを通すべきなのかを考えたようだった。

 優介の部屋はきれいに整頓されていて、なんとなく潔癖っぽい印象を与える空間だった。彼がとても静かにここで生活していることが、一見してよくわかる。たぶん、ベッドと机を行ったり来たりするような、そんな退屈で単調な繰り返しを飽きもせずに続けているタイプだ。就寝、勉強、また就寝。とてもつまらない学生生活の体現者である。
 他人の部屋を一望してすぐにそんな当たりをつけるボクに、優介はその不躾な視線に気付いたのかそうでないのか、さっきからの不機嫌そうな表情を変えることなく、黙ってソファに腰掛けた。座りなよ、みたいなひと言があるかと思ったけれど、とくになにも言われなかった。
 これが女の子相手だったらなぁ、とボクは思わずにいられない。好みの女性の部屋に通されたなら無論大歓迎なシチュエーションなのに、相手が男ではどうしようもない。優介はまるで猫の子みたいに空中をじっと見つめていて、それから、なんとなく小さく首肯したように見えた。まるでそこにいる目に見えない誰かに、ボクをどうすべきかのアドバイスでも頂戴したみたいだ。変なヤツだなとボクは改めて彼を評価し、今なお降り続ける沈黙を打破すべく、それで、と口を開いた。「人目につかないトコロまでボクを連れ込んだわけだけど、このあとはどうするんだい?」
 言いながら、さりげなく彼のとなりに腰をおろす。校舎からここまではやっぱりそれなりに距離があって、あまり歩きなれない森の中を進んでボクだって疲れたのだ。ほんとうならお茶のひとつくらい出してほしい。
 優介は嫌そうな顔で少し身を捩らせたけれど、勝手に座るなと怒鳴りだすようなことはさすがにしなかった。たぶん彼は他人に感情をぶつけるのが苦手なタイプで、こういった手合いは半ば強引に押し切ってしまうのが一番効果的だということをボクは知っている。
 優介はボクの問いかけに、べつに、とそっけなく返した。
「べつにって……」
「言っただろう? あまり人目につくところにいてほしくないって。ただそれだけだよ。なにをしようとか、そういうふうには考えてない」
 つまり、前回のようにボクが勝手にいなくなるのをひたすら待つ、と。
 それはある意味で正しい思考のようにボクには思えた。優介はどうやらボクに吹雪の身体を使ってほしくないようだし、それならば、まぁ、懸命な判断だと言えるのではないだろうか。それはもちろん、ボクがもっと謙虚で大人しいタイプの人間だったなら、の話だけど。
「たしかに、待っていればそのうちもとの世界に戻れるだろうし、別に良いんだけどさ。それまで暇じゃない? 寮の中だけでもちょっと見させてよ。ボク、こっちのアカデミアのことなんにもわからないし」
「…………」
 部外者がそんなことを気にしてどうするんだ、という眼で、優介はじっとりとボクを睨む。なんてかわいくない表情だろう、と思いながら、けれど、ボクは隣同士という至近距離で改めて彼を見つめて、ううむ、と小さく唸った。表情はかわいくないけれど、顔の造形はかわいいのだ。一見キツく見える釣り目は特徴的で、ちいさな顔の中にひどく映えたし、パーツのそれぞれに妙な愛橋がある。へぇ、とひそかに感心しながら、ボクがすこし目を細めるのを、彼はやはり嫌悪するような、怯むような目で見つめていた。
「いまは放課後だからそのうち戻るのをのんびり待っていても平気だけどさ、でも、これで二度目なんだ。今回戻ったところで、ボクはきっとまたこっちに来ることになるよ」なにせ居眠りの時間は毎日飽きるほど用意されているのだ。「そのとき常にキミがそばにいるとは限らないわけだし、事前にいろいろ教えてもらってないと、勝手がわからなくって突拍子もないことしちゃうかも」
 そうしたら困るのはこっちの吹雪だろう?
 問いかけに、優介はぐっと言葉を詰まらせて眉尻を下げた。ボクがわざとらしくにっこりと笑ってみせると、ぎゅっと唇をかんで、わかった、と頷く。
「代わりに、ひとつ約束してほしい」
「ンー、善処はするよ」
 敢えて曖昧な返答を用いてみると、彼は呆れたような諦めるようなようすで軽く息を吐いた。ボクのことをまるで信用していない。その心情を隠すことさえしない。ああ、まともに相手をする気がそもそもないのだ、と気付き、ボクは心中でゲンナリした。彼はたぶん、ボクのことを『吹雪』にとり憑いた悪霊かなにかのように感じている。
 優介は言葉を選ぶふうに少し口をつぐみ、それから、意を決したような調子で、「ここがきみの居場所じゃないってことを覚えておいて」と言った。「それが吹雪の身体だってことを理解してほしい。吹雪に迷惑のかかるようなこと、ぜったいにしないでほしいんだ」
「……ボクだって一応、吹雪なんだけどな」
 並行世界が云々と、優介は前回逢ったときにそう言っていたけど、それだって横たわる違和感は『ほんのすこしのズレ』でしかない。こちらの吹雪がどうやらちょっと変わったヤツらしいということは話に聞いたけれど、だからといってボクとそう大きな違いがあるとは思えなかった。おなじ声でおなじ見た目で、授業を受けている最中だって亮やクラスメイトは問題なくボクに接していた。こちらの吹雪もたぶん、教室ではおざなりに教科書を広げて適当に教師の言葉を聞き流したり、居眠りをしたりしているに違いない。女の子たちだって、ボクが手を振ったことに驚いたりなどしていなかった。それが当たり前なのだ。天上院吹雪はそういう人物だ。
 けれど優介は首をふった。
「でもきみは、俺の知ってる吹雪じゃない」
 キッパリとそう言う。それがボクに拒絶の意思を示すための発言だということは、もちろんよくわかる。俺はお前なんて認めないぞという宣言。それを受け取って、だからボクも、それはそうだね、と軽く返すことにする。「ボクだって、キミのことなんて記憶にないし、ネ」
 その言葉をまともに受け止めて、優介の顔から一瞬で血の気が失せた。ただでさえ白い頬をいっそう強張らせて、彼ははじめて会ったとき、ボクが睨んだあのときと同じような、「キミはだれだい」と問いかけたときと同じような、あからさまな心の痛みを表情に貼り付けて黙り込んでしまう。
 なんて簡単に傷つくのだろう、とボクは関心すら覚える気分だった。自分からしかけてきたくせに、それを返されることに対して彼はあまりに無防備すぎた。こんなに脆くて、その弱さをこうも簡単に曝け出して、それで彼はどうやってここまで生きてきたのだろう。きっととてつもなく幸福で充たされた家庭環境で育ったに違いない。そうでもしなければ、こんなにも滑らかで壊れやすそうな人格が形成されるわけがない。
 生まれてはじめて誰かに悪意をぶつけられた子どもみたいだと思った。優介は真っ直ぐ自分に向かってきた正体不明の敵を前に、武器も持たずにただ突っ立っている。それじゃだめだ、とボクは思う。思考だけで対抗できる害悪なんて限られているんだ。そうやって棒立ちのまま、全身で衝撃を受け止めるような真似をしちゃいけない。
 自分からしかけたからといって、返ってきたものまで受け入れる必要なんてないんだ。向けられた暗い感情や言葉は、きちんと避けて、受け流して、叩き潰さないと。
 そうでないといつかかならず、彼は悪意に飲みこまれる。
 ボクは思って、沈黙する。優介はまだ少し青ざめた顔で俯いて、その状態のままで、この時間をやり過ごそうとしているようだった。ボクはさっきその思考を、ある意味で正しいものだと、妥当であるとそう解釈したけれど、それはどうやら間違っている。彼は目を逸らすこと、逃げ出すことに慣れすぎているだけだ。
 それに気付くと、ひどく苛立った。どうしてそんなふうに生きようとしているのだろう、と無性に腹が立ってくる。ボクはゆっくりと呼吸をして、腹部のあたりに急速に湧き上がった怒りを抑え込むためにわざとゆるやかに、砕けた口調で「わかった」と言った。余裕ぶるために、口元だけで薄く笑う。
「約束するよ。こっちの吹雪としておかしな言動はしない。個人行動も、極力避けるようにする。自制するし、周囲に不審に思われないよう努力する。それでイイ?」
 優介は俯けていた顔をちらりと上げて、ん、とちいさく頷いてみせた。その仕草が妙に子どもっぽくて、ボクは意外に思ってから、そういえばこの子はまだ年下なのだと思い出す。デュエルアカデミア新一年生の彼。
 ほんとうならボクと同い年で、同学年で、クラスメイトだったかもしれない、藤原優介。
 ふいに、頭の遠くでうっすらとチャイムの音が聞こえ出した。ボクはそれが空耳でなく段々と近づいてくることを確信して、ああ、もう戻らなければならないのだと気付く。授業が終わる。ボクの居眠りの時間が終了を告げる。
 まだもう少しここにいたいのに。この風変わりで危なげな少年を、まだ見つめていたいのに。
 もし戻ることが出来なかったらと不安に感じていた前回とは真逆に、もしもう一度来ることが出来なかったらと考える。急速に現実に引き戻されつつある意識を無理やりにこちらに繋げて、ボクは慌て気味に口を開いた。
「また来るよ。そのときこそちゃんと、こっちのこと教えてよネ。あとそれから、」
 きみのことも。
「え、なにか言った?」と優介の声がぼやけて届く。不自然なくらいに清閑としていた彼の部屋に、ほどなくして雑音が入り混じってざくざくと溶けた。授業を終えた教室のざわめきが全身に響く。ボクはうつ伏せていた顔をあげる。

 あきれ顔の亮と目があった。

「……先週もそうやって、一時間丸々眠っていたな。そんなにこの授業が嫌いか?」
 枕にしていたノートには、ほんの冒頭部分だけ板書された見慣れない記号の数々。なるほど、ここが扉だ。
 毎週金曜日、四時限目。週にたった一度しかない、錬金術の授業。
「来週もまた居眠りするけど、絶対に起したりしないでネ」
 軽い口調でそう告げると、亮はやっぱり呆れたふうにほんの少し目を細めて、けれどボクが心からそれを望んで頼みこんでいるのだということをきちんと把握してくれたらしい。あとからノートを貸したりはしないからな、と彼はいつも通りの静かな声でそう言った。

0