自身の眠る音が聞こえる。
地面を叩き微かに揺さぶるようなそれは熱い心音によく似ていたが、この身のある場所よりひどく離れた地から響いているようにも思えた。ごうん、ごうん、と音が鳴る。忠勝はそれに耳をすませながら眠る。周囲にはひとの気配がある。いつものことだ。かれらに身を預けながらも、忠勝は決して横たわりはしない。全身を明け渡すことは罪とばかりに、巨大な体躯を僅かに俯かせ床に座ったまま、忠勝は静寂に沈んでゆく。
そうやってふと気がついたときには夜が明けて空が白んでいて、子守唄のように鼓膜に馴染んだはずのあの音がかすかに調子を変えている。忠勝が首を傾けると、聞き慣れた鎧の軋みが静かに響いた。同時に、おっ、と声が届く。
「起きたか、忠勝」
忠勝は声のぬしを見やる。本当は視線を向けなくともそれが誰であるかは分かっていたのだけれど、それでも顔を上げてその姿を確認した。忠勝に言葉はない。ただ眼差しだけで起床を告げると、襖戸から覗く朝の陽を背負いながらにっこりと笑んで、「ああ、おはよう」とあるじは云った。
家康が自ら忠勝を起こしにくるようになったのは、はたしていつ頃からだったろうか。
かつてはこんなことはなかったのだ。かれがまだ幼さを残した少年のころ、忠勝はむしろ起こす側の立場だった。家康は昔から努力を怠らない性分で、朝は早い時間から鍛練を行い夜は遅くまで書と睨めっこを続けており、結果として、忠勝や重臣たちがそっと身体を揺するまでなかなか夢の淵から離れられない日や、よしんば上手く起床出来たとしても、昼すぎには部屋の隅で筆を握ったままぽってりと横になってしまう日がままあった。その寝顔を忠勝は見てきた。そもそも忠勝が深い眠りを必要とするのは定期的に行われる全身の点検作業の前後か、或いは急な天候の変化や原因の分からない電磁波によって体調が不安定な時だけだったので、陽が落ちてみなが寝静まるころも家康の身を護るのは忠勝の役目だった。ちいさなあるじは決してひ弱ではなかったが、どういうわけだか、他国の忍びに攫われる騒動が後を絶たなかったのだ。
ともあれ、時が過ぎれば変化も生まれる。いつまでも子ども扱いしてくれるなと不服を零していたあるじも、気付けばそんな言葉すら口にせぬほど大きくなった。かれはいつの間にか誰に声をかけられずとも目覚めるようになっていたし、思わぬ時刻に思わぬ場所で眠りこけていることもなくなった。もはや容易く攫われるような自分ではないと、警護を分散させて忠勝の休息を優先させることも増えた。気がつくと忠勝があるじの寝顔を見る機会はとんとなくなり、それどころか、忠勝のたまの眠りを家康が覗き込むことの方が増えている。はたしていつごろからだったろう、と忠勝は考える。
忠勝の寝所は他の将たちとはまったく別な場所にあった。身体の大きな忠勝のために用意されたそこは部屋というよりは倉庫といったふうで、忠勝の扱う巨大な武具や装具を整備するべくさまざまな機材が所狭しとばかりに列をなしていた。その間を縫って何人もの技術者が並び立ち、家康となにやら言葉を交わしている。細やかなことは忠勝にはわからない。姿勢を変えずじっとし続けているうちに、家康が再び近づいてきた。かれはせーのとばかりに忠勝の膝に足をかけ、あっという間に肩にまで登って忠勝の背から伸びた数本の太い管を丁寧に外してゆく。忠勝自身、それがどういった仕様によって成されたものなのか理解していないが、それらに繋がれることでこの身の状態を正しく維持出来ていることはおそらく間違いなかった。家康は技術者たちとともに室内を何度か行ったり来たりして忠勝の調子を整える。まるで整備士のひとりのように無駄なく動き、しばらくしてようやく、ふう、となんとなく芝居がかったようすで息を吐いてみせた。
「どうだ、忠勝。どこかおかしなところはないか?」
忠勝は首を横に振る。そうか、と安堵したふうに家康が微笑む。「それは良かった。無理はするなよ? なにか気になることや、違和感があればすぐに知らせてくれ」
もっとも、ワシではまだまだ頼りないかもしれないが。そんなことを云いながら、家康は忠勝の肩のあたりをぽんと叩いた。忠勝は頷く。家康はやはり笑みを浮かべる。
「よし、では朝餉にしよう。行くぞ忠勝」
その言葉に導かれるように忠勝は立ち上がり、あるじの背を追う。たっぷりとした睡眠を得たあとの身はいつだって羽根のように軽いものだが、自身の気持ちの弾む理由がそれだけではないことを忠勝は自覚していた。
「どうした、なんだか機嫌が良さそうだな」
そう云う家康の声も負けず劣らずの上機嫌だ。忠勝はそれに気づきながら、しかし朝食の献立を予想する素振りだけを返した。定期点検の前日は食を絶つよう厳しく云われている為、もう気が遠くなりそうなほどに空腹なのだ。それを告げると家康は愉快そうに笑い声をあげ、けれど食べ過ぎは禁物だと云う。「腹の膨れすぎで上手く飛べないとなっては大変だからな」
忠勝はなるほどとそれに頷いた。ああ、それはたしかに大変だ、と思ったが、いざ目の前に食事が並べられた時には、そんな会話は忘れ去っていた。
充分に胃を満たした後、忠勝は家康や多くの家臣たちと共に庭へと出ていた。技術者の何人かが、忠勝の身に触れてから満足げに頷きあう。すぐそばで屈伸を繰り返していた家康がそれを受け、それじゃあ行こうか、と忠勝へ向き直った。大がかりな整備の直後には飛行性能の確認試験が行われる。余程のことがない限り、それには家康自らが同行する決まりとなっていた。
忠勝は心なしかいつもより気合を込めて地面を蹴った。安定した浮遊感に身を預け、そこから一気に離陸する。空の真ん中へ向けてまっすぐ飛び立ち、ゆるやかに旋回してから再び地上へと近づいてゆく。
素早く大地に並行するよう角度を切り替えると、同時に背中へ重みとぬくもりが加わった。危なげなようすなど一切なく、家康が背中に飛び乗ったことが分かる。忠勝は速度を緩めることなく再び宙空へと舞い上がり、鳥よりも雲よりもなめらかに飛行する。なにひとつの違和もない。もとより、たとえどんな些事であれ気に掛かるようなことがあればあるじを背に乗せて飛び立ちはしない。飛行試験とは名ばかりの、これは一種の確認のようなものであった。戦国最強のその技能を、みなが目の当たりにして安堵するための。
大地とともに遠ざかってゆく喝采を足元に聞きながら、ふたりは少しの間を無言ですごした。それはこの日の空が冗談のように澄んでいて、うっすらとした青色に僅かに黄緑を混ぜたような、なにやら神々しいまでの明るさでもって広がっていたためであり、忠勝には家康がはたしてどのような気持ちでこの晴天の中に佇んでいるかの想像がつかなかったためだ。背に乗るあるじの表情は忠勝には窺えない。忠勝自身は、この美しい景色をかれとふたりで分かち合えることに、素直な喜びを感じているのだけれど。
しばらくして、家康がふっと息を吐くのが聞こえた。かれはどこか間の抜けたような砕けた口調で、良い天気だなぁ、と呟いた。
「こんな色の空は、きっと地上からは見えないのだろうな」
それはおそらくそうだろう。忠勝の腹の下にはかすかに切れ切れになった雲が散らばっていて、ここが大地から遠く離れた空の上であることを明確にしている。自分で飛んでいても信じられない程の高さなのだ。
忠勝が同意を示すと、家康はフフと笑った。感情を控えるような静かな声音だ。忠勝はそれを聞き逃すまいと耳を澄ます。「すごいなぁ」と素直な感嘆を零す、あるじの声はなんだか妙に遠く思えるのだ。少なくとも、忠勝の頭の真横で大声を上げていた頃よりははるかに。
けれど家康の言葉はそれでも、誰よりまっすぐに忠勝へと届く。決して聞き逃しはしない。家康は胸の奥まで深く息を吸って、それから言った。
「こんなに美しい景色をお前とふたりで独占出来るなんて、これ以上に贅沢なことはないな」
少しはにかんだふうな声で告げられたその言葉に、忠勝は跳び上がらんばかりの勢いで頷き返した。それはまさしく、忠勝がつい先ほど感じていた気持ちと同じものだったからだ。忠勝がそれを伝えると、家康はどこか意地悪そうな声色で、本当かぁ? などと云う。本当だ。話を合わせたわけではないのだ。忠勝は心の底から、あるじとともに見るこの風景を大切に思ったのだ。
「はは、冗談だよ。分かっている。お前は嘘などつかないものな」
もちろん、当然のことだった。家康が自分をからかっていることを知りながら、しかし忠勝は心外だと不服げに声を上げてみせた。ただのお遊びだ。他愛ないやりとりは心地よく、忠勝の胸にやわらかな空気を送り込んでくれるし、そしてそれは家康にとっても同じことだろう。言葉を交わす限り彼はひどく楽しげに笑う。あの控えめな笑みはなりを潜めて、陽のように快活な明るさがそこには広がっている。
「なあ、忠勝。お前にはお見通しかもしれないが、ワシはこの時間が好きなんだ。お前とふたり、なんの目的もなくただ空を駆けていられるこの時間が。戦へ赴くわけでも、所用あって各地を巡るでもなく、まるでなにもないこの場所で、頭をからっぽにして、ただ澄んだ空気を吸っていられることが」
知っている。忠勝だけではない、きっと家康を愛する徳川の者たちすべてが気付いている。ふたりを見送ったあの喝采の多くが、忠勝ではなく家康にこそ向けられているのだ。戦国最強と共に奔放に駆け回るあるじの姿はどこか懐かしく、それが変わらずここにあることを確かめるため、結果の分かりきった飛行試験を毎回きっかりと執り行っている。
かつてのようにこの身にしがみつき、首や肩に手を回してくることはないけれど、しかしそれこそ忠勝には誇らしい。己の支えがなくとも両の足で立つことの出来る彼が、それであってもなお、こうやって自分とふたりで空をゆく時間を愛してくれていること、それらすべてを嬉しく思う。本当だ。けれど本当の本当には、実のところ忠勝は、もっともっと高い場所まで飛ぶことだって出来るのだ。家康が望むのならばきっと、星さえ掴めるほどの距離にまで昇ってみせることだろう。
けれど忠勝はそれをしない。理由は勿論、生身の家康をあんまり上空にまで連れていってなにかあっては大事だからだ。けれどそれはおそらく言い訳で、忠勝の心の内側には、(これは忠勝自身にもよく分からない、とてもぼんやりとした感情なのだが)この立派に成長したあるじをこれ以上遠い地へと導くことを、なんとはなしに憚る思いがあるようなのだった。地上から見えない空の中にいることは、それ自体がかれの姿を隠してしまう行為であるように感じられる。
けれど忠勝にはそれが良いことなのか、はたまた悪いことなのかの判別がつけられない。大地が霞むほどの高みで家康はひどく気の抜けた調子で笑うし、忠勝を意地悪くからかったり、ときに照れくさいほどの言葉で気持ちを伝え、背に腰を降ろして昔話に花を咲かせたりすることもあった。それらの時間を家康は好きだと言う。その日に限ってわざわざ整備士の真似事をし、自ら忠勝を起こしにやって来る。その事実が忠勝にとってはなにより喜ばしく、だから当然、悪いことであるはずはないのだけれど。
それに結局のところ、どれほど楽しくとも、半刻も経たぬうちに家康は言うのだ。
「さあて、そろそろ戻ろうか。忠勝」
忠勝はそれに従う。高度を下げると、空の景色は次第に山々を映して大地を見せつける。この日の本を、愛すべき三河の土を、民を、誰より高みから見渡しながら、家康は帰還する。
けれど忠勝は本当は、家康が望むのなら、もっともっと高くなにもないところへと彼を連れてゆくことだって出来るのだ。このひとの道を遮るものの一切が消え去った場所へ。その身に抱える苦悩や憂いのすべてが失われるような、或いは、それらを曝け出しても誰にも見咎められないような、そんな地へ。
家康の身体がひらりと離れた。彼の両足が大地を踏みしめるさまを見守ってから、忠勝もゆっくりと降下する。迎えに出てきた家臣たちに囲まれるあるじの姿を、すこし離れた場所から眺めやり、そうして思う。その日は決して来るべきではないと考える。それはとても寂しい景色なのだ。あの美しい空を飛び越えた先にだけ広がる、色あせた世界だ。彼には似合わない。
着陸してなお遠目に自分を見つめる忠勝に、気づいた家康が「どうした」と問う。「どこかおかしな点でもあるか、忠勝?」
僅かに不安を含んだ声音に、忠勝は慌てて首を横に振った。体調は良好である。かれが心を悩ますようなことはなにもない。それを伝えると、しかし家康はかすかに首を傾げつつ、ぽてぽてとこちらへ寄ってくる。忠勝の顔を覗き込むようにして見上げ、「うーん?」と声にして唸ってみせた。「少し元気がない、か? なにか悩みごとや、云いたいことがあるなら云ってくれよ? ワシでは話しにくいのなら、誰か親しいものでも……」
忠勝はいよいよ勢いよく首を振った。悩みごとなどとんでもないし、かれに話せないようなことなどいっそうありえない。半ばしどろもどろにそれを語ると、家康はやはり不思議そうにこちらを見つめていた。
忠勝はすこし考えて、それから云う。ただ、ほんのちょっと、寂しいと思っただけなのだ。あるじとふたりで自由に空を駆けるあの時間を、忠勝自身もなにより大切に思っていて、だからそれがあっという間に過ぎてしまうことが少し残念で、寂しいなと、そう感じてしまった。それだけのことなのだ。
「……」
家康はぽかんと忠勝の言葉を聞いていた。なにやら思いも寄らぬことを告げられたといったふうに、両目をまんまるにしてこちらを見上げている。その眼差しを受けるにつれて、忠勝は自身の頬が火照るのを感じていた。良い年をして、まるで子どものようなことを云ってしまった。ぷしゅう、と頭のてっぺんから蒸気が出る。忠勝の身が熱くなると、その熱を逃がすための機能が勝手に作動するのだ。これでは自分が恥じ入っていることなど、目の前のあるじには丸分かりに違いない。
見れば先ほどまで目を丸めていた家康はというと、いつの間にやらにんまりと笑みを浮かべている。忠勝はまたからかわれるものと観念したが、しかしかれの緩んだ口元から飛び出したのは、「よし、わかった」という思いがけない言葉だった。
「おおい、みんな。すまないが、ワシはもう少しだけ忠勝の飛行試験に付き合ってくる。夕刻には帰るから、各自仕事に戻っていてくれ」
告げるや否や、家康は忠勝の肩へと飛び乗った。ざわめく家臣たちへ一度だけ手を合わせることで謝罪を示し、そして云う。
「行くぞ忠勝、発進だ!」
ぶおん、と忠勝の身が震えた。その声に奮い立たされるように全身が軋みを上げて、大地を蹴ると浮き上がる身体はいつも以上に軽く感じられる。肩に乗りかかった家康を振りおとさぬよう片手で支えつつ、忠勝は凄まじい速度で青空へ向かって飛び立った。ひゅう、と耳元で歓声が聞こえる。「すっごいなぁ」と妙にはしゃいだその声は、空を切る轟音にかき消されることなくはっきりと忠勝の耳に届いた。
陸を離れ、雲を分けたその先には、青くなにもない世界が広がっている。
進むべき道も、越えるべき山も、なにひとつそこには存在しない。眼前に映るのは気が遠くなるほどの青色ばかりで、幾度となく包まれてきたこの景色にいまだ忠勝は驚嘆を覚える。戦国最強と呼ばれるこの身でさえ、ともすれば一瞬で飲まれてしまうような、そんな途方もなく巨大な存在を前にして心が震えないはずはなかった。
「ワシが幼かったころは」と、ついさっきとは打って変わった穏やかな声で家康が云った。「こんなに高いところまで連れてきてはくれなかったものな」
ふふっと笑いながら、かれは忠勝の頭の方へと僅かに身を寄せた。分かっている、と言外にかれは云う。幼い身では体幹が伴わず、自ら均衡が取れない者にとっての高所はただ危険なだけの場所だ。空に近づけば近づくほど風は増し、忠勝も自身の安定を保つことを優先させなければならなくなる。まだ小さなあるじを乗せて飛ぶには、この場所はあまりに高すぎた。
「少しずつ、少しずつ、空の高い場所へ近づくのがワシには嬉しかった。自分の成長をお前に認めて貰えているようでなぁ。足下に雲を見たときの感動といったらなかったよ」
照れくさいから、お前には黙っていたけれど。そんなふうに続けて、家康はそれから、深く息を吸い込んだ。
「……なあ、忠勝。ワシはお前があんなふうに、自分の気持ちを伝えてくれたことが嬉しくて仕方ない。お前は本当に無口な男だからな。すぐにワシに遠慮して、云いたいことも噤んでしまう。お前の強さはワシの、そして三河の誇りだが、それだけの力を惜しみなく振るってくれるお前に、あるじとしてワシがしてやれることはあまりに少ないと、常々そう思っている」
笑ってくれ忠勝、と家康は笑んだ。
「じつを云うとワシはな、お前が寂しがってくれれば良いのにと、そんなことを思っていた。いつか痺れを切らして、もっともっと遠くまでワシとともに行きたいと、そんなわがままを云い出してくれればどんなに嬉しいだろうかなんて、そんなふうに考えていたんだ。けれどなぁ、実際にはこの通り、寂しがっていたのはどうやらワシの方らしい。お前のたまの言葉に飛びついて、考えなしにこんなわがままを振るってしまった。まったく、ふがいない話だよな」
弱った顔で語る家康の少し照れくさそうな表情を窺いながら、忠勝はしばし沈黙した。すぐに遠慮をするとかれは云ったが、そうではなく、忠勝の口数が少ないのは単に伝えるすべを知らないためだ。この気持ちを表すための言葉を、語句を、探し出すことにひどく時間を要するためだ。そうやって手探りで迷っているうちに、するすると時間は流れてしまう。幸い、忠勝には力があった。誰にも劣らぬ強靭な肉体と、それを必要としてくれる多くのひとが周りにあった。なによりいつも側にいるあるじそのひとが、忠勝の分まで多くを喋るたちだった。
あえて語らずとも、家康は忠勝の心を理解してくれる。忠勝だけではない。家臣たちも、兵のことも民のことも、その大きな両の目で見つめ、心を掛けて接し、その支えになるためいつだって力を尽くしてきた。かれはそれを絆と呼んで、互いを平等に想いあってこそ築きあえるものと語るけれど、忠勝は知っていた。はじめにそれを差し出したのは家康だった。かれを慕う者たちが絆を紡ぎ、力を合わせて頑張ることが出来るのは、みなが同じくらい家康のことを好いているからで、それはやはり、かれ自身がいつも心を配り優しさを振りまいてきたために他ならない。
家康がにこにこと笑っていれば、みな満たされた気持ちになれた。安心して、その力をかれに委ねることが出来た。実際、かれの笑顔にはそういう不思議な能力があるように忠勝には思えた。寂しかったなどと、その口から聞く日が来るなんて思いもしなかった。
忠勝は口を開く。ゆっくりと、ゆっくりと、かれに向かって言葉を探す。なぜもっと早くに伝えなかったのだろうかと、ひどく急いた気持ちにもなったが、あんまり慌てるとまた子どものような文言が飛び出しかねないので、出来るだけ心を落ち着かせて喋った。「お前はのんびりしているわりに、一度慌てだすと周囲が見えなくなるからなあ」と、いつだったかかれに云われた言葉を心中で思い返していた。
この空の果て。
もっと、もっと、なにものにも届かないほど高い場所。
星にさえこの手が届くくらい、地上の誰にもあなたの姿を見つけられなくなるくらいに遙か、空にもっとも近いところまで。
ともに行ければよいのにと、そう願ったことが幾度もあった。あなたが望んでくれさえすればと、そんなふうに考えていた。それは自分のわがままで、許されるならずっとふたりで空を駆けていたいという、ただそれだけの子どもじみた願望で、だから口にすべきではないと、いつもそう思っていた。
忠勝はそういった気持ちを、出来るだけ丁寧に言葉にした。ゆっくりと紡がれるその声に、家康は黙って耳を傾けてくれている。まるで幼いころのように己の肩に腰掛けたままのかれが、はたしてどんな表情で自分の話を聞いているのか、とてもではないが忠勝には確認出来なかった。いつ例の冷却装置が作動して、ぷしゅう、と気の抜けた音を立てはしないかと、そればかりが気がかりだった。
ひとしきり喋り終えた忠勝に、家康はひとこと、そうか、と云って頷いた。それからかれはウーンと伸びをして、ひどく穏やかな調子で笑う。
「なあ、星が掴めるほどの距離というのは、少しばかり大げさにすぎやしないか?」
それはもちろん、ものの例えだ。そのくらいの気持ちでいるというだけだ。
「分かってはいるが、しかしなあ。忠勝、お前も案外と夢見がちというか、『ろまんちすと』というやつだな。ちょっとした口説き文句の域だろう、いまのは」
そうやって、すぐにからかおうとする。夢みたいな話であることくらい、自分でも理解しているのだ。だからこそ黙っていたのに。
「拗ねるなよ。お前が真剣に云っていることくらい分かっているさ。まったく本当に、真面目すぎるほど真面目なやつだ」
ワシにはもったいないくらいだよ、と家康はのんびりとした口調でそう云った。過ぎたるもの、と呼ばれ続けた忠勝にとって、それは聞き慣れたかれの口癖のようなものだった。
忠勝はそこでようやく、その視線を動かして、あるじの横顔をちらりと窺った。その穏やかな口調を裏切ることなく、かれはこれ以上ないほど緩んだようすで笑んでいる。ああ、とその幸福そうなくちびるからはしかし感嘆が漏れた。「聞かなければ良かったなぁ」と、家康は静かにそう云った。「お前の提案は魅力的すぎるよ、忠勝」
かれは僅かに首を傾げ、忠勝と目を合わせると困ったふうに微笑みかける。そうしてから、よっと軽い掛け声ひとつで唐突に身を捩り、座っていた肩からひょいと背中へ飛び移った。まるで当然のように身軽にやってのけるが、飛行中の忠勝にしてはたまったものではない。急に移動した重みに合わせ、大慌てで身体を安定させる。ぐらりと傾きかけた身体の上で、家康は「おっとっと」などと呑気な声をあげていた。
「あはは、すまない。ひと言断ってからにすれば良かったな。だがまあ、たとえ振り落とされたところで、これだけの高所だ。地面に激突するより先に、お前が拾い上げてくれるだろう」
忠勝は顔をしかめて叱咤したが、当の家康はどこ吹く風だ。困ったあるじだと、忠勝は大げさに嘆声を漏らしてみせた。もちろんかれの云う通り、飛行中に思わぬ事故が起きたとしても、決してその身を傷つけさせはしないけれど。
家康はくすくすと笑う。かれはもはや定位置となっている忠勝の背の上で、いつもの通りに二本の足ですっくと立っていた。その意味することを忠勝はとうに理解していたけれど、優しいあるじはきちんと言葉にしてそれを伝えてくれた。
「ここよりもさらに、もっともっと高い場所、か。想像もつかないが、お前と行くのならきっと悪くはないのだろうな。……ありがとう忠勝。そう云って貰えるだけで、ワシは充分しあわせだよ」
忠勝は静かに頷いた。わかっていたことだった。なにより忠勝自身が、かれにそれを望んでほしくはなかった。
たくさんの愛するひとたちに囲まれて、いつもにこにこと笑っている。そんな家康のことが忠勝は好きなのだ。遠い場所でふたりきりでは、きっとすぐに寂しくなってしまう。だから、それで構わないのだ。
忠勝がそれを伝えると、家康は少し言葉を詰まらせて、それから「今日は随分と甘やかすなぁ」と呟いた。なにやらひどく照れているようだった。
「けれどまあ、せっかく無理を云って飛び出してきたんだ。星を捕まえるのはともかくとして、もう少し遠くまで行くくらいは構わないだろう」
家康はそう云うが、本当に良いものなのだろうか。忠勝に内政のことは分からないが、こんなふうに目的もなくただのんびり過ごしていられるほど、かれに暇があるとは思えないのだけれど。
問いかけると、家康はどことなく渋い声色で「いやあ、良くはないかなぁ」などと返す。駄目ではないか、と忠勝が慌てると、今度は取り直したように「いや、大丈夫だ」と断言した。いったいどっちなのだ。困惑する忠勝に、かれはもう一度「大丈夫だ」と云う。
「今日だけ、大丈夫にするから。夕刻に戻るとみなにも云ってきただろう? それまではお前の飛行試験に同行するのがワシの仕事だ。それで良いんだ」
良いらしかった。
それならば忠勝は張り切って試運転を行うのみだ。それが家康の仕事だというのならなおさらである。せっかくだから少し遠くへ行こう、とかれは云った。忠勝が本気を出せば、日の本のどこからだって夕刻には三河へ戻れるだろう。
そうと決まれば話は早い。行き先を定めない空の道はどこまでも自由で限りなかった。せめて方角くらいは決めておくべきかとふたりで少し相談し合ったが、しかし結論が出るより先に家康の腹が鳴った。気付けば昼時が近かった。
「こんなふうでは、空の向こうなんて夢のまた夢だなあ」
そう云って家康は大笑いして、それから、つぎの機会には握り飯を持参しようと告げた。忠勝はそれに同意しながら、さらりと与えられた「つぎ」という言葉にこっそりと胸を弾ませていた。
* * *
ごうん、ごうん、と音が鳴る。その音色の正体を忠勝は知らないが、聞いているだけでひどくゆったりとした気持ちになれる。自身の血潮の流れる音のようでいて、はたまた母の唄声のようでもある。どちらにせよ福音を感じさせるものに違いなく、忠勝はいつもそれを聞きながら眠りに落ちる。
夜は深く、静かで、忠勝は自分が夢を見ているのか、あるいはただ閑寂とした闇の気配を感じ取っているだけなのか、その判別がつけられない。見るものが見れば寝惚けていると解釈するだろう。その曖昧なまどろみを忠勝が感じることは珍しかった。一拍置いてから、すぐそばにひとの気配があることに気がつく。
ぎしりと音を立てて忠勝は僅かに顔をあげた。暗闇の中、広大な寝床の出入口がかすかに開いているのが窺える。何者かが室内に忍び込んでいる。
殺意のようなものは感じ取れなかった。忠勝は冷静に周囲の様子を推し量り、そうしてから、姿勢を崩さないままで静かに視線を降ろした。足元を見やると、薄い布を一枚頭から被った状態で、家康がそこに丸まっていた。
忠勝は無論おどろいたが、慌てて立ち上がったり、驚嘆の声を上げたりはしなかった。座りこんだ忠勝の膝元に頭を預けて寄りかかり、かれはどうやら眠っているようだったので、その夢路を妨げるわけにはいかなかった。
忠勝は押し黙って、はたしてなにが起こっているのかを考える。
自身の内側から漏れ出るかすかな振動と、膝を抱えて蹲る家康の呼吸の音だけが静かに響いていた。忠勝はそれに耳を傾けて、そうしている間に再び意識がまどろんでゆくのを感じとる。侵入者の意図は量りかねるが、しかしそれを問い糺す必要はどこにもなかったので、忠勝は再びそっとまぶたを降ろした。当たり前のようにそばで眠るあるじのようすを考え、或いはこのような夜ははじめてのことではないのかもしれないとふいに思う。そして同時に、かれはこのことを誰にも知られたくないのだろう、と考えた。布地にくるまれて俯く家康の寝顔は窺えないが、忠勝はもうそのことに寂しさを覚えはしなかった。
ただ短い夜が流れてゆく。傍らの寝息に耳を澄ませながら忠勝は思う。この身に与えられた力をかれのために振るうことこそが己の道であると、忠勝はずっとそう信じてきたのだ。その決意は今も揺るぎはしないが、しかし、それだけではなにかが足りないのかもしれなかった。
空の果て。
なにものにも遮られることのない、はるか遠い世界。
そこへあえて行かずとも、忠勝に成せることは多くあるのだ。目を閉じて思う。ごうん、ごうん、とあの音が鼓膜を叩いている。ずっと昔から変わらない、忠勝の身を包む優しい音色だ。ここにいなければ聞くことの叶わない響き。家康や、かれの愛するひとびとが紡ぐ音なのだ、これは。
つぎに忠勝が目を覚ましたときには家康の姿は消えている。夜明けにほど近い、白みはじめたばかりの空がうっすらと視界を明るくしている。忠勝はふと昨夜のことを思い出し、あれは夢だったのかもしれないと考えた。はたしてどうだろう。この身の眠りはいつも嘘のように深く、夢というものが忠勝にはよく分からない。
ただぼんやりと、かれはもう起床しているだろうか、と思う。
とうに目を覚まして、この澄んだ朝の景色の中で鍛錬に励んでいるかもしれない。或いは、いまだ身を休めている最中であるのかもしれない。忠勝は思い立って身体を起こした。耳に慣れた甲冑の音が静寂に吸い込まれて消えてゆく。
一歩踏み出すと、そこに広がるのがかれと歩むための大地であることがよく分かる。
忠勝は寝床をあとにした。もしもかれがまだ眠っているのなら、昨夜のしかえしに驚かしてやるのも良いかもしれないと、そんな浮足立ったいたずら心を覚えていた。