だれがこまどり殺したの? - 1/3

1.ひとつの大罪

 ふたりで夜を見上げていた。
 奇妙に明るい暗闇は、じきに昇りくる太陽の存在を否定するかのようだった。月も、星も、なにも浮かばない夜空がなぜこんなにも透き通って見えるのか、吹雪にはどうにも不思議に思えた。墨汁を薄く溶かしたような、ぼんやりとした闇夜。どこまでも薄暗いままの、その世界の中で、けれど彼の姿だけははっきりと見えた。
 となりにいる。
 彼は空を見ていた。なにかを探しているようだったので、吹雪は勝手に、星灯りを見つけようとしているのだろうと解釈した。彼は夜道が好きだった。星々の瞬きが自分を呼ぶのだというふうに、空気の澄んだ夜にはひとりでふらりと寮を出て、かと思えば、森の影におびえるようにしてそそくさと帰ってくる。そんなことをときどき、繰り返してすごしていた。そのようすを見るにつけ、吹雪は、夜が彼を愛しているのだ、とそんなことを考えた。彼自身の意思にかかわらず、暗闇のほうが、彼を求めて常にその目前に横たわっているのだ。星たちを操り彼をおびきよせ、その先で、獣のように大口を開けて待ちかまえている。敏い彼はそれに飲まれるより早く、安全な場所まで戻ってくる。
 吹雪はそれを感じとりながら、けれど、特別に危ういことだと注意したことはなかった。夜の空がいずれ朝の空になるということを、吹雪は知っていた。果てしなく暗い天井の闇は、けれど、白んでゆけばいずれ見慣れたうつくしい青になるのだ。空はいつだって同一で、吹雪にしてみれば、朝も昼も夕も、夜の深い闇すらも、大差はなかった。真昼には太陽があり、夜中には月があったので、自分も彼も、なにに招かれようと迷うことはないと信じていた。
 けれどいま、自分たちの頭上に広がる夜は明るかった。陽の光など不要なほどに、澄み切って、世界を安定させていた。吹雪はその、薄暗いのだか、薄明るいのだか、よくわからない暗闇に包まれながら、ぼんやりと立ちすくんでいた。となりには彼がいる。ふたりで、夜を見上げていた。
 ふと、彼がこちらに視線をやった。こうやって顔を合わせるのは、なんだかずいぶん久しぶりな気がして、吹雪はおどろいた。はたして彼はこんな姿をしていただろうか、と、一瞬だけ、妙なことを考えた。
 彼は、唐突になにかを思い立ったような顔をしてみせた。いたずらっぽく口元を緩めている。そうだ、と吹雪は思う。ときどき、こんなふうな表情をするのだ。彼は。
「――『カムパネルラ。また僕たち、二人きりになったねぇ』」
 芝居がかった口調で呟く、その声は、それでもやはりなぜか聞きおぼえのない、別の人物のもののように思えた。吹雪はかすかに首をかしげ、それから訊ねた。「なんだっけ、それ」
「…………」
「いや、待って、違うんだ。覚えてる。ここまで出かかっているんだ。えーっと……」
 出典が思い出せないだけで、聞き覚えはたしかにあるフレーズなのだ。彼の浮かべる、本気? とでも言いたげな、こちらの知性を疑うような眼差しから推測するに、一般教養レベルの、とんでもなくメジャーな作品のセリフに違いない。吹雪は指先でこめかみを軽く叩きながら思案した。
「……あ、わかった。『銀河鉄道の夜』?」
 回答に、彼は満足気に微笑んだ。正解、と、やはりちいさな声で言う。気まぐれな猫のようにゆるいラインを描く、その目がやんわりと細められるのを見て、吹雪はようやく、自分のとなりに立つのが間違いなく彼であることを理解できた。同時に、それがとても悲しく思えた。
 カムパネルラ、と彼は言った。銀河を旅するふたりの少年の物語を、吹雪は思い出して、そして眉をひそめた。彼は微笑んで、再び夜を見上げている。吹雪から視線を逸らしている。その眼差しは闇夜に恋する者のそれだった。
 吹雪は、自分が震えていることに気がついた。
 この夜の世界が、銀河を渡る少年たちとおなじ、死者との道であることを知った。
 澄んだ暗闇はどこまでも広がっていて、吹雪と彼はふたりきりだった。ほかにはなにもない、とても寂しい地平線のうえに、ぽつりとふたりで立っていた。丸い空に包まれながら、明けることも沈むこともない、やんわりとした優しい闇に囚われながら、空白の時間の上にだけ存在していた。
 吹雪はそうっと息を吐いた。今にも震えだしそうな喉で、それでも努めて明るい声で、きみはいつも嘘ばかりつく、と言った。
「そうかな?」
「そうだとも。僕は、きみを騙したことなんて一度だってないのに」
「吹雪は素直すぎるんだ」彼はくすりと笑った。「けれど俺だって、誰かを騙そうと思って振る舞ったことなんて一度もないよ」
 それはきっと、そうなのだろう。素直すぎるのは彼もおなじで、だから、いつまでもバカみたいに笑ってすごしていることが出来なかった。自分の願望に、衝動に、悲しいくらい誠実だった。暗闇から受け続けた求愛に、真摯に向き合い応えてしまった。彼もその夜を愛してしまった。
 吹雪は彼を哀れに思った。とても長く、そして驚くくらい短い時間を、ともに過ごした仲間だった。友だった。親愛にあたいする人物だったのだ、彼は。
 けれどいなくなってしまった。
 もう、吹雪のそばにはいないのだ。
 星はどこにも見えないのに、彼は遠くを見つめている。その視線の先には闇が広がっている。腕を伸ばさなくても、この寂しい大地に足をつけたままでも、夕闇はすでに彼の身を覆ってしまっている。吹雪は悲しかった。頭上に広がる明るい夜の向かう先に、夜明けなどないことを理解した。
 その事実を認めたくはないと、嘘ならばどれほど良いだろうかと、心底から願いながら、それでも吹雪は言った。カムパネルラはきみだ、と呟いた。
「死んでしまったのはきみのほうじゃないか」
 澄んだ闇の世界で、振り向いた彼はたしかに微笑んでいた。

 はじめて会ったときから、藤原優介は、すこし変わった生徒だった。
 そんなふうに評するといつだって、吹雪にだけは言われたくない、と不服そうな眼差しが返ってきたものだが、けれど吹雪からすれば、互いへのその明確な関心こそが、自分たちの関係には必要であるように思えた。吹雪と、藤原と、そして亮。彼らは吹雪をこそ風変わりな人物だと断じるけれど、吹雪も彼らを同じように感じているからこそ、自分たちはこうして、友と呼ぶことの出来る関係を築いている。
「きみみたいなタイプはさ、僕や亮くらいの変人じゃないと興味を示したりはしないだろう? それと同じさ。きみが他の人とはすこし違っているからこそ、僕たちはきみといる時間を楽しく感じられるんだ」
 変っていうのは、特別ってことだからね。
 そんなふうに言ってやると、彼はやはり不服そうに軽く眉をひそめ、それから、吹雪はいつも大袈裟なんだよ、とぽつりと返す。その声に嫌悪は含まれない。吹雪はそれを確認するたびに、ひそかに胸を撫で下ろす。
 率直な話、藤原優介はクラスから浮いていた。
 特待生であるという前提を抜きにしても、彼は周囲に馴染むことをしない生徒だった。よく言えばマイペースで、悪くいえばわがままだった。卓越したデュエルセンスを所有しながら、ひそかに息を殺してすごそうとする姿はアンバランスにさえ思えた。
 強い者、目立つ者、場を牛耳る者には相応の責務が発生する、というのが吹雪の考えのひとつで、それで言うなら藤原は、最初からその任を放棄していた。彼は強く、だからこそ目立ち、場を圧巻させる力を持っているのにも関わらず、それらをまるで自身の功績ではないかのように扱う。
 きっと彼は、勝つことが好きではないのだ。デュエルで勝利を収め、学業でも常に高い成績を誇りながら、それでもどこか不服そうにたたずむ姿を眺めるたび、吹雪はそんなことを考える。かといって無論、負けを好んでいるというわけでもない。授業でも、プライベートでも、デュエルに手を抜いているようなところはひとつだってないのに、藤原優介は勝利を疎ましく感じているように、吹雪には見えた。
「吹雪って、案外穿ったものの見方をするよね」
「そうかい? そんなつもりはなかったけど」
「自覚がないんだ」
 タチがわるいな、と藤原はすこし眉をひそめた。呆れたような表情で、クリームソーダに浮かんだバニラアイスをスプーンでつつく。甘い甘いそれは最近の彼のお気に入りで、放課後、寮のカフェテラスに寄るたびに注文しては嬉しそうに頬張っていた。子どものようだなと吹雪は思うけれど、実際、自分たちはまだ子どもなのだから構わない。吹雪だって、アイスクリームは嫌いではない。
 冷たいかたまりを口のなかで溶かしながら、藤原は、べつにそんなんじゃないよ、と言う。
「なにがだい?」
「だから、別に俺は、勝つことが嫌いだなんて思ったことはない。勝てないことのほうがよっぽど嫌だ」
 ふむ、と吹雪は頷いた。それはそうだ、もちろん、当然だ、と思った。
「けれどきみは、あまり自分の功績を誇らない。なにより嬉しそうな顔をしないじゃないか。デュエルを終えたあと、勝利を手にしたあとでさえ、どうしてかいつも居心地が悪そうだ」
 そうやって甘いものを食べているときのほうが、よほど充ち足りた表情をしている。からかうような調子でそう付け足してやると、藤原はすこし拗ねたような顔をして、ストローの先を口に含んだ。これ見よがしなしかめっつらで、グラスの中の緑の液体を一気に吸い込む。余った氷の隙間が、飲み切れないソーダ水を挟んでズズっと音を立てた。子どもみたいだな、と吹雪はもう一度思った。「お行儀が悪いよ」
「苦手なんだよ」藤原は吹雪の言葉を無視した。「吹雪と違って、人前でなにかをすることに慣れていないだけだ。デュエルアカデミアにはどうしてあんなふうにミーハーな生徒が多いんだ。なんで、いちいち大袈裟に騒ぎたてるんだろう。こっちはただ、静かにデュエルがしたいだけなのに」
 情けなく眉を下げながら、しかしいっそ憎々しげな声音でそんなことを言う。じっとりと目を細める藤原があんまり切実なようすだったので、吹雪は思わず笑ってしまった。なるほど、と言った。
「そうか、じゃあきみのあれはもしかして、機嫌が悪いんじゃなくて緊張してるんだ?」
 問いかけよりは確認に近いその言葉を、藤原はやっぱり無愛想に受けとめ、そして少し首を捻った。さあ、と曖昧な返答を寄こしてから、そうなのかもしれない、と呟く。自分でもよくわかっていないらしい。
「人見知りをするところがあるものね、藤原は」
「……吹雪にそんなふうに言われると、なんだかバカにされているような気分になる」
 彼のほうがよほど穿った捉え方をする。吹雪はかすかに笑った。それから、バカになんてしていないよ、と言った。
「分かってるよ、それくらい。言ってみただけだ」
「それはよかった。……きみのことが心配なんだよ、僕は。それも分かってる?」
「……」藤原は言葉を詰まらせた。ん、と小さく返したそれは、どうやら肯定の意味を含むらしい。吹雪が微笑むと、彼はなぜだか不思議そうにそれを見つめ返した。
 藤原優介はすこし変わった生徒で、吹雪は彼のそういうところを気に入っていた。人の前に立つことを嫌がるところ、けれど決して人を疎んじているわけではないところ。吹雪が派手なパフォーマンスでもって衆目を集めているとき、決まって彼はそこから少し離れた場所で、遠巻きにこちらを眺めている。すこし、笑ったりしている。自分とはまったく違った視点で世界を見つめる彼のことを、吹雪は好ましく感じていた。そして言葉にして伝えたとおり、その在り方がすこし、気がかりでもあった。

「ほら、ときどき、縋るような目をするだろう」
 それを言うと、丸藤亮はしかし、意外そうな顔をした。彼には覚えがないらしく、なにかを思い起こすように首をひねって、「なにがだ?」とトンチンカンなことを言う。
「藤原が、だよ」
「藤原が?」
 亮はやはり不思議そうな顔をした。じつに鈍物めいた表情を浮かべる親友に吹雪は心底あきれたが、同時に、そうか、と気がついた。なるほど丸藤亮がしんに鈍感な男ならばまだしも、そうではない。
「ああ、そっか、亮に助けを求めても無駄だってこと、藤原は分かってるんだ」
 吹雪の言い方に、さすがの亮も心外だというふうに眉をひそめた。「どういう意味だ」
「そのままの意味さ。だって亮、きみはさ、いつも僕らの前を歩いているじゃないか。ああ、デュエルの腕のことばかりを言っているんじゃないよ? たしかに僕は、ひょっとしたら藤原も、きみに比べれば不安定なデュエリストなのかもしれない。デュエルに対する愛着も、崇拝も、きっときみには敵わないだろうさ、カイザー。けれどそれだけじゃなくて、なんて言えばいいかなぁ、すべての事象の前に、きみは前進し続けている。立ち止まらないじゃないか。だからきみに取り縋っても仕方がないんだ。どうしたって、助け起こしてはもらえないんだから」
「……」
「ま、きみに助けを求めること自体が無駄だとは、僕は思わないけど。それでも気持ちは分かるよ。藤原は特に、あいまいなものが嫌いだから」
 なにかと無駄を省きたがるところが、藤原優介にはあった。どっちつかずの不明瞭なものごと、あやふやな可能性のようなものより、細部までの正確さこそを彼は求める。授業中、教師の言葉のひとつひとつをノートに取っているような、場合によっては気味が悪いほどに神経質な面すらあるのだ。
『ひとの記憶ほど頼りにならないものはない』と、彼はことあるごとに言う。『未来のことなど断言すべきではない』とも。『だって明日には、ぜんぶ、失ってしまうかもしれないんだから』
 たしかに亮は立ち止まらないが、振り返らないわけではない。こちらが惑っていることに気が付けば、きっと言葉をかけてくれる。けれどそれだけだ。そのとき向けられる声が、力強く導くたぐいのものか、あるいはただ辛辣に身を引き裂くだけのものか、それはそのときにならなければ分からない。藤原にはそれが恐ろしいのだろう、と吹雪は考える。亮の厳しい側面を理解している。だから助けを求めない。
 亮はやはり腑に落ちないといった顔をしていたが、なにか思い当たることがあったのか、急に諦めたふうに嘆息した。「おまえたちは仲がいいな」と言った。
「おや、珍しい。妬いてるのかい?」
「バカを言うな。似たようなことをあいつも言っていた。それを思い出しただけだ」
「藤原が?」
 亮はすこしふてくされたような顔をして頷いた。常に鷹揚と構える彼も、友人ふたりからこぞってそんな評価を受けることは不服なようで、どうやら詳細を語るような気はなさそうだった。吹雪には貶したつもりはなく、むしろ亮のそういった個性は美点であると考えていたが、藤原がなにを思い彼になんと言ったのかまでは分からない。どうやってフォローしたものかと苦笑いを浮かべていると、むくれた顔のまま、亮のほうが先に口を開いた。話題をもとに戻すつもりのようだった。
「藤原がどんな顔をしておまえを見ているのかは知らんが、それで、だからなんだというんだ。おまえはべつに、寄り縋られることに優越を感じるような人間ではないだろう」
「もちろん、そんな悪趣味は持ち合わせていないとも。僕は単純に、頼られるのが嬉しいだけさ」
 ひとの役に立つのが好きなだけ。
 吹雪がそう言うと、亮はすこし、顔をしかめた。それはそれで充分に悪趣味に成りうるなと、彼はそんなふうに感じているようだった。
「周囲に迷惑をかけることが好きなのかと思っていたが」
「いやいや、みんなを笑顔にしたいだけだって。課程のうえで、あるいは結果として、ひょっとしたら僕のことを傍迷惑に感じる人もいるかもしれないけれどね」
 けれどそんなのは、生きていれば誰にも、どこにでも起こりうることだ。吹雪は深く気にしていないし、同じように、ほかの誰かがなにをやらかしたところで気にしない。それを大らかさと呼ぶか、或いはいい加減だと罵るか、それすらも個人の自由である。
「僕はね、僕を必要としてくれる人がいるかぎり頑張れるんだ」
 吹雪は笑んだ。妹のことを考え、家族のことを考え、友のことを考えた。この先出会うであろう、多くの人のことを考えた。
「けれどだからこそ、誰にも必要とされなくなったとき、きっと僕は死んでしまう」
 呟きに、亮はやはりすこしだけ、眉を寄せた。彼はあまり、この考え方を快く思っていないのだろう。吹雪は苦笑した。藤原がいれば、彼が寄り縋ってさえいてくれれば、天上院吹雪が死ぬことはないんだと、そう続けることはさすがに憚られた。
 藤原優介はときどき、ひどく不安げな顔を見せる。自分がデュエルに勝ったとき、だれかが負けたとき、その気配は如実に現れて、そして怯えた顔をする。だれかたすけて、と、吹雪には彼がそう言っているように見える。不慣れなだけだとか、緊張しているのだとか、そんな程度のものではない。もっと明確な、それは恐怖であるように思えた。
 高く、高く、天まで続く巨大な塔を築くための腕を持ちながら、実際にそれを積み上げながら、しかし自身の働きによって何者かが傷つくことを、彼は心から厭っているかのようだった。もちろん、それは吹雪のイメージだ。実際に藤原がなにを思っているのか、なにから逃げようとしているのか、そんなことは知らない。分からない。
 藤原の抱える不安のようなもの、孤独のようなもの。それらの正体が、吹雪にはまったく理解出来なかった。それを見極めようともあまり思わなかったし、おそらくは自分に抱えきられるものでもないと、そう割り切ってさえいた。
 けれど藤原は、そんな吹雪に向けて、たすけてほしいとサインを送る。
 それはほんの微かなものだった。なにげない会話の途中だとか、彼が勝利を得たあと、吹雪や亮が誰かを相手にデュエルを行っている最中、授業のノートを取りながら。
 心配しているよと、吹雪がそう、告げた瞬間。
 藤原は少し視線をゆがめて、ここから消えてしまいそうな顔をする。本当は消えたくはないのにと、そう訴えるふうな顔で、こちらを見る。
 それに気付くそのたびに、吹雪はどうすればいいのか分からなくなる。不安になる。なにか大きな、どうしようもないまっくらなものを見つけてしまった気持ちになるのだ。藤原優介の向こう側、頼りなげな背中のその、肩ごしには、ひんやりと冷たいものが広がっている。そんなものがあっては、と吹雪は考える。そんなものを持ったままでは、そりゃあ、誰かに助けを乞いたくもなるだろう、と、いやに神妙に納得する。同情しているのかもしれなかった。かわいそうに、と思っているのかもしれない。
 けれど同時に、その視線を自分に向けている限り、彼がこの世を見限ることは決してないと、そんなふうにも思うのだ。だいじょうぶ、と吹雪は彼に訴える。その双眸に約束をする。必ず、見捨てはしないと誓う。
 藤原優介の孤独は気高いものだ。吹雪にはそれが見えていた。いつだって、手を差し伸べるつもりでいた。彼のためになにかが出来る、自分にはその不安をかき消すだけの力がある。そんなふうに考えていた。だれかの役に立ちたかったし、実際に、自分は必ず、人の役に立つことが出来る人間なのだと思っていた。吹雪はそれを信じていた。手遅れになる日が来るだなんて、思ってもみなかった。

「死んでしまったわけではないよ」
 その薄淡い暗闇の中で、微笑んだ彼はそう言った。寒気がするほど、それは穏やかな声だった。吹雪は実際に背筋を震わせ、そして考えた。こうやって再び会うことが出来たのだから、なにかを伝えなければならないはずだった。あるいは、彼からなにかを、受け取らなければならないはずだ。
 闇は変わらず吹雪と彼とを包みこんで、ふたりをふたりきりにし続けていた。空は遠く、高く、どこからか波のような音が響いている。それが閑寂の運んでくる耳鳴りなのか、あるいは実際に、近くに海があるだけなのか、吹雪には判断できなかった。どちらでもいいや、と思った。
 彼は、空を見ていた。
 もう吹雪のことなど知らないというふうに、興味がないというふうに、その闇ばかりを仰いでいた。
「死んでしまったのでないのなら、いったいきみは、どこにいるんだい」
 ひとりごとのように、吹雪は訊ねた。幼い子どもが、こっちを見て、と母親の裾を引くような、ひどく弱々しい声が出た。その望みのとおりに彼は吹雪に視線をやったけれど、それはひどく冷ややかなものだった。吹雪は思わずまぶたをおろし、唇を噛んだ。こんなものが見たかったわけではない。
 こんな景色が見たかったわけではないのに。
「俺がどこにいるかって、吹雪、おまえがそれを聞くのか?」
 ふふ、と笑う、彼が見せた表情はいやに無邪気だった。ここに、と彼は言った。どこを指すこともなく、ただ両手を広げて、ここにいるよ、と言った。
「この場所が、俺のすべて」
 空は明るく、夜を退ける太陽も昼を偲ぶ月の明るさもそこにはなかった。冷たい大地だけが広がっている、ほかにはなんにもない、からっぽの世界。
 吹雪はそこに立っていた。ふたりきりだと思っていたけれど、ほんとうのところ、吹雪はひとりぼっちのようだった。
「……僕はきみに、必要とされているものだと、思っていた」
「ああ。俺には吹雪が、必要だった。優しい吹雪、俺のことを思いやってくれる吹雪。心配してくれる、理解しようとしてくれる、疎まないし怯まないし、決して見捨てることもない。隣を歩いてくれる。気にかけてくれる。俺は、そんなおまえのことが好きだったよ」
 僕もだ、と吹雪は答えた。声にしたつもりだったのに、つぐんだ唇を開くことが出来なくて、その言葉は胸中にだけむなしく浮かんでそのまま消えた。彼はやっぱり微笑んで、それから、すこし弱ったふうな顔をした。なにかを思案しているようだった。
「これって、やっぱり俺の責任なのかな」
 言いながら小首を傾げ、きょろりと両目を動かす。こちらの意見を窺うようなしぐさに、吹雪はすこし、惑った。なにを問われているのかわからなかった。
「あの時にも言ったと思うけど、おまえを巻き込むつもりはなかったんだ。俺のことを嘘つきだって、吹雪はさっきそう言ったけど、これは本当。こんな場所、どうしたって吹雪には似合わないから。ああ、けどやっぱり」
 俺のせいなんだろうな、と彼はつぶやいた。悔いるような声音ではなかったが、どこか寂しげではあった。「吹雪なら理解してくれるかもしれないって、そんなふうに思っていたから。そのせいなのかもしれない」
「僕なら……」
「うん」
 いやに素直に頷き、彼はやっぱり、空を見た。そこになにかがあるのだろうか、と吹雪は思った。おなじように見上げる、明るい夜空にはやはりなにもなく、冷たく悲しい気配だけが広がっている。深淵だ、と吹雪は思った。ここは、深淵だ。この先に、ここより一歩踏み出したその向こうに、本物の闇が広がっている。
「僕は、きみの悲鳴に気づくことができなかった。いいや、本当はきちんと気がついていて、そのくせ、きみを助けることができなかった。きみを、こんなところまで追いやって、しまった」
「そんなものは吹雪のせいじゃないよ。気にしなくていい。むしろ俺は、うれしいんだ。そんなにも俺のことを気にかけてくれていたこと。あの日だって、駆けつけてくれたのは吹雪、おまえだけだった。俺のかくしていたものを、見つけて、読みとって、それでも引き留めてくれた。それだけで充分だよ」
 ありがとう。
 彼は言いながら、けれどこちらを見なかった。遠く、暗闇ばかりを恋しげに見つめていた。吹雪は己の無力を知って、同時に、その言葉に胸を撫で下ろす自分を叱責した。嘘つきなのだ、彼は。こんな場所であんなふうに微笑む、そのくちびるから放られる言葉のすべてを鵜呑みにしてはいけない。
「僕をここに呼んだのはきみなのか?」
「違う。けど、たぶん違わない。俺は吹雪に、本当は理解してほしかったんだと思う。だから仮面を渡した。ちゃんと、大事に持っていてくれたんだろう? だからおまえはここに来られた。結果的に、俺が呼んだのと変わらない」
 そうか、と吹雪は頷いた。どこからか、波の音が聞こえる。どんどんと近づいてくる。幻聴としか思えないくらいの距離で、吹雪のほんの耳元で、ざわざわと潮騒は沸き上がる。
 その音にかき消されそうになりながら、吹雪は言った。「僕はどうすればいい?」
 ここでなにをすればいいのだろう。あるいは、彼を失った、彼のいなくなった現実に帰ることが出来たとして、いったいどうすればいいのだろう。吹雪のいまいるこの場所は、あまりに寒くて虚しかった。きっとすぐにでも、立っていられなくなってしまう。ここでずっと、こうやって、彼とふたりでいることは出来ない。
 吹雪の問いかけに、彼は答えなかった。ただぼんやりと空を眺めていて、もう二度と、吹雪のほうに視線をやるつもりなどないようだった。吹雪は悲しかった。胸が裂けてしまいそうなくらい、このまま死んでしまいそうなくらいに、悲しくて苦しくて、寂しかった。
「……藤原」
 その悲嘆に支配されながら、吹雪は、それでも名前を呼んだ。彼の名前。藤原優介。そこからは死のかおりがする。死んでしまったわけではないと、彼はそう言ったけれど、喪失の気配はごまかせない。吹雪は口を開いた。本当に失ってしまう、その前に、と思った。
「僕は、きみには僕が必要だと、そう思っていた」
「…………」彼はうっすらと微笑んだ。そう、と小さな声で相槌を返す。「ずっとそうだったら、よかったのにね」
 彼はやはりこちらを見なかった。吹雪はもう一度、なにかを言おうと口を開いたけれど、その先の言葉は奪われた。ふと気がつくと、あかりが消えるみたいに、白んだ闇が去り本物の夜が訪れていた。吹雪は驚いた。突然夢から覚めたような気分だった。慌ててあたりを見回したけれど、彼の姿はどこにもなく、夜空すらなく、ただ暗闇だけが広がっている。ゆらゆらと揺れる。波に飲み込まれてしまったというわけでもない。彼の世界から乖離したのだ。吹雪はそれを理解した。
 どうして、と思った。
 ここはどこだろう。少しずつ記憶を遡ると、デュエルの最中であったことを思い出した。寮の地下に、呼び出されていた。授業の一環で、相手は、いつもとおなじ教師だった。記憶の途切れた瞬間、吹雪は真っ暗な場所に放り出されていた。なにも見えないけれど、なにかがぐにゃりぐにゃりと歪んでいる。それだけはわかる。とても奇妙な空間だった。
 吹雪は膝をつき、闇のまんなかでひとり、ただ呆然としていた。そのほんの僅かな時間の狭間に、彼に会うことが出来たのだと知った。一瞬だけ、この闇の境目で夢を見ていた。ほんの一瞬、それだけ。
 そしてその瞬刻が過ぎ去った今、このまま、このなにもない世界に溶けて、天上院吹雪は死んでしまうのだ。吹雪は愕然と夜を見ていた。ぽっかりと空いたその場所から、走馬燈のようにいろいろなものごとが吹雪の眼前に貼りついて来て、そして最後に、ほんのついさっき顔を見たばかりの、彼のことを思った。
 これはチャンスなのだ。
 自分は、どこまでもひとりよがりだった。助けられると、見捨てないと、誓ったのに、結局は彼を失ってしまった。吹雪は悲しみ、悔やんでいた。そしてだからこそ、いま、本当は自分がなにをしたかったのか、それを思い出す機会を与えられたのだと、そう気がついた。そうか、と吹雪は考える。ああ、これで構わないのだ。必然であったのだ。最初からこうすればよかった、ただそれだけのことだったのだ。
 身体中にあいた隙間から、ゆっくり、ゆっくりと、冷たい空気が染み込んでくる。そう、これでいい。本当は、あのときにこうしておくべきだった。吹雪ならばそれが出来た。
 僕はきみに、必要とされていたかったんだから。そのためなら、なにが起きたって、頑張ることが出来るんだから。
 だったらきちんと手を伸ばし、追いかければよかったのだ。
「あのとき、僕もいっしょに消えてしまえばよかったんだ」
 吹雪は微笑んだ。たぶん、あの日の彼とおなじ笑みを浮かべていた。

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