ルームメイトのカナダ人はジンの名を呼ぶとき「Jin」ではなく「Gane」と発音する。ジーン、とどこか間延びしたその口調は気さくで口数の多い彼の気質とは対照的にどこか遠い場所からオーイと声を掛けてくるふうで、そうやってこちら側に近づきすぎないよう気を掛けてくれているように思えるのでジンはその「Gane」をなんとなく気に入っている。
「ジーン」
と、ふたつ年上のルームメイトは今日も机に向かうジンに向けてどこか呆れたようすで声を掛けてくる。
「ジーン、キミって男は、またそうやってCCMばかりを眺めているのかい。キミが日本で有名なLBXプレイヤーだったことは知っている。けど、いまはもう機体を持っていないんだろう? なぜCCMが必要なんだい? LBXが恋しいのならオモチャ売り場へ行っておいでよ。そうしないならいますぐ、このアドレスに連絡すると良い。きっと後悔はさせないよ。ホラ」
言いながら彼が渡して来たメモには覚えのない番号の羅列と、そして覚えのない名前が書かれていた。ジンは軽く小首を傾げ、視線だけでルームメイトに問いかける。彼は肩をすくめてみせた。「キミと同じ選択授業を受けている女の子だよ。ブロンドの、小柄な、丸い眼鏡を掛けた子だ。けっこうカワイイ」
「……覚えがない」
「まぁ、直接話をしたことはないみたいだからね。じゃあこっちにするかい?」
ルームメイトの手帳からは合計で六枚のメモが滑り出てきて、そのすべてに女生徒の名前と、そして連絡先が記されていた。
「みんな、キミと友だちになりたがってる」
「友だち?」
「ああ! もちろん、特別な友だちに、だけどね」
机の上に丁寧に並べられた六枚の紙を、ジンは少々困惑した気持ちで眺めた。好意を寄せられたことがないわけではないが、A国へ留学してからまだ一カ月と経っていないのだ。こちらの女子は積極的なのだな、とジンは他人事のように分析し、そして言った。「悪いが、パスだ」
ルームメイトは大袈裟な嘆きの声を上げた。ジーン、と彼はいつもの調子でジンの名を呼び、それから、やれやれといったふうに嘆息してみせた。
「キミはとてもつまらない男だ。人生を損している」
「ずいぶんな言いようだな」
「そりゃあだって、事実だから。ねえ、ジン、キミが日本に恋人を残してきていることをボクらはもちろん知っているさ。彼女たちだってそのくらいは理解している。それでもお近づきになりたいと、そう思えるくらいの魅力を自分が備えていることにキミは気付いているか? 誰も浮気をしろとは言っていない。あくまで、お友だちだ。そうだろう?」
ジーン、キミはもっと肩の力を抜きなよ、とルームメイトは諭すように言うが、ジンには彼の言葉の意味が理解出来ない。
「なんだって?」と思わず問うと、彼の方も「なんだって?」と返して来た。ジンは少し考えるふうに間を置いてから、しかしやはり、「どういう意味だ?」と訊ねた。自分はいま怖い顔をしているだろうか、と思った。
「はあ? だから、ガールフレンドくらい作ってもキミの彼女はきっと許してくれるさ、とボクは言いたいわけだ」
「だから、なんの話なんだ、それは」
「?」
互いに互いを探り合うような間があった。ジンは彼の言葉を繰り返し頭の中で再生しなおして、そうしてからようやく、額のあたりにコツンと引っかかった単語の正体を知った。「彼女?」と思わず零した声は自分でも驚くほど素っ頓狂な感情を映していた。「彼女、って、いったい誰のことだ?」
「ボクが知るわけがないじゃないか!」
この秘密主義者め! と高らかに言い放つ彼の声音には、少なからず罵倒の響きが含まれている。ジンは驚いた。彼女だって? ともう一度言った。
「僕に恋人はいない」
「……ハァ?」
ルームメイトの口から洩れた声はジンの素っ頓狂など目ではないほど突き抜けた素っ頓狂であった。彼は色の薄い両目をまんまるにして、それから、整った眉を盛大に寄せて顔をしかめた。「海道ジンには恋人がいる」と教科書にでも載っていそうな丁寧な口調で言う。
「いない」
「えええー」
うそだろう、と彼は嘆くような声を上げた。
「だって、キミ、じゃあどうして女の子たちを避けるんだい! というか、それ、そのCCM! それ! 彼女からの連絡を待っていつもいつも眺めているんじゃないのかい!」
「……ん」
それは、少しばかり思わぬ指摘だった。
ジンは手元のCCMを軽く撫でる。なんとなく、彼の視線から隠すように手のひらで触れて、そうして呟く。
「僕は、連絡を待っているのか?」
それはぽろりと零れたひとりごとだったのだが、しかしルームメイトは聞き逃さなかった。彼はまたもおおげさに、ハァ? と首を傾げた。どこか威圧的なまでの勢いで、「ボクが知るわけがないじゃないか!」と言う。
そのセリフを聞くのは二度目だ。ジンは思わず少し笑った。まったく、そりゃあもちろん、彼が知るわけがないのだ。ジンははたしてどう伝えるべきか僅かに思案し、結局、
「日本に残してきたひとがいるのは事実だ」
と言った。
「やっぱり! なぜ嘘をついた!」
「いや、だからその、……恋人ではないんだ」
ルームメイトは一瞬、ぽかんとした。それからジンの顔を覗きこみ、へええ、というふうに目を丸めたり顔をしかめたりする。それを見ながらジンは、なんとも感情豊かだなぁ、と考える。自分にはとても真似出来ない芸当だ。
ひとしきり感心したようすを見せてから、最後に彼は哀れむような眼差しになった。ジンの肩をぽんぽんと叩く。
「だいじょうぶ、キミほどのイケメンなら、きっと振り向いてもらえるさ」
「…………」
盛大に勘違いをされているようだが、しかし今さら相手が同性であることを伝えても、変な噂をばら撒かれかねない。言語とは難しいものだな、とジンは思う。正直、細かい説明をするのは面倒だった。
灰原ユウヤとの関係を、他人に向けて伝えるのは、何せとても困難なのだ。
恋人ではもちろんない。友と呼べるほどの時間をすごせたかどうかさえあやふやだ。病室で交わした言葉の多くは友好的なものだったが、それに甘えきることがジンにはどうしても出来なかった。優しくしたい。許されるのなら友のように、家族のように接したいと思いながら、同時にこの距離を保つべきだという確信もあった。
CCMは鳴らない。決して鳴ることはない。
ジンは静かに嘆息した。なんとなく、だれかに笑ってもらいたい気がしたので、ちょうど目の前にいたルームメイトにその役を振った。
「教えていないんだ」
ため息交じりの声に、彼はすぐさま反応した。「なにが?」という素直な問いかけに、ジンは答えた。自分でも呆れてしまうくらいにか細い声が出た。
「アドレスを。その、ひとに。……教えないままでこっちへ来た」
だから、待っていても無駄なのだ。ぜったいに、ぜったいに彼から連絡が来るわけがないのだ。彼だけではない。ジンは留学について詳しいことをだれにも伝えないままでA国へやって来た。いま使っているCCMはサイバーランス社から新たに支給されたもので、バンたちでさえ、ジンと連絡を取るすべを知らない。
それでも、待っているように見えていたのだとすれば。
灰原ユウヤがこちらへ、ジンの元へ、駆けよってきてくれることを期待する気持ちが、自分の中にあるのだとすれば。
それはとても滑稽で、そしてきっと傲慢なことだ。ジンは眉根を寄せ、再び吐き出しそうになったため息をどうにか飲み込んだ。ルームメイトの顔を窺うと、案の定、彼は呆れきったようすでこちらを見つめていた。
「ジーン」
と彼が言う。
「キミはほんとうに、つまらない男だなぁ」
「……ああ」
自分でもそう思うよ、とジンは自嘲するように呟いた。笑い飛ばしてほしくて告白したのに、ルームメイトは決して笑わなかった。ただなんとなく悲しげな目をして、ジンの背中を何度か撫でるように叩く。
「事情は知らないけどさ、だったら、キミから連絡してやりなよ」
好きなんだろ? と彼は言った。
ジンはその問いに、素直に頷いた。好きなのだ。それは間違いのないことで、でも、それをするにはきっとまだもう少し時間をかけなくてはいけない。
手の中のCCMへと視線を落とす。少しの沈黙が流れて、それから、ルームメイトが急に「あーあ」と言った。「彼女たちに、なんて説明すればいい?」
愚痴を零すように呟きながら、彼は女生徒たちからのメモを一枚ずつ、ひらひらとゴミ箱へと放りこんだ。
鳴らない電話
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