無機質に光るレンズと目があった。
寝起きのぼんやりとした頭で、吹雪は無意識にぱちぱちと何度か瞬き、自分を見つめるそれがデジタルカメラであることを認識する。藤原の大事なカメラ。だからそれをこちらに向けて構えているのは、もちろん確認するまでもなく、持ち主である藤原優介その人だ。
カチリ、とシャッターが切られた。
最新型の高性能カメラは、ピピ、という小さな音だけを合図に、寝起きの吹雪の顔をデータとして記録する。
「…………」
「…………」
どうやらその撮影は故意でなく、タイミングを外した勢いでうっかり行われたものらしい。カメラを両手で構えたまま凝固している藤原は、その小さな機械の画面越しに吹雪と視線を合わせ、顔面蒼白となっていた。
ぴしりと音さえ聞こえそうな沈黙。
吹雪はその氷結のような空気が溶けだすより素早く身を起こし、ベッドサイドに突っ立ったままの藤原からカメラを奪い取った。
「なにこれ?」
「あ、わ、わわ!」
慌てて奪い返そうとしてくる藤原を、寝ぼけ眼のまま片手で制す。彼は青い顔のままで、わぁわぁとなにか言いながら吹雪の動きを止めようとしたが、しかしもう遅い。
カメラの小さなモニターには、つい先ほどの間抜け面をした自分自身が映っている。これはあまりにあんまりなので、とりあえず削除。ピっという軽やかな電子音で、先ほどの写真がこの世から永遠に失せたことを知り、藤原は「ああぁ……」と心底悲しそうな声を上げた。あんなでも、彼にとっては大事な一枚らしい。吹雪は苦笑した。
「実物のほうが何倍もかっこいいのに」
「そういう問題じゃないんだよ。っていうか吹雪、こら、返して」
「だーめ」
カメラを求めて伸びてくる手を、じゃれあうみたいに退ける。藤原は本気で焦っているみたいだけれど、そのせいで逆に動きが鈍く、吹雪にはあしらうのは簡単だった。
操作メニューをいじって過去のデータを表示させると、所有者の性格を映すようにこまめに整理されたフォルダがずらりと並んでいる。そのなかにひとつ、パスワードのかかったものを見つけると、吹雪はためらいなくキーを動かし自分の誕生日を入力した。写真データが展開する。
それら一枚一枚をスライドさせ確認しながら、吹雪は言った。
「……なにこれ?」
数十枚に及ぶそれらファイルに共通の名前をつけるのなら、まさに、『天上院吹雪セクシー寝顔コレクション』だ。
驚くよりさきに感心してしまうほど、それらの写真はさまざまな角度からバッチリ吹雪の寝顔を収めていた。
表示された日付は数日間隔。一枚だって同じ日に撮影されたものはなく、吹雪はなんとなく日めくりカレンダーを連想した。同じ人物の似たような寝顔だけを揃えているのに、一枚一枚がその日、その朝を思い出させるような豊かさを写しだしている。モデルが良いだけではこうはいかない。
先ほどまで青くなっていた藤原はいまではとうに真っ赤になっていて、吹雪からカメラを取り戻すことより距離を置くことを優先したらしい。ベッドから離れ、クローゼットにべったりと張り付くような姿勢で、「うう……」と言葉にならない声でうめいた。見つかってしまったいたずらに、どうにか言いわけをつけようとする子どもみたいだ。
そのさまがとてつもなくかわいらしかったので、吹雪はなにもかもがいっぺんにどうでも良くなってしまった。どうやら寝顔を勝手に撮られていたらしいけれど、べつにそう大騒ぎすることではない。いっしょに暮らすようになって約一年、吹雪の睡眠はかなり深いほうだったし、それはもう、いくらでもチャンスはあったことだろう。藤原の写真好きはいまにはじまったことではないし、吹雪だって撮られるのは嫌いじゃないのだ。
けれど藤原本人は、犯行現場を目撃された加害者のような心境にあるらしい。赤くなったり青くなったりを繰り返している彼は、いまにも後先考えず家を飛び出していってしまいそうで、吹雪はそれだけは避けなければなぁとぼんやり思う。
早起きの藤原はすでに部屋着に着替えているけれど、自分はまだ寝間着のままで、上半身にいたっては衣服を着てさえいない。室内は暖房が利いているから薄着だろうが半裸だろうが平気だが、外はまだ寒く、もし藤原がそのまま逃げ出してしまったらことである。
吹雪には着替える手間がかかるし、そのあいだにマンションを飛び出た藤原は寒気に震えることになってしまう。風邪をひいてしまうかもしれない。
仕方がないので吹雪はベッドサイドに腰掛け、幸い出入り口とは反対に位置するクローゼット側の壁に沿っている藤原に、「こっちにおいで」と言った。「来なかったら、きみの大好きな僕の写真が一枚ずつ消えてゆくよ?」
いかにも脅し言葉のようなそれは、もちろん彼には効果覿面だ。なにより思い出の所有を優先したがる藤原は、おそらくこのカメラのデータだってどこかにバックアップを取っているはずで、それにも関わらず彼はおとなしく吹雪の側へとにじりよってくるのだった。だいたい、吹雪がこの脅迫を実行する気など皆無だということも、彼にはわかっているはずだ。
本当はデータ云々よりも、僕の側に来る理由が欲しかっただけなんじゃないかな、と調子の良いことを吹雪は考える。
警戒心を解かない猫のようにゆっくりとこちらへ寄ってくる藤原を、吹雪は笑顔で迎え入れ、ベッドに腰掛けた自分の膝のあいだに後ろ向きで座らせた。背中から腕をまわしてホールドロック。これでともかく、彼が外に逃げ出して寒い思いをすることはない。
吹雪はその時点でおおむね満足し、執行を待つ囚人みたいに腕のなかで硬直している藤原の、そのガチガチの肩に顎を乗せて頬をすりよせたりする。まだ夢の世界から完全に帰還しきっていない頭は、正直もうカメラのことなどもうどうでもよく、このまま彼と二人でもう一度ベッドに倒れてごろごろと昼ごろまで眠りこけたい欲求でいっぱいだった。
「ねむいー……。いま何時?」
「は、八時すぎたとこ……」
「はやいなぁ。休みの日くらいもっとゆっくりすればいいのに」
生活リズムに関しては吹雪より藤原のほうがよっぽどデタラメなのだが、不規則な分応用が利くらしく、遅くに眠って早くに起きることも然程苦ではないようだった。吹雪はだめだ。夜更かしした分は、出来る限り取り戻したい。仕事があればそういうわけにもいかないが、今日は久しぶりの丸一日オフだ。前夜は夜更かしし放題、当日は眠り放題の日なのだった。
睡眠不足はお肌に悪いんだよぉ、と言いつつ頬ずりを続行すると、藤原は嫌がるふうではなく、けれどどこか及び腰で身じろぎする。ためらいがちに、吹雪、と窺うような声で名を呼んだ。「カメラ……」
「んー?」
「あの、ええと」
「んんー……」
「……ごめん」
なにに謝られたのかはよくわからないが、彼がそうしたいのなら聞き入れよう。吹雪は再び、んー、と返事だか寝言だかわからないような言葉を発し、それから、「べつに良いよ」と言った。とたんに、藤原が「えっ」と心底意外そうな声を上げる。「いいの?」
「んん、いや、そりゃあ僕以外の人の寝顔とかは、やめといたほうがいいと思うけど。犯罪っぽいし。僕もあんまり良い気しないし」
「ふ、吹雪以外は撮らないけど……」
「ならべつに良いんじゃない?」
言いながら、思いだしたようにカメラを弄る。藤原とふたりで見られるように両手で持ち、再び一枚一枚を確認するようスライドさせてゆく。やたらにアップだったり、逆に随分と引いていたり、ベッドだったりソファだったり、バラエティに富んだ自分自身の寝顔写真は、ふしぎと見ていて飽きなかった。隠し撮りであるのにも関わらず、むしろ、隠し撮りであるからこそ、ひどく自然で違和感がない。
僕ってこんなに良い顔で寝てるのか、と吹雪は自賛したくなる思いだった。これほどかわいい寝顔なら、そりゃあ藤原だって写真に収めたくなるよなぁ、などと思いひとり頷いたりもする。
「あ、撮るのはいいけど、でも人には見られないように気をつけてね」
どれだけ本人が納得の出来栄えであろうとも、盗撮には変わりないし、なにより寝顔ばかりというのは相当に変態くさい。見るからに情事後を思わせるものだって含まれているのだから、注意に注意を重ねて不足ということはないだろう。藤原は「わかってる」と硬い声で言ったけれど、現に吹雪にこうして見つかっているのだから、ガードが甘いとしか言いようがなかった。
「ていうか、なんで寝顔なの? いや、なんか、なんとなくわかるけど」
「え、わかる?」
「うん」
なんというか、我ながら実にしあわせそうなのだ。
「……吹雪はいつも、すごくしあわせそうな顔で寝るから」と、案の定藤原はそう言った。「だからなんか、勿体なくて。ずっと見てたいなーって思って、そしたらやっぱり、写真だよなぁって……」
それで気付いたらこんな量になってた。藤原はやはり申し訳なさそうに項垂れて、けれどもう先ほどみたいに身体を強張らせてはいなかった。
たしかに、ちょっとびっくりするほどの枚数が詰まっているのだ。家族でも恋人でも親友でもどういう関係でも、勝手に写真を撮られることを快く思わない人は大勢いるだろうし、ましてこう無防備な姿となれば、それを知ったときに怒ったり逆に引いたり、冷めたりする人だっているのだろう。藤原が青ざめたのはそういう事態を思ったからで、けれど結果的に吹雪はむしろ感心したし、本音を言えばいろいろと納得したのだ。
写真のなかで満足気に眠る自分自身を眺めながら、吹雪はふふと笑った。こんなふうにしあわせそうに眠れるのは、すぐそばに藤原がいるからだ。
「しあわせものめ」
写真に映った自分へ呟くと、藤原がふしぎそうにこちらを見やった。なにが、と問われるので、なんでもないよと返す。そのままゆっくりと画面の写真を切り替えていたら、けれど突然、日付が飛んだ。
あれ、と思う。いままで並んだ写真から比べて、随分と古いものがそこには映し出されていた。
制服姿の吹雪が、机に突っ伏して眠っている。
「……え、どうしたのこれ」
おそらく十六歳。いまでも充分に若い自信はあるものの、しかしそれでも比較できないほどの若さである。写真に映った幼いとも思えるような寝顔に、吹雪は心から驚いていた。肌のきめ細かさやら張りの良さにではない。このころの自分の写真が藤原の手元にあることに驚いたのだ。
「あっ」と藤原は、いかにもうっかりしていたといったふうな声を出した。彼自身も失念していたのだろう。ここにも入れてたっけ、と、どこか都合が悪そうな声で言った。ここにも、ということは、別の場所にも保存してあるということだが、彼の思い出のバックアップについて今さらとくに言及するつもりはない。
残っていたのか。
あの当時の藤原の撮った、アカデミアでの写真。
「全部失くしたって言ってなかったっけ……」
一連のダークネスの事件によって、彼の所有物はほぼすべて廃棄されたと聞いていた。驚く吹雪に、藤原は「ああ、うん。一応、そうなんだけど」とどこか他人事みたいな口ぶりで返す。「学校のコンピュータにデータだけ残っていたものが少しあったみたいで。俺が撮ったものだからって、卒業するまえに全部引きとらせてくれたんだ」
もごもごと言葉を詰めながら、居心地悪そうに話す。彼の言葉が途切れるのを待ってから、吹雪は手にしていたカメラをぽいと脇に置いた。空いた両手で藤原の身体を抱きしめて、それから、勢い任せにベッドに倒れ込んだ。
「うわっ」と藤原が腕のなかで声をあげた。反射的に起きあがろうとする彼を、いっそう力をこめてぎゅうと抱きしめる。しばらく慌てたふうに「え、なに、どうしたの」と繰り返していた藤原は、けれどしばらくして、諦めたみたいにひとつ息を吐いた。
耳元でその呼吸を感じながら、「よかった」と吹雪は言う。「よかった、残ってたんだ。よかったね、藤原」
彼は昔から写真が好きで、ことあるごとにカメラを構えて、そうしてクラスメイトたちのいろんな表情を収めていた。その全部が消えてしまったのでは、やはり寂しすぎると、吹雪はずっと思っていたのだ。どれだけ彼が仕方ないと言っても、それでもあのたくさんの思い出たちには、できることなら彼の帰還を祝ってあげてほしかった。
それが少しでも彼の手元に戻ってきたのなら、こんなに嬉しいことはない。
大げさなくらいに感動している吹雪に、藤原は動揺したようすでぎゅうぎゅうと抱きしめられながら、ちいさく「ごめん」と言った。
「べつに隠すつもりなんてなくて、ただ、伝える機会がなかっただけなんだけど」
こんなに喜ばれるとは思わなかった。
言いわけをするみたいにそんなことを言う。わかってるよ、と吹雪はくすくす笑った。「だって、あれも隠し撮りだしね。きみは昔っから、あんなふうに僕の寝顔を撮影するのが趣味だったのかい?」 だとしたらとんだ悪癖だ。あの頃から藤原とは親しくすごしていたけれど、今ほど近しい関係にはなかった。知らないうちに、いったいどれだけ彼はファインダー越しに吹雪のことを見ていたのだろう。
そう考えると自然と頬も緩むというもので、しかしそんなふうににこにこする吹雪に対し、藤原は「いや、あれは隠し撮りというか」と単調に返した。「吹雪が授業中に居眠りしたまま、いつまで経っても起きないから、みんなでいたずらでもしてやろうかって言って……」
そのときに、とりあえず一枚。
悪びれなくそう告げる藤原に、吹雪は押し黙った。実に平和そうな昼寝姿だと思っていたのに、フレームの外ではそんな企みがなされていようとは。
上機嫌だった吹雪があからさまに落胆するのを見て、藤原はふと笑ってみせた。
「居眠りしてるとこ撮って、あとでからかってやろうって、そういういじわるのつもりだったんだけどね。でもいざカメラを向けてみたら、もうとんでもなく良い顔で眠ってるから、みんなやる気そがれちゃって」
丸藤なんて油性マジックまで用意してたのに。
そう付け足し、藤原はその情景を懐かしむようにくすりと笑ったが、吹雪には少し笑えなかった。丸藤亮は間違っても冗談に長けた人間ではないので、おそらくその時の自分はよほど彼の機嫌を損ねるようなことをやらかしていたのだろう。残念ながら覚えがありすぎて特定できない。
「で、その結果、記念すべき藤原撮影による僕の寝顔コレクション第一号目が誕生したわけだ」
「……まぁ、そうなるかな」
わざと嫌味っぽい言い方を選んでやると、藤原はふたたび居心地悪そうにぼそりと答えた。吹雪がどう言ったところで、やはり後ろめたい気持ちがあるのだろう。それでも、バレてしまったものは仕方ない。
当分はこの話題でからかわせてもらおう。慌て恥じ入る藤原はかわいらしく、けれどどれだけ自省の念を見せたところで、彼は決して問題のコレクションを手放すことはしないだろう。その頑なさを考えると、吹雪の頬は自然とほころぶのだった。
ゆるやかに目を細めながら、吹雪は、よし、とひとつ頷いた。ベッドからゆっくり身体を起こす。
「遊びに行こうか、藤原」
のんびりそう告げると、藤原はぱちりと目を丸め、何度か瞬いたかと思うと「べつにいいけど」と控えめに返した。「どうしたの、急に? まだ眠いって言っていたくせに」
「眠いのはそうだけどね」とはいえ目覚めてから数分、眠気などもうほとんど飛んでいってしまったけれど。「けど、僕の寝顔ばかり増やしたってしようがないだろう? さっきも言ったけど、実物の方が何倍もかっこいいんだからさ」
「……そういう問題じゃないんだけど」と、藤原も先ほどと同じことを言う。けれど、彼は続けて、まぁいいか、と息を吐いた。
吹雪はそれを見て少し笑って、それから、手早く着替えて朝食を食べようと決める。どこへ行こうかと考える。
「ああ、そうだ。出かけるのは午後からで良いからさ、藤原」
「ん?」
「朝ごはん食べたら、写真見せてよ。アカデミアにいたころの」
本当なら戻ってこなかったかもしれない思い出。藤原が捨てきれずこの世界に残して、彼の帰還を静かに待っていた写真たち。
吹雪の要求に、藤原は少しばかり間が悪そうな顔をして、んん、と悩む素振りを見せた。それは良いけど、と呟く。
「どうしたの?」
「いや、ううん、……吹雪が自分の写真のこと大好きで良かったなぁと思って」
言って、藤原は弱ったような顔で苦笑した。その言葉の意味を探り黙ってから、吹雪は「ああ」と得心する。なるほど、彼の秘蔵ファイルの中には、吹雪自身に覚えのない写真が、まだまだ眠っているらしい。
たのしみだなと吹雪が言うと、藤原はまた、うう、と小さく唸ってから、「お手柔らかに」とつぶやいた。
ホリデイ
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