きのうのきずと帰り道

 差し出された黄色いヘルメットには見慣れたALIVEのロゴマークがどんと描かれていて、久森は思わず「なんですかこれ」と言った。
「なにって、見りゃ分かんだろ」と、返す矢後はいつも通りの気怠さを隠さない。「ヘルメットだよ」
 それはそうだ。たしかに、間違いなくヘルメットである。久森はしぶしぶというふうに矢後からそれを受け取って、嫌々ながら頭に被った。仕方がない。ヘルメットとはこのように着用すべきものである。
 放課後の校門前は、パトロールの日に矢後と落ちあう待ち合わせ場所だ。門扉を出てすぐの場所で待機していると目立つので、久森はいつもそこから少し逸れた、できるだけ遮蔽物の多いポジションを確保して矢後の到着を待つようにしている。今日だって、人知れずそっと合流して、そっと出発するつもりだったのだ。思いがけないカラーリングの装備が登場したことで、その要望は泡と消えたが。
 ALIVE特製ヘルメットは久森の頭にしっかりとフィットし、なにがあっても所有者の大事な頭部を守ります! と言わんばかりに輝いている。色味が完全に工事現場のそれなのは、風雲児高校の戦闘服カラーである山吹色をベースに採用したせいだろう。矢後はぼんやりとした顔つきのままで久森を見やり、それから、小さく「はは」と笑って言った。
「だっさ」
「…………」
 矢後さんは被らないんですか、と言いたい気持ちを、久森はぐっと堪えた。問いかける意味のない質問だ。当然、被らないに決まっている。
 代わりに矢後はべつのヘルメットを取り出して、自然な手つきでそれを着用した。私物なのだろう。なにやら派手な模様が描かれていて異様に目立つが、たしかに、久森のメット姿とは比べものにならないほど洒落ていた。月とスッポン、提灯に釣り鐘、喧嘩の強いヤンキーとやむをえず道路工事のバイトに応募したものの初日ですでに後悔しはじめている非力な男子学生、といった風情だ。鼻で笑われるのもやむなしである。
 あまりにずば抜けた己のダサさに、久森は内心、矢後と並ぶことに少しばかり怯んだが、
「じゃ、行くか」
 そう告げる矢後の眼差しからは、からかいの気配などまったく滲んでいなかった。そもそも先ほどの「だっさ」だって、久森をバカにする意図など微塵もないのだ。ただ単純に、「ダサいなぁ」と思ったからそう口にしただけのことである。
「なに、なんかあんの?」
「あ、いえ、なんでもありません」久森は丸まりかけていた背中を意識して伸ばし、ひょこひょこと歩み出た。ギプスで覆われた右足を庇いつつ、試行錯誤のすえ、矢後の跨ったバイクの後部へと腰かける。機体はどっしりとして、不慣れな久森が座り心地をたしかめながらもぞもぞとしても、まったく揺らぐようすはなかった。
 自転車のふたり乗りすらしたことがないのに、まさか不良のバイクの後部に座る日が来ようとは……。
 心中でぼやきつつも、久森は思いのほか平静であった。指揮官から話を聞かされたときには、もっと暗澹たる気分になるものと思っていたが、『ぼくたちはALIVEの手の者です!』と大声で主張し続ける残念なヘルメットの存在が、諦めの境地に至るのを早めたらしい。久森はひとつ息を吐いて、それから言った。
「えーっと、それじゃあ行きましょうか。安全運転でお願いしますね、矢後さん」

 さて、流れてゆく街並みを眺めながら、もしもこれが漫画であれば、と久森は想像する。きっと非常にシンプルな見出しで、この状況の説明が可能であろう。
『前回までのあらすじ・久森が足の骨を折った』
 以上である。骨折にいたるまでの経緯は、さして重要ではないので割愛する。イーターのような巨大生物と戦っていれば、そりゃあ骨くらい折る日もあるというものだ。
 もっとも、命に別状はないなりに、それなりの大けがではあったのだ。地球の恒常性をもってしても完治にはまだ遠く、久森の右足はいまなお不自由なまま、松葉杖を用いてようやくえっちらおっちら歩行ができる程度の状態だ。しばらく療養に努めたいのは山々だが、悲しいかな、久森晃人はヒーローである。それも、都内にたった十数名しかない認可校のヒーローの内の、貴重な貴重な一名なのだ。
 足を引きずってでも動けるようになればすぐに退院、退院したのならもちろん、通常任務の再開である。向かうところ敵なしの政府公認ブラック組織に、「まだろくに歩けないので休ませてください」などという妄言は通用しない。未来ある若者の肉体を酷使するのに抵抗がないのであれば、認可校を増やすとか都外からも人材を募るとかしてもっと人手を確保すれば良いのではなかろうか……と、そんな恨みごとを覚えもするが、地球とリンクしているからこそ怪我の治りが早いのも事実なのだ。文句ばかりを言ってもいられない。
 よもやこんなヘルメットを被ってまでパトロールをさせられるとは、さすがに思わなかったけれど。
 見慣れた阿良町の煤けた景色を、矢後のバイクは低速を保ったまま前進し続ける。自分の足で歩くのとはわずかに異なる視界を、久森はしかしさして新鮮な気持ちを抱えることもなく眺め続けていた。パトロールの再開を命じられた瞬間こそ指揮官の正気を疑ったし、矢後がバイクを出すからそれに乗れと聞いたときには命の覚悟すらしたが、いざ出発してみればなんということはない。いつものルートを、いつもより早いスピードで見回っているだけのことだ。
「ん? あれ。矢後さん、道、逸れてませんか?」
 普段は曲がるはずの脇道を、矢後のバイクはまっすぐに進んでいく。久森は口にしてから、はたと気づいた。バイクなのだから、歩道しかないルートに入らないのは当然だ。「……すみません、聞かなかったことにしてください」
「んー」
 背中の向こうから返ってくる矢後の生返事は、久森の声が届いているかどうかさえ判別しづらい。正面を向いていても会話が成立しないときがままあるのに、顔がまったく見えない状態での意思疏通など無謀も良いところである。久森だってべつに、感情に富んだ受け答えを望んでいるわけではないのだ。最悪、居眠り運転さえしていなければそれで良い。
 そんなことを考えつつ、けれど久森は、ふと思い立って口を開いた。「そういえば、矢後さんってどうしてバイクの免許取ろうと思ったんですか?」
 矢後がバイクに乗ることは、なんとはなしに知っていた。はじめて見かけたのがどんなタイミングだったかは覚えていないが、一日警察官をした際にも乗り回していたようなので少なくとも無免許ではないはずである。ヒーロー登録をしていると免除される社会制度はなにかと多く、二輪車の免許取得も一般のものより大幅に簡素化されているはずだが、だからといってわざわざ教習へと足を運ぶ矢後の姿はあまり想像できなかった。特別にバイクが好きというようすもない。どちらかというと、自分の足でのらりくらりとその辺をうろついている印象の方が強いのだ。
 久森の問いに、矢後はしばしの無言の後、ぶっきらぼうに返した。「夜、かっ飛ばしたら気持ちーって聞いたから」
「……なるほど」
 不良らしいといえばそのままの答えだ。久森は納得したが、矢後はしかし、「けどま、言うほどでもなかったな」と続けた。「ケンカのほうがおもしれー」
 声音は変わらず低く、常のとおりに退屈そうな口調ではあるものの、『ケンカ』という単語を口にするときだけは微かに愉しげな空気が漂う。予想からさして外れることのないその回答に、久森は「そうですか」と呟くように言った。自分から訊ねたわりに冷めた態度だ。自覚はあるが、矢後を相手にいまさら親身に相づちを打つ必要も感じない。
 かわりに久森は、真夜中に爆音を奏でながらバイクでひた走る矢後の姿を想像する。さして違和感はないものの、暗い道の向こうへぐんぐんと突き進んでいく彼の背中はどことなく危うくもある。どうにかして止めたほうが良いんじゃないかな、と、そんな漠然とした不安を感じつつ、どうせなにを言ったって聞かないだろうしなぁ、という言い訳じみた諦めのような感覚もある。そして同時に、実際の矢後にとってその道のりが、別段『気持ちー』ものではないということに、たしかな安堵を覚えてもいた。
 そんなひそかな久森の情調など知る由もなく、矢後は淡々と、本気か冗談かよく分からない声で言う。「かっ飛ばして欲しいわけ?」
「嫌ですよ。安全運転でお願いしますって言ったでしょう」
 無茶なことしたら指揮官さんに言いつけますからね。久森がそう告げると、矢後は「はいはい」とおざなりな返事を寄越したが、彼が久森の移動補助を担うのにあたって指揮官となんらかの取引をしているのはおそらく間違いないのだ。カレーまん一ヶ月分とかなんとか、きっと、そんな報酬を約束されているに決まっている。矢後の運転は普段の彼からは想像もつかないほど緩やかで、ときおり停車して周囲のようすを窺いつつ、まるで散歩でもするかのように進んでいた。のどかだ。ただでさえ億劫なはずのパトロールをこんなにも丁寧に行うのには、それなりの理由があるはずである。
 久森の勘繰りに気づいたようすもなく、矢後のバイクは交通法を順守したままエリア内を巡回する。幼生体の気配はまったくないが、江波区の独特の喧騒はそこかしこから漂っていて、なにやらきな臭いようすのグループも見かけたが矢後も久森も関与しない。学生同士の揉めごとなんてこの付近では日常的な光景で、いっそ平和の象徴ですらある。無関係の人間が仲裁に入ろうだなんて、それ自体が野暮というものだ。向こうからちょっかいをかけてこない限り、矢後が一方的に喧嘩を吹っ掛けることもない。一風変わったパトロールはトラブルを運ぶことなく穏便に進み、のびのびと走行を楽しんだ矢後のバイクは、風雲児高校の校門前へと速やかに帰還を果たした。
 放課後の校舎は、授業中とさして変わらないくらい賑やかだ。ちょうどグラウンドにいた生徒たちが、矢後と久森が戻ったことに気づいてわっと声をあげた。「オイお前ら! 総長と副長のお戻りだ!」「お勤めお疲れさまです! 飲み物あるッス! お好きなものどうぞ!」「ウオォォ副長! ヘルメットお似合いです! 素朴でありながら防御と耐久に優れたその姿はまさに質実剛健な副長にこそ相応し」「勇成さんがバイク乗ってんの久しぶりに見るなぁ」
 なぜ呼んでもいないのに集まってくるのだろう。あっという間に喧々囂々とした声に囲まれるが、見つかってしまった以上は仕方ない。渡された缶ジュースを受け取りつつ、そろそろとバイクから降りた久森は真っ先にヘルメットを頭から下ろした。次いでスマホを取り出して、指揮官への報告用のチャットルームに入室する。『風雲児、パトロール終了しました。問題なしです』と送信してから、少し考えて、『支給されたヘルメット、あまりに工事現場すぎると思うんですが、もうちょっとなんとかなりませんか』と、切実な要望を加えて送る。素朴でありながら防御と耐久に優れているのは結構だが、できればもう少し、思春期の気持ちにも配慮がほしい。
「これでよし、と。矢後さん、報告終わりました。今日はもう任務もありませんし、僕はこれで失礼しますね」
「おー」
 言いながら、矢後はバイクに跨ったまま口を開いた。「お前、家どっちだっけ」
 脈絡のない問いかけに、久森は首を傾げた。
「?」
「……家、どっち方向かって聞いてんだけど」
「??」
「……家のほーこー」
「あ、すみません。だいじょうぶです。聞こえてます」
 矢後の声が届いていないわけではない。というか、唐突すぎて一瞬見失ったが、脈絡だってちゃんとある。久森はしかしその発言が指す展開を受け止めきれず、半信半疑を隠すことなく言った。「ええぇ……。え、遠慮します……」
「あぁ? なにがだよ」
「いやだって、バイクで家まで送ってくれるってことですよね?」
 言いながら、全然そういう意味ではない可能性も少しばかり期待したが、矢後はというと普通に「そーだけど」と頷いてみせたので、どうやら本気でそのつもりらしい。久森はいよいよ不審そうに頬をひきつらせた。「な、なぜ……」
「べつに、ついでだろ。なんか問題でもあんの?」
「も、問題があるといえば、あるような、ないような……」
「なんだそれ」
 矢後は訝しげに眉をひそめたが、あきらかに無礼な久森の態度に気を悪くしたような気配はない。こういうことではあまり、腹を立てたり機嫌を損ねたりしないタイプなのだ。矢後のこの大らかなのか大雑把なのか判然としない性格は、久森にとっても非常に接しやすい部分ではあるが、だからといって適当にあしらい続けて良いわけではない。
「……あの、家、というか、僕はいま学生寮で生活していまして……」
「あー」そういえばそうだったか、といった顔で、矢後は続きを促してくる。「で?」
「うっ、ですからその、あんまり目立つのは避けたいんですよ。ただでさえ風雲児の刺繍付きが住んでる寮だって、ご近所からも根も葉もない噂を立てられて、常に悪者みたいに思われてるのに……」
 久森が風雲児の在校生であることも、制服に刺繍が入っていることも事実ではあるが、悪事に手を染めたことなど一度もないのに最初から信頼ゼロなのだ。泣く子も黙る風雲児の総長を引き連れて、それも足がわりにして帰寮するだなんて、どんな尾ひれがついて回るか分かったものではない。へたに波風を立てて、あそこを追い出されるわけにはいかないのだ。
 もごもごとした久森の主張に、矢後は聞いているのだかいないのだか怪しい顔つきで、再び「で?」と言った。
「つまり、乗ってくの。乗ってかねーの」
「……」
 いや、僕さっきハッキリと『遠慮します』って言いましたよね……?
 自然に口から出そうになったツッコミを、久森はそっと飲み込んだ。『遠慮します』はどうやら、矢後のボキャブラリーに存在しない。であれば、『お断りします』とでも返せば良いだけの話だが、とはいえ実際、願ってもない提案であることには違いないのだ。今朝の久森は寮から学校までの道のりを一歩ずつ進み、普段の倍近い時間をかけて登校したが、今からまた同じ労力をもって帰るとなるとさすがにちょっと気が滅入る。
 久森は考え込むふりをして矢後から目を逸らした。しばらく押し黙ってからようやく顔をあげ、左手にぶら下げていた黄色いヘルメットをもう一度頭に乗せる。「お、お願いします……」
「ん」と、頷いて返す矢後の顔つきは、いつも通りに退屈そうだ。「ぐだぐだ言ってないで早く乗れ」と言わんばかりの眼差しに、久森はなんとなく申し訳ないような、気まずいような気持ちになった。工事現場めいたヘルメット姿より、言いわけがましくまごつくことの方がよっぽどダサい。
「オレらもお供します!」という不良たちからの申し出を丁重にお断りして、久森は再びバイクの後部へと腰掛けた。パトロールの道中よりも少しだけ速度を出しながら、矢後のバイクはまるでそれが当たり前のことのように久森を乗せて進んでいく。馴染みのないエンジンの音と、それに連なるように響いてくる振動。正面から吹き付けてくる突風は、きっと前に座っている矢後の方がよほど強く受けているだろうに、とてもそうは思えないくらい彼の背中は安定して見えた。パトロール中は街のようすに目を凝らしていたが、帰路でそれをする必要はなく、久森はただぼんやりと、矢後の運転に身を任せる。学生寮までの道順を伝える以外にはとくに会話も生じないので、まるで輸送される荷物のようだなぁと、そんな下らないことを頭の片隅で考えていた。
 寮の建物が見えてくるまで、本当にあっという間のことだった。パトロールそのものがいつもより早く終わっていることもあって、まだ日も明るい。送ってもらって正解だった。思いつつ、そろそろとバイクから降りた久森は、少し迷いつつ口を開いた。
「なにかその、お礼とかは……」
 礼儀として必要だろうかと、一応といった調子で口にしてみたが、矢後からの返答は案の定、
「はぁ? べつに、いらねーよ」
 という簡潔なものだった。いっそ煩わしげともとれるその反応は、久森にとっても想定の範疇だ。無駄と言っても良いくらい、本来なら必要のないやりとりである。
 そうと理解しつつ、久森はついでに加えて訊ねた。「ちなみに、指揮官さんにはなにを要求したんですか?」
 ふいの質問に、矢後は少しだけ瞠目し、それからほんの僅かに口の端を上げた。
「カレーまん一か月分」
 なるほど、荷物を運ぶのにも送料はかかるが、指揮官の財布から捻出されるのであればそれで良しとしよう。
 予測していた報酬内容との一致に久森は少し笑ったが、矢後はさして興味なさげに、「じゃあな」とだけ残して去ってゆく。遠のく背中に、久森は慌てて「ありがとうございました」と声をかけたが、それが彼の耳に届いたかどうかは分からない。報酬分は働いたのだからもう良いだろうとばかりのそっけなさだが、いつものことなので久森も深く気にすることはない。
 ただ、走り去っていくその車体が、久森を乗せていたときよりもはるかに速く、ぐんぐんと遠くへ向かってゆくので、どうやら彼なりに気を使ってくれてはいたようなのだ。
 久森はその場に佇んだまま、矢後の背がかすんで見えなくなるのをなんとなく眺めていた。パトロールは当然、今日だけのことではない。きっとまた、こうやって送ってもらう日もあるだろう。
 そう思うと、やっぱりなにかお礼をした方が良いような気分になってきて、久森は困ったふうに眉を下げた。なにを差し出したところで、まったく喜ばれる気がしない。
 コンビニのお菓子とか、そんな簡単なもので構わないだろうか。考えながら寮へ戻ると、おなじ建物で暮らす他の学生たちとすれ違う。みな揃って久森と距離をとり、どことなく、見てはいけないものから目を逸らすようにそそくさと歩み去っていく。バイクで戻ったのを見られていたのだろうか。いつもよりいっそう遠巻きにされている気がする。
 思いつつ、自室へ到着したときになってようやく、あれほど恥ずかしかったはずのヘルメットを被ったままでいることに気が付いて、久森は深く納得すると同時にか細く呻いた。

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