3.さよなら、ひらり
一番最初の記憶は夜だった。思い出の中のその景色は端々にキラキラと不思議なヒビが入っていて、ぼんやりと、夢路のように霞がかっている。どこからともなく、甘ったるいような、とろりとしたふうな匂いがしていて、そのとろりに包まれた視界は、なんだかふらふらと安定しない、心地の悪いものだった。ひとりで立って歩くのがやっとというような、ほんの小さな子どものころ。藤原優介が所有する、一番古い記憶だ。
そこはどうやら、夜の森だった。木々に囲まれていて、けれど完全な闇の中ではなかったので、きっと家族でどこかへ遊びに出かけていたのだ。コテージを借りて、そこで、夏の休暇をすごしていた。たぶんみんなで揃って、バーベキューや花火をしていた。楽しい時間だったに違いない。そこまでの細かいことを藤原は覚えてはいないので、もちろん、想像にすぎないのだけれど。
幼い藤原は、暗い、その景色を見ていた。目の前に広がる夜は、驚くほどに、真っ黒だった。すぐそばで両親が笑っていて、そこから甘い、あの匂いが広がる。藤原は夜を見つめていた。
まっくら。まっくらだ。まっくら。
藤原はその、まっくらをじっと、じいっと見ていた。なんにもないはずの夜の向こう側から、なにかがこちらを見つめているような気がしていた。それがなんなのかはもちろん、分からなかったけれど、いつかその正体が、理解出来る日が来るように思えた。幼い記憶にはいろいろな要素が混じりあって、それがはたして現実にあったことなのか、あるいは脳が勝手に作り出しただけの幻影なのか、ただの夢だったのか、それすら定かではないけれど、記憶の中の藤原はひとりコテージを抜けだして、その森を歩いていた。くしゃ、くしゃ、と一歩進むごとに軽い音がして、なんだかおもしろいのでくすりと笑った。木の葉を踏み分けて、夜の真ん中でひとり、誰も知らないダンスを踊っているみたいな気分だった。
ふと、両親が自分を呼ぶ声が聞こえてくる。藤原はくるりと振り返る。こっちだよ、と手招く。僕はここだよ。お父さん、お母さん。ふたりが駆け寄ってきて、幼い藤原を抱き上げる。甘い匂い。母親の腕の中で、藤原はそれでもやっぱり、夜を見ている。星空。木の揺れる音。風の気配。まんまるの月。人の発するざわめきが、とても遠くに感じられる。
世界から溶け出すように、暗闇は、あたりいっぱいに満ちていた。まっくらだ、と藤原はもう一度思った。まっくら、まっくらなんだ。ちいさな藤原を抱きしめて、両親はコテージに戻ってゆく。藤原の最初の記憶は、家族で出かけた最後の記憶。ふたりが藤原の前からいなくなってしまうのは、その日からいったい何年後のことだろう。
デュエルアカデミアの夜は、その、まっくらの景色によく似ている。
藤原は寮の部屋のカーテンを閉めた。ぴったりと、一切の隙間も出来ないように、閉め切った。そうしなければ、あのまっくらがやってきてしまうことは間違いがなかった。ふと窓の向こうをのぞき込んだときに、あれと目があってしまったらと考えると、たまらなかった。扉を閉めて、鍵をかけて、窓を閉ざしてカーテンをかける。そうすればどこからも、なにも侵入してはこない。藤原はようやく安堵した。それを待っていたかのように、オネストが姿を現して、きょろきょろと、興味深げに室内を見回した。
「新しい部屋のにおいがしますね。マスター」
「そうだね。古い建物に見えるけれど、きっとそう見せるよう建築されたんだ。調度品もまだ新しい」
「よかったです」
「なにが?」
「マスターが、ここを気に入ったみたいで」
オネストは優しく目を細めた。どうやら彼のほうも、この部屋がお気に召したらしい。藤原は頷いた。寮生活と聞いて不安もあったけれど、想像していたよりはるかに広く、持て余しそうなほどに良い部屋を与えられてしまった。思いがけず、胸が踊る。
「探検しましょう、マスター。ほかにもたくさん、部屋があるんでしょう? 浴場やカフェテラスや、あと資料室も。見て回ったらきっと、もっと楽しいですよ」
「うーん、今日はもういいよ」浮き足だったようすのオネストに、藤原は苦笑いを浮かべた。「時間も遅いし、また今度にしよう。大丈夫、時間ならまだまだたくさんある。僕たちは今日から、ここで暮らすんだから」
これから三年間、ここが自分たちの新しい家になるのだ。藤原は、必要以上に広々としたベッドにそうっと腰掛けた。ゆっくりと身体が沈む、その弾力が心地よくって、身体を投げ出すみたいにごろりと横になる。埃ひとつない天井が、黙ったままこちらを見下ろしている。うん、と藤原はだれにともなく首肯した。うん、いいね。気に入った。まぶたを降ろすと、オネストがひとり、落ち着きなく室内をうろうろとしている気配だけ感じられて、藤原は声に出さずに笑った。
「友だちを作りましょう」
というのがオネストの昔からの口癖で、それを言われるたびに、藤原は小さく眉を寄せて「いらない」と返す。中学校でもそう、小学校もそうだった。幼稚園のころはどうだったろう、と考え、あんまり幼いころの自分はオネストの姿が見えていなかったことを思い出す。何にせよ、高校生になったからといって、今さら答えは変わらない。
「友だちを作りましょう、マスター」
いつもどおり浴びせられる切実な声に、藤原は嘆息した。「いらない」と言ったが、オネストはそれを無視した。
「このままではいけません。せっかく、華々しい高校生活がスタートしたんですよ? どうして、すぐに教室を出てきてしまったんですか。みんなマスターのデュエルを褒めてくれているのに、無愛想はよくありません」
「…………」
「友だちを作りましょう。あの中に、今度こそきっと、マスターと話のあう人がいます。そりゃあ、全員が全員、マスターと交友するにふさわしい人物だとは思いませんが、ひとりやふたりくらいは紛れているはずです。僕が保証します。マスター、楽しい学園生活には、友だちが必要なんです」
「…………」
「聞いていますか? マスター?」
「……聞いてるよ」
うるさいなあ、とつぶやくと、オネストは微かに眉を寄せた。悲しげな眼差しを向けられて、藤原は軽くくちびるをとがらせた。小さな声で、うそだよ、と呟く。
「うるさくなんかない。ごめん、ただの八つ当たりだ」
「マスター……」
「オネストの言うことはわかる。わかるけど、でも、疲れた。ずっとあそこにいるのは無理だよ。うるさすぎる。そっとしておいてくれればいいのに」
アカデミアでの生活がはじまって、二日が経っていた。まだ、たったの二日だ。入学式で特待生として紹介されて以来、藤原の周りにはなにかと人が寄ってきて、このたった二日の間で、これでもかというほどの疲弊を味わった。人と話すことが嫌いなわけではないが、そもそもまったく、得意ではないのだ。同学年の生徒全員に顔と名前を知られた状態で、一方的にただただ褒められて過ごす時間が、藤原には我慢ならなかった。無愛想はいけないとオネストは言うけれど、親しくもない相手に振りまく愛想なんて所持していないのだから仕方ない。
だんまりを決め込んでしまったほうが楽だ。そう決意するのに時間はかからなかった。二日目にしてクラスの輪を離れ、さっさと教室を抜け出してきてしまった藤原から、生徒たちが離れてゆくのは時間の問題だろう。このまま孤立するのは目に見えている。オネストの心配も当然のことだった。
けれど、そもそもべつに藤原は、だれとも友だちになろうだなんて考えてはいないのだ。放課後の廊下をひとり早足で進みながら、藤原は考える。馴れあうことは嫌いだ。デュエルを学びたくて入った学校なのだから、知識さえ乞うことが出来ればそれで充分なのだ。騒がしいのは苦手だし、世話を焼くのも、焼かれることも得意じゃない。どうせ、たった三年の居場所だ。必要ないのだ、最初から。友だちなんて。藤原の答えはそれに尽きたが、オネストの反応は芳しくなかった。「マスター」と精霊は哀しげに目を伏せる。「マスターのことを理解して、好いてくれる人が、きっと、この学園のどこかにいます」
いるものか、そんなの。
藤原は、再び嘆息した。たとえそんな殊勝な人物が存在したとしても、自分には必要ないと思った。寮の部屋にまでまっすぐに帰って、ドアの鍵を素早く閉めて、夜が来るより先にカーテンを引く。ぴったりと、何者も近付いてこないように。
だってどうせ、離れていってしまうのだ。これからの三年間、ひたすらに知りたいことだけを学ぶ環境が、しっかりと整っていればそれで良い。知識は逃げない。藤原はノートを開いた。見慣れた自分の文字がびっしりと、白い紙の上に並んでいる。そうだ、知識は逃げない。こうして書き並べておけば決して失うことはない。そのことを改めて確認しながら、藤原はペンを手に取った。今日自分に話しかけてきた生徒たち、関わった人物たちの、ひとりひとりの姿と名前を、まるで大切な宝をそっとしまいこむように、静かにそこに書き連ねた。
「やあ、おはよう」
と、そう言ってなんの了承も得ずに、ひとりの生徒が藤原のテーブルの前に着席した。藤原はぎょっとして顔を上げたが、そこにいたのが天上院吹雪であったので、なにも言わずに目を伏せた。寮の食堂、朝食の時間。決して朝早いとは言えない、どちらかというとギリギリの時刻だった。だというのに、吹雪はというと、まるで優雅な貴族のような所作でもってパンにバターをたっぷりと塗り、もぐもぐとそれを噛みしめて食べる。藤原はそのようすをちらりと見やって、すでにひと気のない食堂の中で、どうしてかわざわざ自分の前に座る彼に呆れの視線を向けた。この男はいつもこうだな、と考えた。藤原のことを構うクラスメイトなんてもうほとんどいないというのに、彼ばっかりは、なにやら気が向いたというふうに唐突に声を掛けてくる。こうやって、そばに寄ってくる。藤原には不可解だったが、当人はそれすら気に留めてはいないようだった。
「ごちそうさまでした」
丁寧に両手を合わせて、吹雪は食事を終えた。そろそろ本格的に、授業に間に合うかどうかといった頃あいだった。遅刻を免れようと大慌てで出てゆくような生徒は、どうやら特待生寮には存在しない。のろのろとアイスココアをかき混ぜる藤原と、それを眺める吹雪だけが、広い食堂にぽつんと取り残されていた。
「……天上院」
「ん、なんだい?」
「もうすぐ授業がはじまるけど、」
藤原は言いながら、壁にかかった時計を見た。秒針が十二を通り過ぎるのを確認し、言いなおす。「もう、授業はじまったけど」
行かなくていいのか、と訊ねると、吹雪はなぜだかにこにこと笑って、寝坊をしてしまったんだ、と言った。「面倒だから、一限目はもう良いや。藤原は?」
「……俺は寝坊したわけじゃない」
「そう」吹雪は頷いた。なにが楽しいのだか、やっぱり笑顔を浮かべていた。藤原が席を立つと、どういうわけだか彼も立ち上がる。そのまま、うしろを着いて歩いてくる。寮内にある資料室の前まで来て、藤原はついに振り返った。どうしてあとを着いてくるんだ、と問うと、吹雪はけろりとした口調で「退屈だからさ」と言ってのけた。「だいじょうぶ、きみの邪魔はしないよ」
一限目は良いや、と言っていたはずの吹雪は、しかし二限がはじまっても三限がはじまっても、藤原のとなりの椅子に腰掛けていた。言葉の通りに、邪魔をすることなく、ただぼうっとすごしている。一度だけ、「きみはどうして授業をサボったんだい?」と口にしたので、藤原はそれに、べつに、と返した。「今日の一限、つまらないから。自習したほうが実りがあると思って」
そっかあ、と間延びした声で吹雪は応え、それからはもう、なんにも言わなかった。気づけばいつの間にか、彼は机に突っ伏して寝息を立てはじめていて、藤原はそのようすを眺めながら、どうしてこんなことをしているんだっけ、と考える。天上院吹雪は奇妙な生徒で、誰とでも仲良くなれます、誰でも仲良くしてください、と手当たり次第に握手を求めて回るような、そんな嘘のように人なつこいキャラクターで日々アカデミアを闊歩し、そして掻きまわしていた。クラスの中心というほどの牽引力はなかったが、教室の隅にいても誰より明るく輝くのが彼だった。整った顔をしているのに、それを自覚していないかのように大袈裟に笑い、そしてよく喋る。藤原の苦手な、派手でにぎやかなタイプの人間だ。そこまで考えて、藤原は、あれ、と思った。そう、どうして自分はこんなことをしているんだっけ。
一限がつまらないと思ったのは本当だ。担当教諭の声は聞き取りづらく、内容もいまいち要領を得ない。率先して授業のエスケープを好むわけでは決してないが、完成度に納得のいかないレポートがひとつ残っていたので、だったらこれを仕上げてしまうことのほうが効率が良いと考えた。藤原は手元を見やった。例の課題はすでに片づけてしまったので、いつでも授業へ戻ってかまわないはずだった。
手にしていたペンを置いて、ゆっくりと背伸びをする。すぐそばの席では吹雪が眠っていて、なんだかばからしい気持ちになってくる。藤原は嘆息した。オネストが、うれしそうにふふっと笑った。
資料室のドアが開いたのはそろそろ昼休みかなと藤原が思いはじめたころで、厳しい顔をして入ってきた丸藤亮はとにかく無言のままですたすたとこちらに近づき、眠る吹雪の頭部を軽く叩いた。「起きろ、サボり魔」
「ん、ああ、亮? どうしたんだい?」
「どうしたもこうしたもあるか。お前たち、いったいこんなところでなにをしている」
「なにって……」
まだ寝ぼけた表情のままで、吹雪は小首を傾げて藤原を見やった。藤原は思わず目をそらしたが、彼は気にした素振りもなく、「昼寝をしていた」と亮に返した。「この部屋、こんなにも陽当たりが良いんだね。知らなかったよ」
亮は嘆息した。呆れきった声で「昼からは授業に出てもらうぞ」と言った。「お前たちがいなくて、いったい誰が俺の相手をするんだ」
どことなく機嫌の悪そうな、低い声音で亮は呟いた。藤原は意味がわからず首を傾げたが、吹雪は、ああ、と納得したふうに、なるほどねと返した。
「もちろん、きみに退屈な思いなんてさせやしないさ」
苦笑いのような表情を浮かべ、吹雪がそう言うと、亮はやはり不服そうな顔をしたままで鷹揚と頷いた。それから背を向けて、やはりすたすたと、迷いない足取りで部屋を出ていってしまう。藤原は、ぽかんとそれを見送った。
午後からは学年単位でのデュエル実習が行われる予定だった。特待生は別個で枠が設けられているはずで、ふたりも抜ければ穴があくのは明らかだ。丸藤亮の相手をする、その枠が埋まらなくなる。藤原は何度かまばたきをして、それから吹雪を見やった。うれしそうに、彼は頬をゆるませて、「行こうか」言った。「カイザーじきじきのお誘いだ。乗らない手はないだろう?」
大きな舞台は苦手だ。人の目を集める。藤原は記憶し、記録することが好きだけれど、人から記憶されることは嫌いだった。自分という存在が、知らない誰かに認識されるのは恐ろしい。だれも気付かないうちに、いつの間にか、忘れられてしまうことに耐えられるはずもなかった。
けれどそれを理解しながら、藤原は頷いた。その恐怖から逃げ出すことより、彼らとのデュエルを受けることのほうが、よほど重要であるように思えた。吹雪が立ち上がったので、藤原もそのあとに続く。すこし遠くにある、亮の背中を、ふたりして追いかける。
藤原はひそやかに息をついた。足取りが少し、弾んでいるのが自分でも理解できたので、きっとオネストには筒抜けなのだろうなと思った。すこしバツの悪い気持ちにもなったけれど、その歩みを止めようとは、藤原は考えなかった。
ノートを開いた。いつの間にか、入学してから書きとめてきたページが、ずいぶんと多くなっていたことに気がついた。
新しいにおいはどこか遠くへ去ってしまって、藤原の部屋には、ここで生活する自分の気配がいやにべったりと染みついているように思えた。ベッドから見上げる天井は、さすがにきれいなままだったけれど、それでも埃は張り付いているはずで、掃除をしないとな、と藤原は考えた。まだこれから、少しのあいだ、この場所に自分はいるのだから、と思った。部屋の中には吹雪と亮がいて、ふたりはソファに腰掛けて、広げたデュエル情報誌に視線を向けてああでもないこうでもないと言葉を交わしている。藤原はその声を聞きながら、向き合っていたノートをそっと閉じた。ぼうっと、視線を上に、天上へと向けていた。賑やかなので、やはり、掃除をしなければ、と思った。人が来ると、どうしたって埃が舞い上がるから。
「あっ」と吹雪が大きな声をあげたのはその時だった。藤原はもちろん、亮もすこし驚いた顔をしていたので、どうやらそれがまったく脈絡のない「あっ」であるのは間違いなく、思わず身構える。吹雪の突然の思いつきにはときどき危険がつきまとうので、なにかまた、ろくでもないことを言い出すのかもしれないと思うと、自然と怪訝な顔つきになった。亮なんて、すでに険しい顔をしていて、吹雪が内容を告げるより先に「却下だ」と言い切らんばかりであった。
友人ふたりのそんな視線に、しかし吹雪はものともしなかった。彼は雑誌のページを指差して、言った。
「花火をしよう!」
開いたページには、童実野町で開かれる大規模な花火大会が宣伝されていた。吹雪は「花火に行こう」ではなく「花火をしよう」と言ったので、藤原はちらりと、窓を見た。ぴったりと閉められたカーテンの向こうは、静かな夜が広がっている。それを開けば、木々の香りに混じりながら、しっとりとした海の気配が入り込む。そこで花火をしようというのだ、吹雪は。
亮が「却下だ」と言うことはなかったので、藤原はほっとした。「俺、花火って本当に小さい頃にしかしたことがない」と正直に言うと、吹雪は「楽しいよ」と微笑んだ。
吹雪の行動は素早かった。彼はどこから仕入れてきたのか、その翌週には大量の花火を準備して、親しい生徒たちに声を掛け親しくない生徒たちをも巻き込んで、その花火大会はあっという間に、アカデミアに属するほとんどの人が参加する規模の大きなものとなっていた。どうやって根回しをしたのやら、資金はどうやら学校側が持つらしい。才能に満ちた吹雪のその手腕に藤原は心底感心したが、あんまり派手なイベントになってしまったので、海辺に群がる人々に気おくれを感じてもいた。当日の夜、手持ちの花火が、ぱちぱちと音を立てて火を放つのを、藤原はひとりで静かに眺めていた。
ふと、思い出す記憶がある。目の前に広がる暗い海は、夜の森にすこし似ている。幼い藤原はふらふらと、危うい足取りでその森を歩いていた。たしかに、歩いていたのだ。
人のざわめきは遠くに聞こえた。まるで世界から隔離されているようだなと藤原は思った。すぐそばで、クラスメイトたちのはしゃぐ声が聞こえているのに、それらの会話は、まったく聞きとれない言語で交わされているように思えた。彼らのその向こう側には吹雪がいて、彼の明るい声だけは、しっかりと響いて意味を聞きとることが出来る。藤原は視線を、遠い海に戻した。まっくらだなあ、と思った。
まっくら、まっくら。なんてまっくらだ。この暗闇の先になにがいるのか、藤原はそれをまだ知らないのだけれど、じいっと見つめていてはいけないということは理解していたので、すぐに目を逸らした。視線が合ってしまってはいけない。あれに飲み込まれてしまってはいけないのだ。藤原はひそかに恐怖した。背中が凍えるような気分だった。いますぐにでも部屋へと駆け戻って、そうして鍵を掛けて窓を閉じ、カーテンを引いてしまいたかった。ぴったりと、何者も侵入してこないように。
気がつくと、手にしていた花火は小さくなって、ついには寂しく消えていった。藤原はとても悲しい気持ちになったけれど、ふと、そのタイミングで亮が近くに寄って来た。見ると彼も片手に消えた花火を持っていたので、藤原は思わず頬を緩めた。ちいさな花火はなんとなく、丸藤亮には似合わないように思えた。
藤原の微笑みを見やって、「どうかしたか」と静かな声で亮が問うてくる。藤原は首を横に振った。なんでも、と返すと、彼はちいさく、そうか、とだけ呟いて、それから藤原のとなりに並んだ。ふたりで海を眺めた。まっくらの海。アカデミアの夜はあの日の森の姿によく似ている。
ふたりは黙っていたので、周囲から花火と人の声ばかりが聞こえていた。藤原は、消えてしまった花火の色を、鮮明に記憶する方法を考えていた。いつまでも忘れずにいられる、そのすべを知りたかった。そんなことは不可能だと、目の前に広がるまっくらが声を放つ。無理だ、無理なんだ、おまえにはなにもできない。力が足りないから。
亮はなにも言わなかった。言葉を探すような素振りさえなく、ただ藤原の隣に立っていた。彼とすごす時間というのは大抵の場合こんなふうであったので、藤原も、べつになにか会話を続けなければならないとは感じなかったのだけれど、なんとなく、ふと思い立って口を開いた。
「子どものころにしか花火をしたことがないって、このあいだ、吹雪にそう言ったけれど、本当はよく覚えていないんだ」
亮は返事をしなかった。そうか、というふうに視線をこちらに向けて、それから、続きを促すように沈黙を続けた。藤原はそれを受けて、やっぱりすこし微笑んだ。だから今夜のことは、今度こそ、きちんと覚えておきたい。そう伝えるつもりだったけれど、結局、言葉にはしなかった。実現出来るかどうかもわからない希望を口にすることは憚られた。
どうすればそれが叶うのだろう、と藤原は考えた。いったいどうすれば、この時間を繋いでいられるだろう。大切なことを忘れない、そのための努力は、ずっとしてきたつもりだった。何度も何度も指でなぞるみたいに繰り返し、繰り返し、記憶を抱えて生きてきた。自分の歩む膨大な時間のなかで、可能な限りすべてのものごとを記録し、蓄えることで、藤原優介はどうにかバランスを保っていられる。白いノートに延々と刻む、それは儀式のようだった。忘れたくはなかったけれど、ずっと覚えていられる自信もなかったので、関わるものすべて厳選してきたつもりだったのに。
どん、と背後だか、正面だか、上空なのだか、よくわからない箇所で大きな音が響いた。驚いて身を竦ませると、暗い空の上に飛び散った火の粉が降り注ぐ。打ちあがった花火はあっという間に萎んで消えて、また新しい色が音を立てて跳びはねた。藤原はそれを見上げて、そして考える。こんなもの、と思う。
こんなもの、こんなにきれいなものを、覚えていられるわけがない。
まっくらを照らす光はあまりに儚かった。派手な色ばっかりを散りばめて、そのくせ一瞬で消えてしまう。ずっと忘れないでいたいのに、ずっとずっと、輝いていてほしいのに、それが出来ないのなら、最初から、現れなければよかったのに。
藤原、と名前を呼ばれた。振り返ると吹雪がいて、両手にたくさんの花火を抱えて、楽しげに笑顔を浮かべていた。彼は藤原の顔を見て、その笑みを一瞬だけ隠したけれど、なんだか悲しげな目をしたけれど、すぐにそれも引っ込めて、再び明るい声で言う。暗い夜を吹き飛ばすみたいな、強い口調で、亮と藤原を呼んでいる。ふたりともこっちにおいでよ、という。
「まだまだたくさん残ってるんだからさ。きちんと手伝ってくれないと困るよ」
そう言う彼のもとには、明らかに消化しきれない量の、さまざまな種類の花火がどっさりと詰まれている。鎮痛に満ちた溜め息が、亮の口からふうっと洩れた。「買いすぎじゃないのか」
「どうやらそのようだね」吹雪は悪びれもなく言う。「だからこそ、みんなで頑張って消化しないといけないんじゃないか。なにごとも助けあいだよ、亮」
ほらほら、と吹雪はこちらに寄ってきて、亮と、それから藤原に、ほとんど押し付けるようにして持っていた花火を手渡した。藤原はそれを受け取ることをためらったけれど、吹雪の態度の方が勝っていた。彼はにっこりと笑って、行こう、と言う。
藤原はその笑顔から目を逸らし、そして亮を見た。涼しげな双眸はやはり沈黙を守っていたけれど、決して突き放すことなくこちらを見つめていた。藤原はやっぱり、それからも視線を逃げさせて、最後に夜を見つめた。まっくらの、空を見た。打ち上げ花火はもう上がらないようで、星々ばかりが明るく輝く、穏やかなまっくらがそこには広がっていた。藤原は息を飲んだ。震える足でそこに立っていた。「行こう」と吹雪がもう一度言ったので、今度こそその言葉に、こくりと頷く。
夜が迫っていた。間違いなく、藤原のすぐそばにまで、あのまっくらが近付いていた。藤原は身を震わせる。いったいなんのために、今まで、あれと目を合わさないようにしていたのだろう、と考える。なんのために、逃げ続けてきたっていうんだろう。後悔のような感情が全身をゆっくりと掻きまわし、藤原の喉をじんわり撫でた。いまならば間に合うかもしれない。今ならばまだ、逃げることが出来るかもしれない。孤独さえ選んで閉じこもっていれば、あれと向き合う必要などなくなる。
けれど吹雪が、行こうと言ったから。
亮がそれを促すように、先に歩き出したから。
藤原は踏み出した。部屋の扉を開放し、夜を招き入れた。ずっと一緒にはいられないと、それを理解しながら、いつまでも変わらず覚えていることなど出来ないのだと知りながら、それでも彼らを選んだ。
まっくらが、くすりと笑う、その声を聞いた。
何度も、何度も、それにかぶりを振り続けた。