吹雪、と名前を呼ばれたので振り返ると、知らない生徒がそこにいた。
このちいさな島のうえで暮らしている人間は教師も生徒もそれ以外も含めて膨大な量で、そのうえでさらに男女比ときたら圧倒的に男が多い。具体的な数字なんて知らないけれど、たぶん七対三くらい。日本全体で見れば女性人口のほうが多いはずなのに、デュエルを中心にして回る学園の敷地内はその縮図に当てはまらない。
個人的には由々しき事態なのだが、ともかく、いまボクの前にいる見知らぬ人物はその七割に該当する側で、つまり男だ。ボクとあまり変わらない背丈、ひ弱そうな細い手足と、それに反して勝気な釣り目。どことなく制服に不慣れな雰囲気があるから、下級生なのだろう。親しげな調子でボクの名を呼んだ彼は、しかしこちらが振り向いてみせると途端に不思議そうな顔をした。人違いだったかなと思ったけれど、たしかに彼は吹雪と呼んだはずだ。吹雪はボクだ。
不審に思い顔をしかめる。彼はぎょっとしたふうにボクを見つめて、それから、「吹雪?」ともう一度言って首をかしげた。差し向けられる猜疑の視線とクエスチョンマーク。本人を目の前にそんな失礼なことはない。
いや、ひょっとしたらこの島の中にボク以外にも吹雪の名を持つ者がいるのかもしれない。アカデミア内の総人口のおおよそ七割の名をボクはほぼまったく記憶していないし、噂に聞いたことすらないけれど、可能性が皆無ということもないのだろう。
けれど見知らぬ彼は怪訝そうに、じいとこちらを見ていた。間違いなく、ボクを見ていた。なに、と言ってやると、え、と言葉を詰まらせる。「だから、なにか用?」
「えっと、用っていうほどでは、ないんだけど……」
紫色の目が泳ぐ。いかにも都合が悪いですというふうに、彼は落ち着きなく辺りを窺い、そうしながら、実際のところはこちらのようすを窺っているようだった。なにがしたいのかまったくわからない。
用もないのに話しかけるな、とボクは思い、その気持ちをそのまま表情に出した。たとえ用事があったところで、男になんか話しかけられたくはないっていうのに。
彼はなぜか傷ついたような顔をして、なにか確かめるみたいにボクの顔をまた見つめたかと思うと、次の瞬間には目を逸らした。か細い声でなにかを言ったが、よく聞き取れなかった。たぶん「ごめん」と言ったのだろう、となんとなく思う。そういう感じの、弱々しげな顔をしていた。
「……俺、先に行ってるから」
そう言ってくるりと背を向け、逃げるように去ってゆく。
いったいどこへ行くっていうんだろう。はたしてボクの行く先と彼の目的地は同じなのだろうか。怪訝に思ってはじめて、ボクはようやく違和を覚えた。
はて、ボクはいったいいままでなにをしていて、それからどこへ向かうつもりで歩いていたのだったろう。
次に不審に思ったのは授業内容だった。
なんとなく変な気持ちを抱えたまま、ともかく、教室までやってきて講義を受ける。実に初歩的なデュエルモンスターズについての講談。前回の復習だと前置きして説かれる、新鮮みのかけらもない授業。
聞いても聞かなくても試験に影響などなさそうな、そんなお粗末な内容の講義をなんの気なしに聞き取りながら、けれどすぐさまボクは、あれ? と思う。なんだかおかしいな、と気づく。ぼんやりと聞き流していた先生の話にきっちりと耳を傾けると、そのちぐはぐの正体はすぐにわかった。間違いない。ボクはすでに一度、この授業を受けている。
となりに座った亮を見やると、彼は真剣なまなざしで授業に聞き入っていた。肘をつついてやると、彼は視線をこちらにはやらないままで「なんだ」と言った。まるで怒っているみたいな反応だけど、声色は決して批判的ではない。ボクのよく知っている丸藤亮だ。
「ネェ、亮、この授業さ、前に受けたことない? 一年のとき」
「……」彼は少し考えるみたいに宙を見やって、けれどすぐさま「いや」と返した。否定というよりは、なにを問われているのかよくわからない、といいたげな、不思議そうな声だった。ボクは首をひねる。亮がそう言うのなら、それはきっと間違いないのだろう。
けれど、ただの規視感と呼ぶのにはあまりに猛烈な居心地の悪さは、信頼に値するはずの友人の記憶力にすら猜疑を覚えさせた。なにかがおかしいのだ。それは間違いない。
そんなふうにもやもやと胸中を曇らせていると、ふと思い立ったみたいなタイミングで亮が口を開いた。今度はきちんとボクの方に視線をやって、極真面目な様子で、そういえば、と。
「藤原となにかあったか?」
そう言った。突然放り投げられた単語に、ボクは一瞬ぽかんとして、思わず「はい?」と返した。思ったより大きな声が出て、近くに座っていた何人かがちらりとボクらのほうを見た。
「……いや、なんでもないなら構わない。少し様子がおかしそうだったから、なにかあったのならお前が原因かと思っただけだ」
悪かった、とけっこう本気で申し訳なさそうに言う、彼の横顔がいつもよりずいぶん幼げなことに、ボクはそのときはじめて気が付いた。亮はそれ以降こちらを見なかったし、なにか声をかけることもしなかった。ボクもなにも言わなかった。
ボクらの席から少し離れたところに、さっきの変な男子生徒が座っているのが見える。下級生かと思ったけれど、どうやらクラスメイトだったらしい。もちろん、ボクの記憶にあんな級友は存在しない。彼はすっと背筋を伸ばして真面目に授業を受けていたが、ときおり思い出したみたいにチラチラと背後を――ボクのほうを気にかけているようだった。
あれだ、とボクは思う。この違和感の原因。見慣れた日常に入り込んだ、わけのわからない異端物。
亮の言った人名がすとんとその姿にはまりこむ。あそこに座る彼こそがおそらく、『藤原』なのだろう。
授業が終わってすぐに、彼に声をかけた。少し歩み寄ってから、フジワラ、と呼んでやると、彼はすぐさま顔を上げてこちらを見た。その目付きがどうも少し疑わしげなものだったから、ボクはさきほどの反省を踏まえて、できるだけ優しくにっこりと笑いかけてやる。なにせ逃げられては困るのだ。
本来男になんて絶対に向けることのないボクのとびきりのスマイルを見て、彼は心底安堵したようだった。警戒していた視線が、あっという間にほころぶ。ちょいちょいと手招きしてやると、彼はおどろくほどあっさりとこちらに寄ってくるのだった。
そのあまりに無防備な反応に、ボクは思わず拍子抜けしてしまう。諸悪の根源など叩き潰してやるくらいの気持ちで声をかけたのにも関わらず、簡単に毒気を抜かれてしまった。緊張感のないようすで「なに?」と訊ねる彼は、どうやらボクと親しくして当然のように思っているようだった。
「ン、ちょっと話があるんだけど、いい?」
いいよ、と彼は少し笑う。「どうしたの、改まって」
このボクが男相手にこんな媚びたようなことを言っているというのに、周囲のクラスメイトたちはとくに気にしたようすもなく、ボクと彼のツーショットを認めている。亮なんてどこかほっとしたみたいな顔をして、先に行ってる、とボクらに残していった。それがあんまり自然だったから、ボクは軽く「わるいネ」なんて返してしまう。ほんの少しのズレ以外、ボクとボクを取り囲む環境はいたって普通だ。
そしてそのほんの少しのズレの中で、とりわけ目立つ彼を、しかしボクはどうするべきだろう?
* * *
とりあえず人目のつかない場所が良いと思い、見慣れた校舎をゆっくり歩く。その間、やたらとなれなれしい口調で話しかけてくる彼には適当に相槌を打ったが、それも段々と面倒くさくなってきた。ほとんど無視に近い反応しか返さないでいると、声は次第に不安げに弱まってゆく。動揺や困惑をじわじわと含んだ、こちらの機嫌を窺うような下手の口調。それを背中から聞きながらボクは、なんだかばかばかしいな、と感じはじめる。こっちの気も知らないで、なぜ彼はこんなにも能天気なのだろう。
適当に目についた空き部屋に入り込む。そのころには彼も、状況の不穏さに気付いていたはずだ。一度解けたはずの警戒心とボクに対する怯えは、再度彼の表情に見えはじめていた。それでいい。ボクだって、勝手に日常に介入してきた見ず知らずの人間に、上辺だけでも笑顔を向けてやるのなんてまっぴらだ。
「単刀直入に言うケド」
と、相手を逃がさないよう出入り口に立ち、鍵をかけてからボクは言った。彼は先ほどボクに呼ばれて寄ってきたときとはまるで別人みたいな陰鬱な顔で俯き、けれどどうにか目を逸らすことはせずにこちらを見ていた。ぎゅっと拳を握っている。そのようすが、まるで天敵に追い詰められてなお立ち向かおうとするアライグマみたいに滑稽で健気だったものだから、ボクは少し笑ってしまう。まるでこっちが悪役みたいだな、と思い、ふいに、ひょっとしたらそうなのかもしれないと考えた。
ボクのほうがおかしいのかもしれない。
ほんとうは、ボクと彼は友人同士で、ただボクのほうが彼のことを忘れてしまっているだけなのかもしれない。
「キミは誰だい?」
もっと嫌悪を孕んで伝える予定だった疑問は、思ったよりも真っ直ぐに言葉になった。単刀直入に、と自ら前置きしておきながら、これはすこし直球すぎるのではないだろうかと思う。案の定、彼はひどく驚いた顔をして、さっきはじめて会ったときみたいにぐっと喉を詰まらせた。「誰、って……」
「ボクはキミを知らない。いまのいままで、会話なんてしたことがなかっただろう? フジワラなんてどこにでもいそうな名前だけど、少なくともボクはこの島ですごした二年間、キミのことなんて一度だって記憶してない」
すうっと、彼の顔が青ざめた。淡々と言いきったボクの顔を、まるで絶望そのものを見つめるみたいに凝視している。見開かれた大きな瞳がゆらりと揺れたから、ボクは彼が泣きだすものだと思った。面倒くさいなと思った。これじゃまるで、ボクが弱い者いじめでもしているみたいじゃないか。けれど、
「……吹雪」
と、思ったよりハッキリとした口調で彼は言った。ボクの名前を、まるで親しげな友人の意識を確かめるみたいに放つ。
彼は泣きだしたりしなかった。
「吹雪じゃ、ない……?」
きみはだれ。
得体の知れないものを見るように、今度は彼がそう言った。ボクらはどうやら、互いに互いのことを知りあえていないようだと、その言葉を聞いてボクははじめて理解した。
* * *
彼の名は藤原優介というらしい。
フルネームを聞いたところで、やっぱりボクには聞き覚えのない名前だ。ひょっとしたらどこかですれ違うくらいはしているのかもしれないけれど、本来のボクの日常に彼の姿はない。
優介は、ボクや亮と仲の良い友人なのだそうだ。少なくとも、彼の言う限りは。『こちら』の世界においては。
「一年だよ、俺も吹雪も、もちろん丸藤も。入学してから、半年も経ってない」
その言葉を信じるのなら、デュエルアカデミア三年、キング吹雪の名を持つこのボクは、いま現在なぜか入学したての一年生として学園に名を連ねていることになる。そんなバカな、と笑い飛ばすには、たしかに授業内容はあまりに生易しいものだったし、亮の横顔はまだ幼さを纏っていた。彼、藤原優介を下級生だと思ったのもそのせいだ。
つまり、異端者はどうやら彼ではなく、ボクのほうであるらしいのだ。
ボクは鏡を覗いて、そこに映るのが見慣れた自分自身であることを確認する。それでいて、組み込んだ覚えのないカードばかりが揃った自分のデッキを前に、なんとも言えず立ちつくした。PDAに表示された日付は、ボクの知るのより二年も前を指している。
漠然とした違和感どころの話ではない。
なぜだかわからないけれど、ボクは『ボクではない吹雪の世界』に、突然入り込んでしまったようなのだった。
その突拍子もない仮説を、手際良く組み立てたのは他でもない藤原優介だった。まるで現状を理解できないボクを放って、彼は暗い無表情のままでいくつか質問を並び立てては黙り込む、という作業を繰り返し、最終的にひとつの答えを出したようだった。
並行世界、と彼は言う。
「自分の生きている現実とはべつに、もうひとつの現実が存在するっていう、SF小説なんかでお馴染みのやつ。実際に起こり得るかどうかはわからないけど、たぶんいまの状況は、その表現が一番わかりやすいと思う」
優介はボクから少し距離を取った位置で壁に背中を預け、そんなことをぽつぽつと話す。どうやらそういった非現実的な事象に造詣が深いらしく、ずいぶんと滑稽な、失笑してしまうような単語が彼の話には多く含まれた。つまり、異世界だの四次元世界だのといった、普通に生活していればまったく縁のない、エンターテイメントやフィクションに多用されるたぐいのワード。
それらを積み重ねながら、優介は考え込むようにしてひとりで喋る。ボクにではなく、自分に言い聞かせるみたいに。こちらを見ずに俯いたままの彼をぼんやりと眺めながら、ボクは他人事のようにその現象の説明を聞く。
パラレルワールド。もうひとりの自分。タイムトリップ。魂と身体の入れ替わり。
……頭が痛くなってきた。
「むこうの世界とこちらとの時間差が二年として、……いや、でも単純に未来の吹雪がずれ落ちてきたっていうわけではないのか。ならやっぱり、吹雪はむこうに行っているって考えるのが妥当なのかな」
「……あのさァ」
と、口を挟んでようやく、優介は暗い顔で床を睨むのをやめてこちらを見た。その目がどうにも陰険な感じで、余所者になんて興味ありませんと言わんばかりで、ボクは少しムッとする。混乱しているのはこっちだって同じなのに。
「さっきからそうやって、パラレルワールド? とか、なんか映画みたいなことばっかり言ってるけど、単純にボクがどこかで頭でもぶつけて、それで記憶が混乱してるだけとか、そういうふうには考えないわけ?」
自分で言うのもおかしな話だけどさ、と付け加える。実際、そんな非現実的な話よりもまず、疑うべきは脳細胞のほうではないだろうか。本来なら。
「あるいは、ボクがふざけてキミのことからかってるだけ、とかさ」
「……」
彼はどことなく青白い顔でじいとボクを見つめて、感情の見えない目付きのままで薄くくちびるを開いた。ちがう、と言う。
「吹雪とはちがう。……俺の知ってる吹雪は、きみみたいな目をしてない」
想定したよりも硬く重たげな声で、彼はハッキリとそう告げた。はたして、彼の知る吹雪とはボクと違ってどういった眼光を持っているというのだろう。それはひと目で相違が知られるほど明確なものだとでも言うのだろうか。
あまりにチープな返答だ。けれど、それを軽々しく笑わせないほどの深刻さを、彼は表情に浮かばせていた。
「それに、吹雪はそんなことしない」紫色の両目を再び足元へと落としながら、低く思いつめた声で彼はつづけた。「冗談でも俺のことを知らないなんて、絶対に言わない」
「……あ、っそ」
まぁ、それはそうだろう。ボクの側からしたって、たとえば、学園の全精力を掲げた盛大なドッキリに嵌められているなんて、そんな可能性を考えたくはない。必要だって感じない。
自分の頭がおかしくなってしまったかもしれないだなんて、そんな疑心暗鬼にだって陥りたくはない。ボクはボクだ。天上院吹雪だ。
「あ、ネェ。じゃあ、キミの知ってる吹雪ってどんなふう?」
とはいえ、使い古されたSF映画みたいな仮説を延々と聞かされるのもごめんだった。彼の低い吐息みたいなつぶやき声をこれ以上だまって聞いていたくないボクは、せめて会話をしようと思いそんな話題を振ってみる。優介はそのふしぎと特徴的な形の目をすこしだけ緩ませてちらりとこちらに視線をやると、どんなふうって聞かれても、と言った。
「吹雪は、……変わってる。なに考えてるかよくわからないし、突然変なことしだすし、喜怒哀楽がはっきりしてるわりに感情が読めないっていうか、なにしてても楽しそうっていうか……変なやつだよ。破天荒で自由で気まぐれで、ムードメイカーというよりはトラブルメイカーだし。たぶん、周りの人の迷惑とかそういうこと、ぜんぜんなにも考えてない」
「…………」
最悪だった。
もうひとりの自分に向けられたあまりの評価に、ボクは閉口せざるをえない。それは人としてどうなのかとさえ思うのは、たぶん、この世界ではそれがそのまま自分自身への認識とつながってしまうからだろう。ここにいるかぎり、ボクはそのむちゃくちゃな吹雪とおなじ扱いをこの島で受けるはめになるのだ。とんでもない話だった。
けれど優介はそんなふうに批判じみた言葉を使いながら、なぜか穏やかな顔つきでふと頬を緩ませた。なにかを思い出したみたいに、ちいさくつぶやく。「ほんと、吹雪は変わってる」
その感じを見るに、どうやらこちらの吹雪は、まぁ、そこまで酷いヤツというわけではないようだった。
フーン、とボクが軽く相槌を打つと、優介はすぐにまたあの陰鬱な表情に戻ってしまう。わかりやすいヤツだなとボクは思う。まぁ、変にカタブツすぎたり逆に頭が悪すぎたりするよりは、このくらい賢俊そうで、そのうえで隙間がよく見えるタイプのほうが、関わりやすいといえばそうなのだろう。
そうだ、いつまでもココにいるわけにいかない。
ボクにはボクの生活があるし、彼の説を採用するとすれば、こちらのムチャクチャな吹雪はいまごろボクの世界に行ってボクとしてすごしているかもしれないのだ。それが事実なら、今後の学園生活のためにも火急的速やかに阻止したい。
けれど戻る手段なんてさっぱり見当がつかなかった。こちらに来た瞬間のことだって、ボクにははっきりと認識できていないのだ。気付いたらここにいて、なんの疑念を抱くこともなくふつうに歩いていた。彼に呼び止められるまで。
優介だけなのだ。
ボクにとって、ここがボクの居場所でないことを実感できるのは、藤原優介の存在だけだ。
「ネェ、優介。頼みがあるんだけど」とボクは言う。あまり深刻になりすぎないように、楽天的でいられるように、すこしだけ注意を払って。
そうでもしないと、なんだか本当に頭がおかしくなってしまいそうな気がしたからなのだけれど、優介はそんなボクの声にびくりと大袈裟なくらい反応してこちらを凝視した。なぜか少し後ずさっている。
「? ――あのさ、キミの言うその並行世界ってやつがホントだとして、ボクもいつまでもこんなとこにいたくないんだよネ。見たところそう大した変化はなさそうだけど、やっぱりボクにとってはいろいろ違和感が残るわけだし、キミだってさっさと本当の吹雪に帰ってきてほしいでしょ?」
利害の一致、というほど複雑な問題ではない。
「だからさ、協力してよ。ボクがもとのボクに戻れるようにさ。なんかキミ、そういうの詳しいみたいだし」
「…………」
彼はボクの顔をじっと見つめて、それから思い出したみたいに、「あ、うん」と小さく言った。なんだっていうんだろう。彼は吹雪のことを変わっていると言ったけれど、ボクからすれば優介だって充分に変人だ。似たもの同士なのだろう。
「ま、そうは言ってもとりあえず授業は受けておかないとだよなァ」時間を確認し、ボクは言う。話しこんでいるうちに結局一時間サボってしまったけれど、じきに次のコマがはじまる頃だ。さすがにそろそろ移動しなければならないだろう。「面倒だけど、大ごとにはしたくないし。亮あたりに勘付かれるのが一番厄介だしネ」
丸藤亮はあらゆる面で非常に頼りになる友人のひとりだが、けれどこういった事象に巻き込むのには気が引けるタイプでもあった。彼に相談するには、この現実はばかばかしすぎる。というか、こんな滑稽な話、だれにだって信じてもらえるとも思えなかった。ボクだって自分自身のことでなければ、「病院へ行け」のひと言ですませたに違いない。
だいたい、ここが今までボクのすごしてきた世界でないとするなら、さっき教室にいた亮だって別の人物なのだ。ボクとボクがどうやら少々異なった性格をしているように、こっちの亮が信頼に値する相手だとは限らない。
最悪、一生ここでこちらの吹雪として生きていかなければならない可能性だってあるのだ。自ら不要な種を蒔くことはしたくなかった。
そうなると大事なのは結局、いつもどおりにすごすことなのだろうとボクは思う。その合間に、じっくりと対策を練ればいい。現状を考えると、長い目で見てゆくしかなさそうだった。
「あ、そうだ優介、つぎの授業ってなに?」
一年のときの時間割なんて覚えていない。ふと思い立って訊ねると、優介はやはりびくりと身体を跳ねさせた。こちらが驚くくらい過剰な態度に、ボクは思わず眉をひそめる。いったいなんなんだ、と怪訝にすると、彼もそれに呼応するみたいに渋面を浮かべた。「それ、やめてくれないかな」
「なにを?」
「……だから、その、」
彼が口を開くのと同時にチャイムが鳴ったから、その言葉の続きは聞き取れなかった。
ボクは目を覚ます。
緩慢に鳴り響くチャイムの音と、授業の終わりを知らせる教師の声。
じわじわと広がりだすクラスメイトたちのざわめきが、まるでノイズが唐突に切れたみたいにクリアに聞こえるようになる。ボクは伏せていた顔をむくりとあげて、それから、となりに座っていた亮を見た。彼はひどく呆れた顔をして、「おはよう」と言った。「やっと起きたか」
きょろきょろと視線をさまよわせると、見慣れた教室では見知ったクラスメイトが授業を終えてすぐの解放感満載の表情で、思いおもいに歓談したり移動をはじめたりしていた。
「……ボク、寝てた?」
「見事に一時間分、ぐっすりな。先生に見咎められなかったのが不思議なくらいだ」
亮はそう言って、わざとらしく嘆息さえしてみせた。下手を打って留年でもしたら知らないぞ、と言わんばかりだった。
夢だったのか、と率直に思った。なんてリアリティのある夢だったのだろう、という気持ちと、あんな非現実的なもの夢で当然だという気持ちがないまぜになって、軽く混乱している。今日の日付を確認し、自分のデッキを確認し、それから、亮に訊ねた。
「藤原優介って知ってる?」
彼は一瞬なにを問われたのかわからないという顔をして、それからすぐに「いや」と返した。「誰だそれは?」
そうだよなぁ、とボクは思う。ぜんぶ夢だったのだ。並行世界とか、もうひとりの自分だとか、そんな子どもの夢想みたいな出来ごと、実際に起こるわけがない。
「……誰だったんだろうネェ」
つぶやくと、亮はやはりふしぎそうな顔をしていた。彼は藤原優介のことを知らないのだ。そう考えると、ふいに血の気の引いた顔で両目を見開いていた優介のことを思い出し、なんとなくかわいそうになと思うのだった。亮にまで「お前はだれだ」と言われた日には、今度こそ彼は泣きだしてしまうのではないだろうか。
そんなふうに考える自分に苦笑して、ボクは申しわけばかりに開かれた教材を仕舞いこむ。なんだか長い旅から戻ってきたみたいな、変な気分だった。
ぜんぶ夢だったのだ。
自分の想像力は思ったよりも豊かだったのだなぁと、ボクはぼんやりと考える。