われらの狂気を生き延びる道を教えよ

 病というのはじつに厄介なもので当事者のみが耐えればそれでよいというわけではない。
 何故か。もちろん、人がただひとりで生きるようには出来ていないからだ。死に斃れることと、病に倒れることとでは、前者の方が幾らか手順が簡単だ。それが重く、醜く、治る見込みのない病であればなおのこと。
 端的に、害悪ばかりが広がるのだ。自分自身にだけでなく、周囲へも折り重なって繋がってゆく。誰かが耐えればよい、というものではない。痛みも恨みも妬みも、人から人へと連鎖する。その波紋の中心が己であるという事実は、容易く心まで蝕んでゆく。
 大谷吉継は病に蝕まれている。
 病難こそが自分の全てであると感じる程に、この身の奥深くまで、害悪が根付いて絡んでいる。その感情がいつどこで生まれたかすら記憶にない程、連なる負の波紋を生み出すことこそが、自身のアイデンティティであるようにさえ吉継には感じられた。
 そして想像力のある者は、吉継のその境遇に無遠慮に触れてくることが得意だ。
「憐れなことだ」とかれらは云う。「病に侵され、身も心も倦み果ててしまったのだ。あの男は人として肝要なすべてを病んでいる。あんなことになってしまって、実に無念だ。痛ましいことだ」
 その言葉はきっと正しいだろう。吉継は心身を病んでおり、憐れで、痛ましく、そして人としてのすべてを失った無残な生き物だ。心の豊かなかれらは吉継へ同情の視線を向ける。この男には普通では耐えがたいほどに辛いことがあったのだ、ああなっても仕方がなかったのだと云い聞かせ、生じる波紋をどうにか遠くへ追いやろうとする。
 あの不幸に巻き込まれぬように。
 吉継はそれらを笑って許してやる。憐憫も同情も、上っ面だけで示される理解も、連鎖する負の波から決して逃れられないことを、吉継はよくよく知っていた。その憐みを手向けた次の瞬間、かれらはとうに呪われて、いずれ必ず、不可逆なる暗黒に見舞われる。吉継はその未来を嘲笑う。そんな吉継を、理解あるかれらはいっそう不憫であると遠巻きに見やるのだった。
 また、想像力の欠けた、病に無理解な者どもはというと、これはいっそう滑稽で、まず吉継の外貌に眉をひそめて愉悦を貪る。露骨に距離を取りたがるわりに、あえて近づき耳元でこう囁くのだ。「人とは思えぬ醜悪だ。みなが不快に思っていることに、何故気付きもしないのか」
 こうして言葉を鏃とする者は、しかしまだ愛らしいもので、人語を操らぬ猿のような連中はというと実際に吉継へと石を投げてくる。さすがの吉継もこれには困る。なにせ、単純に怪我を負うのはつまらないのだ。ただでさえ募り続けて止まらない、痛みと恨みと妬みの連鎖に、さらに加えて傷を増やそうとする理由はなんだ。とうてい理解できないが、きっと、本人たちも理解などしていないのだろう。想像を放棄し、思考を手放し、いっときの感情だけで動く者たちだ。
 だから吉継は、かれらも笑って許してやる。言葉を用いる人々も、道具を用いる人々も、結果を見ればみな平等だ。みな、同様に覆せぬ悪夢を見るのだ。吉継の嘲笑はかれらを苛立たせる。不幸が積み重なる。波紋が広がり、連鎖する。それはいずれ、この身など比べ物にならないほどの絶望を呼び、大地の全てを埋め尽くすことだろう。
 さてしかし、だ。
 その論法から考えるにつけ、石田三成は奇怪である。
 吉継の目から見て、三成は想像力を活用しない男であった。いつだったか、町の通りを駆ける幼子の群れを見て顔をしかめた三成に、子どもは嫌いかと問うた者があったが、それに対する三成の答えといったら、
「冷静かつ精確にこの世の物事を捉えることの出来る幼子が存在するなら、私の前に連れて来い」
 というものだった。問者は所在なげに押し黙ったが、傍らで聞いていた吉継は笑いだしたい気分であった。かれはつまり、子どもは総じて莫迦だから嫌いだと云ったのだ。己自身もかつて、その愚かな子どもであったことを忘れて。
 いや、忘れてはいなかったのかもしれない。三成は幼い頃から聡明であったろうし、仮にかれの云う「冷静かつ精確にこの世の物事を捉える」ような子どもではなかったとしても、その愚かであった幼少の自身すらも含めて、この世のすべての幼子を嫌悪してみせたのかもしれない。そこまでは吉継の預かり知らぬところである。
 とはいえ、きっと三成は、そう深く思案して言葉を選んだわけではあるまい。
 あの回答に「子どもは愚かだ。だから嫌いだ」という内容以上の意味は含まれないのだ。
 三成はこのように、想像力の欠如した、他者を気遣うということをおおよそしない男であった。幼き者、弱き者、愚かなる者に対して過剰な慈悲を振る舞わず、ただ平坦な態度で接する。環境や状況に関わらず、励まぬものは侮蔑し、励んでなお結果の出ないものをも嫌悪した。有能なものはもれなく評価したが、それを称える口調はというと、無能なものへと価値を下す際のそれと大差をつけぬ平静さであった。
 はたしてかれの目に他人という存在はどう映っているのか、吉継はときに興味深く思った。神のごとき主君と、その横に在る賢人以外の存在は、みな等しくつまらぬ紙屑のように見えているのではないか。
 それはもちろん、吉継自身も含めて。
 吉継が戯れにそんな考えを口にすると、しかし三成は僅かに眉根を寄せ、くだらん、と一蹴する。「貴様も、他の者も、紙屑に見えたことなど一度もない」
 それは当然である。吉継はもちろん、そんな分かりきった回答を望んで問うたわけではなかったが、しかし、言葉にして与えられるとそれは存外小気味よく、なるほど自分はこの答えが聞きたかったのだ、と密かに胸の奥がすく。この男の返す言葉は、こうでなくてはならぬと思う。
 三成は吉継を、病んだ狂人と哀れむことをしなかった。それは強いてそうしなかったのではなく、おそらく、他者に憐憫を与えるという選択そのものをかれが持ち得ないせいだ。だからといって、ただ興味がないだけかというと、存外そういうふうでもない。三成は吉継に害意を抱く者たちに対して怒気を隠さない。
 吉継自身は、かれらの存在をとうに許したのに。
 奇怪な男だ。
「……紙屑ではない、か。であればぬしの目に、我の姿はどう映る」
 問い掛けに、三成は考えない。なぜ吉継がそんな質問をしたのか。どう答えることが相手を満足させるか、あるいは失望させるのか。そんな想像の波を決して挟まぬ素早さで、三成は返す。
「どう映るもなにもあるものか。貴様は貴様だ、刑部」
 己の姿が気にかかるのなら、鏡でも覗き見れば良い。
 他の言葉を挟ませないその語調は、場合によっては相手を切り捨てるような冷たささえ孕んでいる。吉継はその中にひどく澄みきった景色を見る。冷たい大地に凛と立つ、若く逞しい樹木のような気高さと、その根を包む狂気を明確に感じ取る。かれを見ていると、美しさとはひとつの凶事であるのだと気付かされる。
 鏡を見ろとかれは云ったが、きっと、三成自身が鏡を覗いたところで、この壮美な風景を幻視することはない。
 奇妙な充足を覚える吉継に対し、三成はなぜか僅かに不審な気配を滲ませたが、すぐさま興味なげに目を逸らした。吉継は小さく笑う。この引きつるような笑い声を不快とする者は少なくなかったが、しかし三成は苛立つような気配もなく、ただ、なにがおかしいのか理解出来ないというふうな顔で隣にいる。

 このように、大谷吉継にとって石田三成は、奇怪な観測対象でありながら、あたかも気のおけぬ間柄のように親しげに振る舞う相手でもあった。三成はときに、自分と吉継の関係を第三者へと示す際に「友」という言葉を使った。はじめに聞いた時こそ吉継も驚いたが、あとから知るところによると、どうもかの賢人がその形容を用いるのを三成が耳にしたのがきっかけのようで、三成自身が真に吉継への友情を感じているかどうかはまったく怪しいものであった。なにせ、あの色の悪いくちびるから与えられる教示に対し、三成はまるで生後間もない雛鳥のようにまるごとすべてを飲み込むのだ。
 吉継はそのように考え、三成のその気質を俄かに持て余してもいたが、とはいえ、かれがあの強い声音で自分を友と云い表すならば、きっと我々の関係はそうなのだろう、とも思っていた。三成は虚言を好まない。そして三成が断じる事象に対して、吉継に異を唱えるべきことはなにもない。
 鼻つまみもの同士の馴れ合いだと、そう囁く声もあったが、三成も吉継もそんなことを気には留めなかった。三成に至っては気が付いてすらいないのかもしれない。基本的に、他人のことを気にしない性格なのだ。それはいっそ吉継に対してさえ同様のことで、たとえば吉継は往々にして、医師からの厳命めいた指示に従い数日ほど床に伏せることがあったが、そうなると、かれはしばしば吉継のもとに顔を出した。
 しばしば。
 と、表現するのが正しいかどうか、迷うくらいの頻度で。
 吉継にはこれが意外であった。吉継の病は周知であり、病床にあったところで慌てるような事態ではない。べつに、急死を招くような病状ではないのだ。少しばかり休暇を得て、休養の時間を増やすだけ。どうということはない。けれど三成は、足しげく吉継のもとまでやってくる。事務的な連絡を携えて来る日もあれば、なにもなくとも来る日もあった。ある日は土産を持ち、またある日は手ぶらでやってきて、ひとことふたこと言葉を交わすだけで帰ってゆく。吉継の顔をちらりと見て、そのまま無言で辞する日すらあった。
 それが自分への見舞いであることは難なく理解出来る。事実、三成に来訪の意味を問うた所、かれは「見舞いだ」と断じてみせた。それ以外のなんなのだと言わんばかりの口調であったので、かれにとっては間違いなく、病気の友への見舞いでしかないのだろう。
 だが、それでもやっぱり、吉継にはよく分からない。
 吉継は三成の来訪にあわせて身をおこし、もてなしと云えるほどではないが、客人として丁寧にかれを迎え入れる。床に伏せたままでの面会をよしとしないのは、単純に吉継の矜持がそうさせるものであったが、じつのところ吉継は、いかにも憐みを誘う病床の己の姿をかれに見られることを嫌ったのであった。
 吉継は、自身のそういった感情に対しても不可思議な思いを抱いていた。客に失礼があってはならないと感じることはわりあいまともな思考であったが、とはいえ、自分たちの関係は「友」である為、多少礼を欠いたところで互いに気にはしないだろう。三成は存外と礼節にうるさい男であったが、病人の部屋に押しかけて来ておいて云う文句もあるまい。
 しかし三成はというと、これは断言できるのだが、吉継のこういった些細な気遣いになど、まったく気がついてはいないのだ。
 吉継はそれにわずかな苛立ちをおぼえる。なんだかよく分からないのだが、とにかく、もう少しこちらの身になってみろ、という気分になる。時々、ほんの時々感じ取ることでしかないのだが、要するに三成は、
 ――要するに、である。
 吉継の思考はそこで停止する。かれに関わることを急いて見極めようとすると、普段の己が使用していない感情が働きそうになる。吉継はそれに歯止めをかける。無論、意識的な抑止が可能な部位ではないので、吉継の意図に関わらない、無意識下での制限だ。自分自身ですら気付かぬうちに、石田三成に対する意図や思惑や衝動が急停止し、そのまま夢のように霧散する。おそらく、他者に問われなければその感情が紐解かれる日は来ない。
 代わりに吉継は、かれの不幸について思案する。
 三成の根には深い不運が絡みついている。かれの心身を蝕むのは崇拝という名の毒で、吉継の病と同様に、それはもう手がつけられない程に全身を巡り尽くしている。かれ自身はその在り方を僥倖と呼ぶだろう。尊き者に支配され、従事する、あの恍惚がなければかれは生きることすら立ちゆかないのだから。
 とはいえ、三成はなにも、その身のすべてを主人に任せ、自我を手放した人形というわけではない。
 三成には明確な意志がある。頭のよい男なのだ。考え、提案し、導き、紡ぎ出す力がある。だからこそ、己の崇める指針が示す道だけをひたむきに走ってゆくことが出来る。三成の努力は生半可ではなく、その苛烈な言動に眉をひそめる者があったとしても、蹴落とすことの出来る者がいないのはその為だ。そもそもが、他者の上に立つに足る人物なのだ。
 三成の不幸はそこにあった。かの覇王に見初められるだけの実力を備えていること。大きな期待に応えるだけの才を持っていること。主君の語る未来を明確に感受し、同じ道のりを渇望することが出来ること。
 凶悪なまでに揺るぎない、人生の支柱を手に入れていること。
 あの痩せぎすの身のどこにそれほどまでの力を蓄えているのかと、吉継はときに呆れさえ覚える。同時に、あのしるべを失ったとき、はたしてかれはどこへ向かうのかとも。
 想像する。
 おそらく三成が思い描くことは決してないであろう、残忍な末路を、吉継はひそかに夢想する。
 この病に浸された骨のような両手が、かれの愛する主君の首を掲げ、覇王の成す未来に終わりを告げるのだ。誰も思いつかないような卑劣な手段で、三成は勿論、賢人すら出し抜いて、この完成されつつある豊臣の天下を内側から崩壊させる。柱を失った家は脆く、途端に崩れて塵と化すだろう。あとにはなにも残らない。絶望以外にはなにも。
 かれの両の目がとみに輝く瞬間を、吉継は知っていた。秀吉と言葉を交わすとき、秀吉の雄姿を語るとき、三成は決まって双眸を希望で満たす。奇しくもかれ自身が「愚かだ」と厭った、あのちいさな子どもたちのように、憧憬と信頼ばかりを窺わせる。
 秀吉を弑すれば、かれのあの眼差しを見ることは二度となくなるだろう。そして喪失にのみ彩られた、濁ったまなこだけがこの世を見つめることになる。崇拝の毒は拭浄され、かれの心には新たな不浄が宿る。
 吉継がかれの内側に見た、あの気高い樹木は枯れ果てる。
 それは紛れもなく、吉継にとっての不幸であった。あの美しくも凶兆を隠さない三成の姿にこそ、吉継は愛着を覚えたのだ。それが失われることなど望むわけもない。けれど思わずにいられないのだ。その絶望を生み出すのが他でもない大谷吉継であった時、かれはどのような顔を見せるのか。復讐を唱え、この身を手にかける時、三成はなんと言うだろう。言葉もなく、ただ憎悪のままに首を刎ねるのだろうか。
 そこに僅かでも、信じた者に裏切られた悲しみが混じるだろうか。
 吉継のその夢想はけっして叶わぬものであったし、叶えようとも思わなかった。すべては仮定の話であり、吉継が自身とその周囲に強いる不幸のうちの、日常化しつつある妄想の一種といえる。甘美な選択であることは違いなく、思いつく限り最悪の結末とさえ感じられたが、しかし、吉継の望みはこの世を不幸で満たしそれを見届けることであり、自死ではない。この荒唐無稽な計画を実行する意味などなく、実現しようとも思わなかった。そして結果として、それを成したのは吉継ではなかった。
 三成の悲嘆も、憎悪も、殺意も。
 手向けられたのは吉継ではなかった。

「許さない」とかれは云った。それでいて、「何故だ」とも。その日は雨が降っていて、その水滴の一粒一粒が、秀吉の遺体に縋る三成の肌を貫き、暗く手酷い穴を開け、あの細い身体を切りつけ傷つけ続けた。
 慟哭し、地を掻き毟り、怨嗟に震えて喉を鳴らすかれの姿は、主君を奪われた忠臣のありかたを逸脱しているようにも思えた。その強烈な怒りに感銘を受ける者もあれば、気を違えたのだと恐れる者もあった。そして吉継はというと、巨大な渦に身を飲まれながら、己の行動がはたして真に自分自身の意志によるものなのかどうかも分からぬまま、ただ無心に、行うべきことを行うことにした。
 まるで悪い夢のように着々と展開してゆく悲劇の、その主導を握ることこそ己の役目であると吉継は理解していた。それをしなければあっけなく終わりが来ることは目に見えており、そしてかれにとっての終わりとは、己ではなく、三成の死によってもたらされるものであった。
 吉継のかつての夢想は、反逆者たる吉継自身が石田三成によって征されることで幕を閉じるものであったが、現実に起こった出来事がそのように単純な結末を用意してくれるはずもない。だれかが裏で糸を引き、思う方向へ操らねばならないのだ。吉継はその役を買って出た。明確な思惑があったわけではない。ただ、そうすべきと心得ていた。
 行動の一切に迷いはなかった。
 この時の為に生きてきたのだとさえ思った。崩れ削げゆく肉体を受け入れ、不快な優しさも侮辱の声も身の内に取りこんで、辿り付いた果てがこの生き地獄を体現したような男の隣だ。滑稽といえば滑稽で、相応しいといえばまさに相応しい居場所であった。
 なにより、気を狂わせるほどの裏切りを受けた三成が、それでいてなお吉継に信頼を寄せてくることが嬉しかった。
 ――と、ふいに思い、気がつく。嬉しいのか? と吉継は自問する。この感情が嬉しさであるのなら、自分はずいぶんと以前から、三成とともにあることを嬉しんでいたことになるのだが。
 吉継は答えを見つけられない。戸惑うその間を埋めるように、三成が云う。ことあるごとに、まるでなにかを確かめるように、しっかとした声音で告げる。
「刑部、貴様は貴様の好きにしろ」
 吉継はその言葉を当たり前に受け入れる。命じられるまでもなく、ぬしの為に動くのだと、鷹揚とした態度で示してやれば、三成はかすかに気配を緩ませる。ほんの僅か、けれど明確に、かれの内側にあの美しい樹木が映じる。それはほんの一瞬のことで、つぎの瞬間には損なわれてしまうのだが、吉継はそれを見つけるごとにやはりかれのことを好ましく思う。その感情は喜びに繋がっている。吉継には思いもよらないほどの、とても温かく、優しく、不条理なほどの幸福に満ちた気持ちに繋がっている。
 吉継はもちろん、そのことを知らない。この嬉しさは、胸を焦がすような奇怪な思いは、三成が身にまとう徹底した凶兆に惹かれるからこそ巻き起こるものだと、そう解釈して得心する。あるいは、そうでもなければ、かれの隣に立つことなど許されないのだと云い聞かせる。不幸を求めること、それ以外の欲求を抱えてはならない。大谷吉継はそのように生き、そしてそのように死ぬのだ。
 しかし三成は繰り返し云う。吉継がふいに姿を消して、音もなく戻ってきたとき。あるいは、戦地にて傷を負ったとき。夜の深い時間、眠りに拒まれたかれが月光をひとり睨め上げる、その背中にそっと佇むとき。
 聞き慣れた、なにもかもを断じる強い口調で告げる。「貴様の思うように行動しろ。私は関与しない」
 けれど、と決まって三成は続けるのだ。けれど忘れるな、と、これだけは絶対に譲らないと、あたかも誓いを求めるように。
「勝手に死ぬことは許さない」
 気がつけばもう長い年月を、吉継は病とともにすごしてきた。他者を恨み、世間を呪い、この世のすべてを汚く罵り生きてきたのだ。この目に映るものは総じて必ず滅ぶものと、そう信じることが吉継にとっての支えであった。ひとは死ぬ。三成も、いずれ死ぬ。
 だというのに、かれは吉継に、死んではならないと云う。生きろと云うのだ。自分は、そんなにも傷だらけになって、血を吐くように復讐を叫び、あの男を呪わなければ生きてゆくことも出来ないくせに。
 すべて成し遂げたあとのことなど、きっと、なにひとつ思索していないだろうに。
 病床へやって来る、かれの姿を思い出す。こちらの身にもなってみろと、僅かに覚えたあの日々の苛立ちを思い出す。そうだ、友を見舞うそぶりで与えられていた視線は、しかしその実、得難いものを知らぬうちに失わないよう、勝手に消えてなくならないように、自分のもとに繋ぎとめるために見張りにつくような、強い意志が含まれていた。
 その祈りを向けられることが、吉継にとってどれほど惨い仕打ちかなんて、きっとかれは想像したこともないに違いない。
 吉継は、だから、三成の願いを聞き入れない。分かったふうなふりだけを返して、宥めすかして流してしまう。その言葉に頷くことは、吉継にとっても三成にとっても虚しい行為だ。三成にはそれが分からないのだろうか。かれはあれほど虚言を嫌っているのに。
 吉継が明確な答えを返さなくても、三成はなにも云わない。もとより口数の少ない男なのだ。ただ、かれはじっと吉継の目を見る。自分に恥ずべきものはなにもないと示すように、どうしようもなく真っ直ぐにこちらを見つめるくせに、それでいて、なんの未練も残さないあっけなさで視線を逸らす。だからかれに吉継の本質は見抜けない。吉継の語る不幸の本当の姿も、吉継がひそかに糸引く策略も、なにも見つけることはない。
 そして吉継自身も、自分の本心に気がつかない。
 吉継の望みも、結局は、かれと同じところにあった。その行動のすべては三成の為であり、つまるところ、三成を少しでも長く生かす為であった。吉継が自分自身のことを深く理解し、石田三成への情愛をもう僅かでも自覚していれば、かれの言葉に頷き、そして同じ言葉を返すことが出来たかもしれない。死ぬな、とただひとこと、その願いを口にすることが出来たかもしれない。
 けれど吉継はそれをしなかった。三成の死を受け入れ、虚しい祈りと諦めたのではなく、ただただ、己の真意を解きほぐす為の時間と経験がかれには不足していた。その意味で、大谷吉継はたしかに不幸の道をひた走っていた。
 なにより、たとえその意志を相手に伝えていたからといって、なにかが変わるわけでもない。
 かれらはじきに破滅を迎える。決定づけられた運命を、互いを引きとめることもなく歩む。残された日々を惜しむ素振りすらない。傍目には、やはりそれは狂気を伴う行いに映る。なんらかの道筋を誤らない限り、必ず息絶え、夜が明けるそのころには、無慈悲な終幕が待っている。

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