爪を切り損ねた。
なにもかもがどうでもよくなった。
左手の中指の先に歪な角度で食いこんだ爪切りをじっと見つめ、嘆息し、藤原は右手をはなした。思ったより派手な音を立てて、ちいさな刃物は机の上に落下する。こんなに短くひ弱な刃が二枚くっついただけの道具に、どうして自分の指が傷つけられなくてはならないのか。じわりと滲んだ血をなめとるために指先を口に含むと、中途半端に破れた爪がちくりと舌を刺した。とげみたいに。
ああ、もう、ほんとうにいやになる。
うまくいかない、気分の落ち込むような物事というのはいつも通り雨みたいに突然で、こんなちっぽけな痛みにさえ泣きたくなる自分に嫌気がさす。口内で自身の失敗を主張するとげを舌先で探り、歯で噛み切って、ペイと吐き出してゴミ箱に捨てた。切りそろえたばかりの右手の爪と、左手の親指と人差し指のそれぞれ。皮膚の方へと食いこんで赤くなった中指。とちゅうで放り出された、薬指と小指。
中途半端だ。机の上に放置された爪切りもぜんぶ、中途半端だ。
のそのそとベッドにあがりこんで、そのまま寝た。枕に顔をおしつけて「もういやだ」と何度か言ってみたけれど、中指はじんわりと、中途半端に痛いままだった。
最初に気付いたのは吹雪だ。彼は朝食を食べる藤原の横に座って、朝のあいさつやら他愛のない会話やらを繰り広げながら、唐突に「あれ、爪」と言った。「どうしたの?」
失敗した、と簡潔に答えると、吹雪は「それは見ればわかるよ」と返す。
「なんで二本だけ伸びたままにしてるの? おしゃれ?」
「まさか。なんとなく、切り損なっただけだよ。あとでちゃんとする」
ふうん、と吹雪は軽く相槌を打ってから、それ痛くない? とか、絆創膏もらってこようか? といった言葉をかけてくる。藤原は苦笑した。そう大したことのない傷だし、もちろん血なんてとっくにとまっているのに、そんなふうに心配されるとは思わなかった。そもそも吹雪がこれに気付いたこと自体がおどろきだ。普通はそう、他人の指先なんて見てはいないだろう。
言うと彼は、ふふ、とどこか自慢げに笑んでみせた。
「目配り気配りのきく男と呼んでほしいね。愛の伝道師を名乗る以上、細心の心遣いと他者への献身は常時必須のアビリティさ」
「……よくわからないけど。うん、たしかに吹雪はそういう細かいとこよく見てる気がする」
「だろう? 亮じゃこうはいかないよ」
後半だけ少し声を潜ませ、吹雪は言った。いたずらを企てる小さな子どもみたいな表情で、くすくすと嫌味なく笑う。「あんなにも真面目で器用でなんでもできるくせに、いまひとつ人のこと見てないんだから。カイザーの名の通り、玉座から全部見おろしてなにもかも把握してるのに、関心のぜんぶカードに注ぎ込んじゃってるのは考えものだよねぇ」
ゆったりとした口調で言うその声はやわらかく、文面だけを見れば批判とも取れるような言葉にもはっきりとした親しみを添える。吹雪は屈託なく、「もうほんの少しで良いから、他人にも興味を持ってほしいものだよ」と苦笑した。
同意を求めることをしないその言葉に、藤原は居心地の良さを感じて自然と笑んだ。問題の亮本人はというと、のろのろと朝食を楽しむ吹雪と藤原を置いて、とっくに校舎のほうへと移動してしまっていたものだからよけいに。
「気付かないだろうなぁ」
藤原の左手を見てほほえみ、吹雪は言った。
ぜったいに気付かないだろうな、と、藤原も思った。
午前の授業を終えて昼食を終えて午後の授業を終えて寮へと戻る。そのほとんどの過程を、藤原は亮と吹雪とともに過ごしたけれど、結局吹雪の言うとおり、皇帝がその御座からたかだか爪のひとつを見つけることはないらしかった。藤原だってそんなことを気にしてはいない。たぶん、言い出した吹雪もそうだろう。指先の傷はちいさく下らないものだ。
すでに痛みも痒みも、違和感すらも残っていない。ただ時折ノートやカードにひっかかるのが煩わしく、藤原はたびたび顔をしかめた。絆創膏をもらってこようか、と吹雪が言ったのを思い出し、傷のためでなく防護として張りつけておけばよかったと何度か思った。
けれどもう一日は終わる。学生である自分たちにとって、放課後はその日の終了を意味していた。娯楽施設もなにもない島のうえでは寄り道するという選択肢もなく、ただ自然に寮へと戻り自分の部屋に入る。藤原は息をついた。この空間にさえ戻って来られれば、たかが指先の怪我ひとつを護る必要はないように思えた。
嫌に広いベッドに腰掛ける。こんな大きな寝台にひとりきりでは、寂しさを増長させるだけではないかといつも思う。藤原はふたたび嘆息した。けれど、今日はだいじょうぶだ。昨日のように、やたらに投げやりな気持ちにはなっていない。今日はとても楽しかったのだ。
朝起きてからずっと見てきたこと、交わした会話、授業で得た知識。そのすべてが充実していた。藤原はそれらひとつひとつをゆっくりと思い出し、反芻し、噛みしめ、どうか記憶の隅々にまで届けばいいと思う。この楽しかった一日が、決して失せることなく全身に染み渡ればいいと思う。
藤原は呼吸をして、落ち着いた気持ちでベッドから立ち上がろうとした。とたん、左手の爪がシーツに引っかかる。かすかな痛みを覚えて、藤原は顔を歪めた。せっかくの充足感がたやすく萎む。
勉強でもしよう、と藤原は考えた。勉学は余計なことを考えなくさせてくれるから好きだ。集中さえしてしまえば、少なくとも就寝時刻まで間が持つ。授業が終わって寮へ戻って、眠るまでのあいだ、他の生徒たちはなにをしているのだろうと藤原は常々疑問だった。友人とデュエルする者、歓談する者、教師に呼び止められなにかを手伝わされる者、テレビを見る者、ひたすらに眠る者、いろいろといるのだろう。そのどれを選択するのも、藤原にはなにか遠い世界の出来ごとのように思えた。
行動を起こして、失敗することが怖かった。
失敗したあと、中途半端に放りだすであろう自分を思うと、いっそう億劫だった。
残されたままの爪を見る。左手の薬指と小指を、たぶん自分は当分放置する。また切り損なうのが怖いからだ。中途半端であることより、失敗することのほうが嫌だからだ。
勉強をしよう、と藤原は思う。こんな些細な恐怖心、どうせだれにも見咎められない。それなら、確実に良い結果をもたらしてくれる勉学に励む方がいくらか効率が良い。
そう思い、授業で用いたノートを取り出し、それからふと気付いた。
自分のものではないノートが一冊混じっている。見覚えがないわけではない。これは丸藤亮の持ち物だ。
どうして自分の荷物の中に入り込んでしまったのかはわからない。けれど、藤原はともかく、とくに迷うようなこともなくそれを手にして部屋を出た。特待生寮は広い。とはいえ、亮の部屋までそういくらもかかるわけではない。すたすたと歩みを進め、その扉の前までくると、藤原はコンコンとノックした。
「丸藤、いる?」
返事の代わりにロックが外れる。制服姿のまま室内にいた亮は、藤原の姿を確認し、いつもと変わらない声音で「どうした?」と言った。
亮の声はふしぎだ。「どうした?」と問うただそれだけの意味しか持たないものでさえ、真実彼が訊ねたくてそうしているわけではないように、藤原にはときおり感じられる。ここは彼の部屋なのに、毎日寝起きをする彼のための空間なのに、そこにあってなお丸藤亮という人は、教室にいるときとまったく変わらない調子で言葉を放つのだ。
カイザーはプライベートでさえカイザーのままだ。それを思うと藤原は少しだけ戸惑い、けれどそれより先に安堵する。丸藤亮はどこにいても、どこまでも、素の顔で丸藤亮のままなのだろうと、そう思う。
「これ」と藤原は用件そのものであるノートを彼に差し出した。「俺のところに混ざり込んでた。丸藤のだろう?」
亮は問いかけに軽く瞠目し、それから「ああ」とひとつ頷いた。どうやら自分の持ち物からこれが失せていることにも、彼はまだ気付いていなかったらしい。驚いたというよりは、釈然としないような面持ちで、亮は藤原からノートを受け取ると「悪いな」と言った。「手間をかけた」
その言い回しがなんとなくおもしろく、藤原は少し笑った。自分が気付かず鞄に入れてしまったのかもしれないし、彼が誤って藤原の持ち物と混ぜてしまったのかもしれない。ともかく原因がわからない限り、ここまで届けた労力に対してのみ言葉をかけるのが適当だと、そう判断したのだろう。さほどのことはないのだが、亮からそう言われると、なんとなく相応の労いをかけられたように感じた。
どういたしまして、と藤原は軽く返す。それ以上なにか伝えることは思い浮かばないし、向こうからもとくに会話をしようという気はないようだった。ここで世間話にでも花を咲かせられれば、と思わないでもなかったが、しかし話題がないのなら仕方ない。無理に応酬を切り開くような熱意も勇気もなく、藤原はあっさりと退室を決め、「それじゃ」と亮に背を向けた。
「ああ」と返した彼の声が、けれど、首肯のためのものでなく、自分を呼びとめるためのものだということには、すぐに気付いた。
藤原がそのまま歩き出す予定だった足を止めるのと同時に、亮は「すこし待て」とそう言ったのだ。振り返ると、彼は藤原のほうを見ておらず、なぜか机の引き出しを開けて中を覗きこんでいた。
「――見つけた」
そう言って、なにか小さなものを取り出し、こちらに差し出す。
絆創膏だった。
「指」と、少し呆れたような顔をして、亮は言った。「中途半端なことをするな、みっともない」
受け取った絆創膏を片手にのろのろと部屋まで戻り、藤原はぼすりと音を立ててベッドに腰掛けた。
だだっ広いマットは柔らかく、座った反動で身体が浮きまた沈む。藤原はぼんやりと手にした絆創膏を眺めながら、気付いていたのか、と考えた。
率直に意外だった。「気付かないだろうなぁ」と吹雪が言い、「ぜったいに気付かないだろうな」と藤原もたしかに思ったのだ。それはもし状況が整ってさえいれば、なにかを賭けても構わないと思えるほどの確信だった。丸藤亮は気付かない。自分の小さな失敗は、玉座から見つけるにはあまりに遠い。
「……でも、気付いてた」
口に出して言ってみると、それは本当に思いがけないことで、藤原は現実感を見失ってさえいた。絆創膏を手にしたままベッドから立ち上がり、はたして自分はなにをするつもりだったのか、と考え、そうして机の上に広げた勉強道具を見つける。そうだ、今日の復習をするつもりだったのだ。
教科書を開きノートを開き、文字列を追って、さらに書きこむ。勉学は余計なことを考えなくさせてくれるから好きだ。
藤原は黙々と机に向かう。握りしめたペンを滑らせるように走らせ、教科書に記された文字列を目で追いつづける。頭の中が音も立てずに回転しているような気がする。
けれどしばらくそうしているうちに、机の脇に置いた絆創膏がちらちらと視界に入りこんでくるのに気がついた。それは意識すればするほど強く主張を放ち、頭の回転する速度をじわじわとゆるやかにしてゆく。
――丸藤亮は気付いていた。それも多分、それなりに早い段階で。
改めてそう考えると、突然にいてもたってもいられなくなり、藤原はガタリと勢いよく立ちあがった。
「吹雪、吹雪、吹雪、吹雪!」
駆け足で飛び込んだ先の部屋で、藤原は舌をもつれさせんばかりに友人の名を呼んだ。「吹雪、吹雪、どうしよう!」
その興奮した様子に、出迎えてくれた部屋の主はぎょっとしたようすを隠すことなく「なに、なに、どうしたの?」と慌てふためいた。これは尋常ではないぞ、というふうに、普段の彼からは想像もつかないほど神妙な顔つきで「ともかく、落ち着いて。こっち来て座りなよ。お茶飲む? 平気?」と甲斐甲斐しく世話まで焼いてくれる。持つべきものは人柄の良い友人であると、藤原は心の底からそう思った。そわそわと酷く落ち着きのなかった気分が、少しずつ平静を取り戻してゆくのがわかる。
ともかく、ふう、と息を吐くと、随分と落ち着いたような気がした。心配そうにこちらを見やる吹雪に、「ごめん」とちいさく告げる。
「いいよ」と彼は人好きのする笑顔を返した。「珍しいね、藤原がそんなふうにパニック起こすなんて。なにかあった?」
藤原はこくりと頷き、それから、片手に持ったままの絆創膏を吹雪の目前に晒した。
「丸藤が……」
「亮が?」
「……気付いてた」
ん? と吹雪が首をかしげた。藤原はもう一度深呼吸し、それから、先ほど起きたものごとを、できるかぎり詳細に吹雪へと伝えた。
ぜったいに気付かないと思っていたのに、亮があっさりと藤原の怪我を指摘したこと。あまつさえ絆創膏まで差し出してくれたこと。みっともないと、当然のように叱られたこと。
それら全部を、吹雪はふむふむと相槌を挟みながら丁寧に聞き、そうして藤原が言葉を尽くし終えたあとに、彼はひとつ息を吐いた。さも難解な数式に挑まんとする大学教授のような、深刻な顔つきだった。
吹雪はその真面目きった表情のままでじいと藤原の顔を凝視し、それからその手を見つめ、そこに握られたちいさな絆創膏へと視線をやる。そうやって思案するように眉を寄せていたかと思うと、唐突にキッと顔を上げた。
「ずるい!」
はっきりとそう叫ぶなり、瞠目する藤原をひとり放り出して、彼は部屋を飛び出したのだった。
常日頃から突飛なキャラクターでその名を馳せる友人の、いつもどおりに突拍子のない言動に、藤原は呆然とその後ろ姿を眺めていた。白い制服はあっという間に扉を越えて、廊下の向こうへ消えてゆく。あまりの唐突さにぽかんとそれを見送ってしまった藤原は、すぐにはたりと我を取り戻し、慌てて吹雪のあとを追う。
はたして、当然のように、天上院吹雪は丸藤亮の部屋にいた。
ロックの解かれた扉を叩くこともせずに踏み込んだ藤原は、やはりここだったか、と考えるよりも先にまず、亮のことを不憫に思った。
「ずるい! ずるいよ亮! そうやって藤原ばっかり贔屓してさ!」
なんだか意味のわからない言い回しで、吹雪は亮にまとわりついている。迷惑さをまったく隠さない露骨な表情と声音で、「わけのわからんことを言うな」と亮は返すが、しかしそんなあからさまな態度にも怯むことなく、吹雪は「だってさぁ!」と抗議するような、拗ねるような声を張り上げた。
「このあいだ僕が前髪を切りすぎたときなんて、ちらっとも気付いてくれなかったじゃないか!」
気付くも気付かないも、朝方に顔を合わせて開口一番「見てよこれ!」とほんの少し短くなった前髪をつまんで報告してきたのは吹雪本人だ。藤原もその場にいた。そう大した変化ではないのになぁと、亮とふたり適当に聞き流したはずだ。
「知らん」亮はぴしゃりと返すと、ちらりとこちらを見やった。睨めつけたと言って差し支えない類の視線だった。「藤原、お前こいつになにか言っただろう」
その声音があまりに恨めし気だったので、藤原は慌てて彼から目を逸らした。「うん、ごめん……」
返す言葉にかすかに笑いが含まれるのを見てとったか、亮はいっそう不服であるというふうに眉根を寄せ、いまだぶーぶーと声高に不平を訴える吹雪を片手で払った。まるでしつけのなっていない犬を追い払うような仕種である。
「藤原ばっかりずるいよ! 僕がシャンプー変えても絶対気付かないくせに!」
「……お前は本気でそれを俺に気付いてほしいのか?」
心底呆れたようすで問う亮に、吹雪は「もののたとえだよ」とあっさり否定し、あーあ、とこれ見よがしに嘆息してみせた。二人ともずるい、と彼は言う。
「え、俺も?」
「藤原もだよ。僕がなに言っても別にどうってことないって顔してたくせにさぁ、亮にちょっと甘やかされたからって嬉々として報告しに来るんだもん。びっくりしたよ、もう」
なんとも誤解を招きそうな証言に、亮が怪訝そうにこちらを見てくる。藤原はぶんぶんと首を横に振った。そこまで言われなくてはならないほど嬉しそうにはしていなかったはずだ。たぶん。ただ、あまりの事態にちょっと混乱していただけで。
少しばかり後ろめたいようすを隠せない藤原に、亮はその視線だけで「なにもかも全部理解しました」というような表情を浮かべた。本当のところはどうだかわからないが、少なくとも藤原にはそう見えた。「どうせお前たちふたりで、俺がどれほど他人の様子を把握できていないかの話題で盛り上がっていたのだろう」と言われているような気分だ。罪悪感と呼べるほど重い気持ちにはならなかったけれど。
対する亮は面倒そうに、けれどどことなく愉快そうにも聞こえる声で「なるほど」と言う。いつもどおりの皇帝然とした顔つきのままで、先ほど藤原に絆創膏を渡したときのように机の中を漁った。
「ほら」と、吹雪になにか投げてよこす。
銀色に輝く小さなそれを、吹雪は器用に片手でキャッチして、ふしぎそうな顔をした。「なに?」
「お前がなにをそんなに拗れているのか知らないが、要は自分が暇をしているあいだに、俺が藤原を構っていたのが気にくわないんだろう?」
なんとも直球な表現に、吹雪は一瞬閉口し、少し首を傾げ、「そうかな」と言った。自分でもよくわからないけれど、亮が言うのならそういうことなのかな、というふうな顔つきだった。いい加減なものだと藤原は思う。
そんな吹雪に対し、だったら仕事をやろう、と亮は言った。「そこのバカのみっともない左手をなんとかしてやれ」
彼の言った『そこのバカ』がいったい誰を指すのか、藤原には一瞬理解できなかった。自慢ではないが、今まで自分は天童である才児である秀才である天才であると褒めそやされる機会ばかりで、間違っても『バカ』などと蔑称を受けるような立場にいたことがない。
けれど亮の視線はこちらに向かっていて、吹雪も藤原のほうを見つめている。
「それで平等だ」
「平等とはちょっと思えないけど、んん、まぁ、いいか。僕も気になってたし」
「……え、え、なに?」
どことなく不穏に交わされる会話に、藤原は狼狽して友人二人の顔を交互に見た。亮はそれを受けながら、いつもの通りに落ち着いた表情を浮かべ、吹雪はというと「まぁいいか」と言ったわりには充分にやる気にあふれた顔つきをしていた。
薄い刃が二枚ならんだだけの、ちいさな刃物。
飾り気もなにもないシンプルな銀色の爪切りを片手に、吹雪はふふんと自信ありげに笑んだ。「任せといて」と言う。
「僕、こういうのめちゃくちゃ得意なんだ」
藤原の爪はぴかぴかになった。
別段特殊な機能もない、極々ありふれた爪切りを用いて、どうしてここまで綺麗に仕上げることができるのか。目の前で見ていても藤原にはさっぱりわからなかった。パチリパチリと音を立てて、伸ばしっぱなしにしていた左手の薬指と小指が切り揃えられて、さらに既に短くしていたはずの他の爪も慣れた手つきで磨きあげられる。
最初こそ抵抗したものの、いいからいいから任せときなよ、とあっという間に言い含められ、手品みたいに流れる作業をぼんやりと見ているうちに「ハイ完成」と吹雪の弾んだ声が聞こえたのだった。
「すごい……」
彼が女子生徒に人気があるわけだと、藤原はいたく納得し、感心した。そういえば、吹雪自身の指先も常にきれいにされている。言うと彼は、「きみが大雑把すぎるだけだよ」と苦笑した。「大方、使い古した爪切りでバッチンバッチン切ってるんでしょ」
その通りだ。
なんとなく気分が滅入ったとき、藤原は投げやりな気持ちで爪を切る。自分を傷つけずに削ぎ落とすことのできる部位が、人間には毛髪と爪の二か所用意されているのだ。
だいたい、男が爪をきれいにしていてなにが楽しいのか。言いわけするようにそう言った藤原に、吹雪は「だめだよ」と真顔で注意する。亮も、と、ひとり教材を捲っていた部屋の主を振り返って言った。「指先爪先にはデュエリストの輝きが宿るんだから」
どこまで本気かわからないようなそんな発言も、しかし吹雪が口にすると妙な説得力を感じる。なんとなく気押された藤原がこくりと頷くと、彼は満足げに笑んでみせるのだった。
「よし、じゃあ次は亮の番ね!」
「……」
言われた意味がわからないといった顔つきで亮が固まった。なんで俺まで、と言う彼に、吹雪は当然だろうと返す。「真の平等を求めるのなら、きみだけ仲間外れにするわけにいかないじゃないか」
亮はまったく理解できないという表情で吹雪を凝視し、ついで、藤原に視線を寄こした。助けを求められているように感じたけれど、藤原は気付かないふりをして自分の両手の先を見ていた。
吹雪のおかげで少しだけ見栄えのよくなった、切り損なった中指の爪。そこに亮からもらった絆創膏をぺたりと貼りつける。なんだかとても気分が良かった。
藤原は上機嫌で笑顔を浮かべ、じりじりと攻防を開始した吹雪と亮をながめる。とくにやることはなかったし、ここにいてもどちらの手助けにもなれないけれど、「それじゃあ」と言ってこの場を去る気には欠片もならなかった。
たぶん、じきに亮のほうが諦めて、吹雪に両手を任せるだろう。
藤原はのんびりとした気持ちでそれを待つ。吹雪が満足しおえたら、ふたりに改めてお礼を言おうと思った。指先の怪我は、こんなにも簡単に修正できる、本当にちっぽけで下らない失敗でしかなかったのだ。