2.赤の女王の名のもとに
「おまえたちは仲がいいな」と亮が言うと、吹雪は「妬いているのかい」と笑ったが、藤原は「そうかな」と首を傾げた。
「そんなことはないと思うけど」
虚勢や照れ隠しではなく、ごく自然な調子でそう返されて、亮はすこし驚いた。どこからどう見てもふたりは仲がよかったので、否定の言葉を聞くことになるとは思ってもみなかった。
「仲がいいふうに見えるんだ?」
問いかけに、亮は当然頷いた。
「いつも一緒にいるだろう」
いつも、という表現は過剰だったかもしれない。派手に振る舞うことを好む吹雪は女生徒たちに囲まれてすごすことも多かったが、対照的に藤原は、人の輪を抜けてひとりでいる時間を大切にする。それでいてなぜか、なんとなくではあるが、彼らには常に隣り合っているような印象があったので、亮はそれを指して言ったのだ。仲が良いなと。現に、ついさっきの授業でも、彼らはふたりで組んでいたはずで、それは傍目に違和感のある組み合わせではなかった。なにかと集団から離れたがる藤原を、呼びとめて引き寄せておくのはいつも吹雪の役割だと、そう認識しているのは亮だけではないはずだ。
ブルー寮に付属したテラスで、藤原は、今日もクリームソーダを飲んでいた。最近はいつもこれだ。飽きないのかと訊ねると、飽きたらやめるよと少し機嫌を損ねる。炭酸水に浮かんだ丸いアイスを機嫌よくつつくさまは、まだ当分はその日が来ないことを予想させた。
そうやってしあわせそうだったはずの藤原は、しかし、吹雪となにか悶着でも起こしたのだろうか。亮の言葉にかすかに眉を寄せ、自嘲するような表情を浮かべた。
「いつもなんて存在しないよ、丸藤。生き物は変化するように出来ているんだから」
不思議とときどき、こういう皮肉げな言い回しをする男だった。藤原は特徴的な形の目をうっすらと細めたが、その微笑は、顔立ちのせいか嫌らしさより幼げな気配だけを際だたせる。すこし首を傾げ、窺うような角度で彼は亮を見つめていた。こちらからの言い分がなにもないことを確認してから、勿体ぶったふうにゆっくりと口を開く。
「『そこに留まるためには、全力で走り続けなければならない』」
なにかの歌でも口ずさむように、藤原はそう言った。奇妙なフレーズだった。どこかで聞いたことがある気もしたが、明確には思い出せない。我ながら珍しいことだ、と亮は思ったが、藤原は気にしたようすもなく続けた。
「It takes all the running you can do, to keep in the same place.――赤の女王仮説だ。生き残るために、生物は常に競争し続け、進化し続ける。思考や思想、それどころの話じゃない。遺伝子レベルの問題なんだ。食物連鎖、ヒエラルキー高位の生物は下位の生物の肉を食らう。けれどそれだけが続けば、種は一瞬で絶滅するだろう。強きが弱きを圧するばかりが自然じゃない。進化するんだ。足が遅くいては食らわれる種なら脚力を、そしてそれを追う種はいっそう、やはり脚力を、高める必要がある。個の意思に関わらず高められる。軍拡競争はいつだってどこまでも繰り広げられるものだ。それが生き物の本能だからね。だれひとりとして、赤の女王には逆らえない。だって、立ち止まったらその場でおしまい。絶滅してしまうんだから」
藤原はなにかを忌避するように、何故かまくしたてるようにそう言った。「いつもなんてないんだ」と彼は呟き、目を伏せた。「変わらないものなんて絶対にない」
低く吐き捨てたその言葉、それが結論だとするならば、ずいぶん迂遠な物言いをする。溶けて形を崩したアイスクリームを一瞥し、亮は呆れの感情を隠すことなく「それで?」と訊ねた。
「いったいなんの話だ」
問いかけに、藤原はきょとんとした。どうやら自分でもよく分からないらしく、「進化の話、かな」と首を捻る。
「そうか」亮は頷いた。言われてみればたしかに、そうだったような気もする。「俺はてっきり、不思議の国のアリスについて語りたかったのかと思ったが」
皮肉な調子でそう言ってやると、藤原はふたたび目を丸めた。ぱちぱちと何度か瞬いて、それからくすくすと笑いだす。よほど笑いのツボにはまったらしく、腹を抱え、肩を震わせながら彼は言った。「まさか丸藤の口からその作品の名前を聞くとは思わなかった」
そんなにも笑うようなことだろうかと亮は不審に思ったが、たしかに、自分に不似合いな単語であることは否めない。なおも笑い続ける藤原は、合間に何度か「ごめん」と繰り返し、目尻に涙さえ浮かべてみせた。
「そうそう、不思議の国のアリスに出てくる赤の女王がモデルなんだよね、この仮説」
「『その場に留まるためには、全力で走り続けなければならない』か。随分とメルヘンチックな引用の仕方だと感心した記憶がある。俺には分からんセンスだ」
「そうだろうね」藤原はまだ少し笑っている。「丸藤はアリスの物語、苦手そうだ」
「得意ではないな。おとぎばなしにしても支離滅裂だし、すべて煙に巻いたうえで教訓もなにもない」
「そう? 俺は好きだよ。あの支離滅裂なところも、結局は夢でした、で終わらせてしまうところも」
曖昧で不確かなもののところに真実が潜んでいることもあるだろう? 藤原はそう言ったが、しかし、そうだろうか。それは本当に、彼の本音だろうか。曖昧で不確かで、触れられそうで触れられない。そこに埋もれた真実は、なるほど藤原優介が渇望するものなのかもしれないが、同時に、心から恐れているはずのものではないのだろうか。
「丸藤はレースの一番前を走ってる」
ふいに彼が言った。なんとなく、寂しげな声だった。
「ここにい続けるために、常に前だけを見て、全力で、走り続けている。俺たちのトップは丸藤だよ。間違いない。お前には、だれも敵わない」
藤原がどういうつもりでその言葉を口にしたのかは分からなかったが、けれど亮には、それを否定する気は起きなかった。それだけの努力を、してきたつもりだった。これからもしてゆくつもりだ。走り続ける。この場にい続けるために。
ソーダに溶け込んだアイスクリームをすくいあげ、藤原はそれを口に運んだ。おいしくない、と、ちいさな声で呟く。飽きてきたのかもしれない。そろそろ、やめにするべきなのかもしれない。あーあ、と彼は嘆息した。
「永遠に溶けないアイスクリームがあればいいのに」
つい先ほどまでの発言と、見事に矛盾する言葉だった。
それが本音だろう、と亮は思ったが、言及することはしなかった。代わりに、なにかあったのか、と小さく訊ねる。藤原優介は奇妙な人物だ。なにかあったとしても、なにもなかったとしても、いつもどこかちぐはぐで、不安定だ。亮にはそれを見抜くことはむつかしかった。なにがあったんだ、と、断定的に問うことさえ出来ない。
藤原は答えた。
「なんにも」
丸藤に教えることなんてなにもないよ。そう言われているようだった。そうか、と亮は頷く。まだ中身の残ったグラスに、藤原はスプーンを放りこんだ。もういらない、と彼は言った。退屈そうに伸びをして、少しのあいだだけ亮を見やる。なぜだか、なにかを試すような顔をしていた。亮はその視線をきちんと受けたけれど、どんな感情が込められたものなのかは分からない。藤原はふっと視線を降ろし、もう一度嘆息した。つぎに口を開いたときには、いつもの調子で、その日の授業内容について語りはじめた。
「ケンカをしたんだ」と情けない顔をした吹雪が部屋を訪ねてきたのはその日の夜のことで、亮はその来訪を受けて、なるほどこれが原因か、と昼間の藤原の不機嫌の意味を知った。そんな状態で「仲が良いな」なとど口走った自分のタイミングの悪さには驚くやら呆れるやらではあったが、彼らが諍いを起こすのは別に珍しいことではなかったので、やはり仲がいいのではないか、と納得する気持ちもあった。喧嘩するほど、とはよく言ったものだ。吹雪は子どものように拗ねた顔で、最近なんだかおかしいんだ、と呟く。「あんまり目を合わせてくれない」
「いつものことじゃないか」人を避けて通るふしのある藤原に、目を合わせてもらえる人物のほうがきっと少ない。「俺だっていまだに逸らされることがある」
「そりゃそうかもしれないけど、でも、いつも以上に酷いんだよ。あれはなにか隠しごとをしているに違いないと思うんだけど、軽く問い詰めてみたら、吹雪には関係ないの一点張りで」
「お前の聞き方が鬱陶しかったんだろう」
「うわあ、傷心の親友に、なんてひどい言い方をするんだい。信じられない」
「隠したがっていることを無理に暴く必要はない」
「心配なんだよ」
吹雪は言いきった。いつものふざけた口調ではなく、どこか硬い声音であったので、亮は少し驚いた。強い視線で、吹雪は自分の足元を見つめていた。なにかを睨みつけているようでもあったし、そうやって敵意を向けるべき対象を探しているようにも見えた。「彼を見ていると不安になる」
最近おかしい、と吹雪はもう一度そう言った。なにかを隠している。放っておけないんだ。深刻な調子で呟く吹雪の姿を、亮はやはり意外に思った。彼が藤原を気にかけていること、なにかと世話を焼いて、自分のそばに寄らせようとしていること自体は日常的に感じていたけれど、ここまで思い煩っているとは考えていなかった。人好きの吹雪は、いつも、誰にでも優しい。亮に対してだってそうだ。当然のように近付いて、口数の少ない返答にも楽しげに言葉を交わしてくる。突拍子のないことを仕出かすことも多いが、その明るいキャラクターによって救われる場面だって少なくはない。決して人付き合いの良いタイプではない亮でさえ、吹雪に引っぱられると、気付けば他人の世話を焼いていたりする。面倒な男ではあるがそれすら才能だ。吹雪のそういった点を亮は高く評価していたし、彼の存在に感謝してもいた。学園生活というものは、思った以上に彩り鮮やかで楽しいものだ。
藤原もきっとそうだろう。むしろ亮以上に、吹雪によって生活を変えられてしまっているのが彼だ。入学してすぐの、人と深く付き合うことを拒むようにしていた藤原が、吹雪と関わることで変化してゆくさまを、亮はだれより近くで見ていた。吹雪を通してようやく、学内で暮らすことに力強い輝きを見出している。そういった意味合いで藤原と自分はよく似ていると、少なくとも亮はそう考えていたので、その一点においてでならば、藤原のよく分からない思考の中枢でさえ理解できた。
彼が吹雪を、見限るようなことはきっとない。
吹雪を喪失することがどれほどの痛手であるか、分からない藤原ではないはずだ。亮はこっそりと嘆息した。思わぬ深刻な様相を浮かべる友人に、そう気に病むことはないと伝えてやりたかった。お前の献身は俺たちをきちんと繋ぎとめるに足るものだと、そんな言葉が思い浮かんだけれど、妙に気恥ずかしく思えてやめにした。それこそ、吹雪のような人間にこそ似合うセリフであると思った。
「大丈夫だ」
と、だから、亮はとにかく、それだけを口にした。それからふと思い立って、お前が、と続けた。
「お前がいれば藤原は、大丈夫だろう。あれはそんなには強くない」
永遠に溶けないアイスクリームがあればいいのに。
そう言っていた、彼の声を思い出す。なるほど、天上院吹雪はその名に似合わずなにかと熱い男だが、それでも、吹雪だ。豪雪の冷気はきっと、彼の求める永遠を叶える力を持っている。そんなダジャレのような結論に至り、亮は思わずすこし笑った。唐突な笑みに吹雪はすこし面食らったような顔をしていたが、かと思うと急に、肩の力が抜けたように表情を切り替えた。急いていた自分がバカのようだと、彼の顔にはそう書いてあった。
藤原を呼びよせるのはいつだって吹雪の役割で、クラスメイトや教師たちや、多くの人の目から見て、きっとそれは正しい図式だった。亮とてそうだ。藤原優介のことは天上院吹雪に任せておけばいいと、それで誤ることは絶対にないと、なぜだかそんなふうに思いこんでいた。それだけの力が、吹雪にはあるように見えた。実際にそれを体感している、亮にとってはなおさらだ。藤原のことを、ただ吹雪に一任し、丸投げしたというわけではない。
同じだった。藤原と亮は、同じ、吹雪によって認められ、吹雪が手を招くことでいまの居場所を与えられていた。彼がいなければ、きっと、そう関わることもなかった。互いに無関心のままで、漫然とデュエルにのみ没頭する、ただそれだけの生活を送っていたはずだ。だから彼を掬いあげるのは自分ではなく吹雪なのだと、そう思った。その考えが間違いであるはずはなかった。
吹雪と藤原はすぐに仲直りをする。
翌日には普段通りに接しているふたりをすぐそばで眺めながら、ふと、亮は思う。藤原の言った、赤の女王のレースのことを思い出す。人は変化し、進化する。自分たちもそうなのだろうか、と考える。もしかしたら、と思考する。
もしかしたら自分たちは一心に、同じところをぐるぐると走り続けているだけなのではないだろうか。前に進んでいるようでいて、実のところ、何度も同じところに帰ってきてしまっているのではないだろうか。思い出したのは幼いころ、家族で一度出かけた水族館での光景だった。円柱状の水槽の中で、ぐるぐる、ぐるぐると、ものすごい速度でイワシの群れが泳いでいる。全員が同じ方向を見ながら、ひたすらにまっすぐ、泳ぎ続けている。亮のとなりでは、今よりもまださらに小さな弟が、大きな目をまるめてその水槽を覗きこんでいた。ぴったりと張り付くように、またたきもしないで見つめている。亮はそのようすを見て、目を回しはしないだろうかと少し心配をしている。すごい、と呟いた小さな翔は、なぜだかかすかに両目を潤ませていた。怯えたような、顔をしていた。怖いのかと訊ねるとこくりと頷くのに、弟はその場を離れようとはしなかったので、亮もそこに留まっていた。長い時間、兄弟で並んで、その水槽を見上げていた。
ぐるぐる、ぐるぐると、走り続ける。だれも前しか見ていない。ただ、ここにいるために必要だから走っている。それだけだ。そういうレースなのだ。
ここがそうであれば良かったのにな、と亮は思った。藤原の求める溶けないアイスクリームとおなじだ。亮は走り続けていたかったので、だから、前へと進む努力を決して怠りはしないけれど、それでも決してこの場を離れたいわけではない。むしろ逆なのだ。い続けるために走っている。
おどけたような仕草で、吹雪が藤原の肩を軽く叩いた。藤原はそれに少し困ったふうな顔をして、助けを求めるような調子で亮の名を呼ぶ。甘えた声音。それを受けて亮は静かに頷いて、ほどほどにするようにと吹雪に言い含める。妙に優雅とも思えるステップで制服の裾を揺らし、吹雪が笑うと、亮と藤原は顔を見合わせる。視線を逸らすことなく、彼はすこしはにかんだ。
ここに、い続けるために必要なもの。
丸藤亮は強い。吹雪がいてこそ輝きを放つこの場所での生活は、しかし、たとえ彼がいなかったとしてもきっと変わらず亮を走らせ続ける。レースのトップは亮だ。それだけは変わらない。誰がどこにいようが、たとえ何人がここから消えてしまったとしても、絶対に変化しない。けれど藤原には、藤原が走り続けるためには、誰かが必要なのだ。その誰かというのは天上院吹雪で、この膨大な数の生徒たちが詰め込まれた円柱の水槽の中で、彼らは並列して走っている。吹雪が藤原に合わせているのか、藤原のほうが吹雪に近付いているのか、理由は分からないがとにかく彼らは寄りあって、そして常に、亮の背後にいた。ふたりで並んでいる。亮はその気配を感じ取って、だからこそ、振り返ることなく進み続けられる。前へ、前へと。まっすぐに。
「どうしたんだい、亮?」
目敏い吹雪は、こちらの考えごとにすぐさま反応を示した。なにか別なことを考えていただろう、と訊ねてくる。「僕の話、聞いてた?」
言葉とは裏腹に、彼はなぜだか楽しみを見出したような顔をしていた。聞いていたさと答えると、にやにやと頬を緩ませる。聞きながら、けれど同時になにか別の思考を行っていただろう、と表情だけで摘発する。それを感じとり亮は少し悩んだが、結局は正直に、
「イワシの群れについて考えていた」
と答えた。
さすがに想定していなかったのであろう、吹雪はぽかんと目を丸め、藤原も、表現しがたい珍妙な表情を浮かべていた。彼らはまったく違った造形の顔に似たような感情を器用に乗せて、ふたりして無言で亮を非難した。心外であった。
「丸藤ってやっぱりちょっと変だよ」
藤原の呟きに、吹雪がこくりと頷く。まったく、本当に仲がいいなと、亮は思った。
藤原優介が消えてしまうその直前、亮が彼を最後に見たのは、最後に記憶し、認識したのは、涼やかな月夜のことだった。満月を翌日に控えた、丸い、けれどまだ未完成の月は、すこしの物足りなさとそれを超える期待のようなものを抱かせた。勉強の合間の息抜きに、なんとなくベランダへと足を運んで見上げた空だった。街灯のないアカデミアの島のうえに、星は夜毎うるさいほどに輝いていて、今さら敢えて感動するような景観ではなかったはずなのに、その日のことだけは、何故かいやになるほど覚えている。夜も随分更けていたので、区切りの良いところで終わらせて眠りにつこうと、そんなことを考えながら部屋に戻った。亮の生活サイクルはどちらかというと規則正しく、普段ならば滅多に起きていることのない、そんな時間帯のことだった。
人の気配がする。
扉の向こう、廊下のほうでそれを感じとって、亮はふと手を止めた。こんな時間に起きている人物は誰だろう、と考えた。嫌な予感というほどの、明確ななにかを感じとったわけではない。それでもなんとなく、それが藤原であることの予想はついた。扉を開き、申し訳程度に明りの灯った薄暗い廊下に顔を出す。その姿を見つけるのに、視線を彷徨わせる必要はなかった。
思ったとおり、藤原優介がそこにいた。廊下の隅、自室の扉のすぐそばに立っていた。そうやって夜に佇む彼のようすは奇妙に自然で、亮は、これがいつもの光景であることをすぐに理解した。深夜は彼のための時間。藤原優介は夜に愛されている。
こちらに気付く素振りもなく、藤原はひとり立ち尽くしていた。暗闇に紛れて表情こそ窺えなかったけれど、なんとも酷い顔をしているように見えた。最近の彼はだいたい常にそんなふうで、なにかに思い悩んでいるのは明白だというのに、それを誰にも打ち明けるようなことはしなかった。なにかあったのかと亮が訊ねても(それがいつもの軽い問いかけではなく、詰問するような厳しい声音であったとしても)やはり首を横に振るばかりだった。「なんにも」と答える。丸藤に教えられるようなことは、なんにも。
その態度に苛立ちのようなものを覚えなかったというと嘘になる。亮は特別に短気な性分ではなかったし、隠したがっていることを無理に暴く必要はないと言ったのも本心だったが、だからといって率先して無関心でありたいわけではない。相手を尊重することこそ亮の指針ではあったけれど、明らかになにか抱えたようすの友人に、見て見ぬふりをしてまで貫くようなものではなかった。
藤原は、ふと、顔を上げた。むらさきの双眸が、じいっと闇の向こうを見つめていた。彼はなにかを決意したようで、強張らせていた全身から力を抜いた。ゆっくりと一歩を踏み出して、廊下を進みはじめる。その背が遠ざかってゆく。
亮はそれを追おうとした。もちろん、当然だ。藤原がどこへ向かうつもりなのか、そんなことはまったく分からなかったけれど、こんな時間帯に出てゆくのを見過ごすわけにはいかなかった。それがたとえ、ただ月夜に誘われただけの、気分転換のための逍遥だったとしても、こんなにも明るい夜の下に彼を置き去りにするのはいけない。そんなことをしてはいけない。
だから亮は彼を追いかけようとして、足を踏み出そうとして、けれど、そこから先へは進まなかった。いつからそこにいたのか、視界に別な人物が入りこんできて、亮の歩みを止めさせた。吹雪だった。薄暗い世界のなかでも、なぜか妙に鮮やかな気配を纏って、吹雪がひらりと現れた。彼が藤原の背を追った。
闇夜の中で、吹雪がくるりと振り返る。彼はひどく神妙な顔つきのままで、けれど亮と視線が合うと、かすかに目を細めた。だいじょうぶ、と彼のふたつの目が語る。口元が、ちいさく開いて形をつくる。
「まかせて」
声として耳まで届くことのない言葉を、それだけ残して吹雪は去った。藤原を、追いかけていった。亮は一瞬戸惑った。自分も彼らを追うべきでないかと考えたが、それをためらい、結局はその場に留まった。ふたりが離れてゆくのを、遠い場所から、ひとりで眺めていた。それが最後だ。藤原優介を見た、最後の記憶。これもすぐに失って、亮に残されたのは、ただ友人たちが消えていったその暗い廊下の景色だけだった。
置き去りにされたという感覚はなかった。むしろ、彼らを見捨てて去ったのは自分のほうだと、亮は考えていた。レースの先頭を走っていたせいで、前ばかりを見て、そのせいでひとりになってしまった。彼らは自分のあとを追うものだと、立ち止まることをしなくとも必ずついてくるものだと、そんなふうに楽観していた。それは亮自身の甘えであった。藤原が消えて、それに付き従うように吹雪もいなくなり、それでもレースは終わらない。
走り続けなければならない。前を見て、歩を進め、決して立ち止ってはいけない。たとえそれがどれほど滑稽なふうに見えたとしても、丸藤亮が在るべきはトップだった。彼らの言うとおり、トップでしかありえなかった。
この場所にい続けるために。
自分は歩み続けるのだ。振り返ることをせずに、はたして何者と競い合っているのかも分からないままで、狭い水槽の中を泳ぎ続ける。そのせいで友を失っても、見捨てることになったとしても。
決意は変わらなかった。亮は走り続けていたかった。赤の女王の命ずるままに、変化し、進化してゆく。変わらないものなどひとつもないと、そう言っていた誰かの声を、ときどきは思い出しながら。お前は変わらない場所がほしかったんだなと、そう問う自分の声を、心の中でだけ浮かばせながら。
永遠を求めるあまり、彼はレースを降りてしまった。
それを知りながら振りかえらなかった、自分はきっと、いずれ地獄に落ちるだろう。