02–光 琢磨とエド
エド・フェニックスは光を見たことがない。
それを他人に告げたことこそないが、真実、彼には光というものの存在が感じられなかった。名は知っている。どうやらアダムとイヴのもとに訪れ、唐突に啓示を与えてゆく導き手であるということも知識としては得ている。けれどそれはエドにとって、自身で視認したことのない色について言葉だけでイメージを植え付けられたような、そんな不確かであいまいで、なにより信用ならない概念であった。
それでも昔は信じていたのだ。いずれ自身もアダムとして、あるいはイヴとして、光に告げられた決定にしたがって神と戦うことになるのだと。みなその瞬間を確かに感じるというのだから、きっと自分にも同じような一瞬が訪れ、そうしてその相手とともに神を殺すのだと。
物心ついたころには母はすでにおらず、幼い時分に父も空で神に愛され、ひとりきりになったエドにはすぐにでも自身のパートナーが必要だった。共鳴を探して、光の啓示を求めて、その瞬間を決して見逃してはならないと意識を配った。
けれど光など見つけられないままで数年がすぎて、おそらく自分の共鳴者はどこか遠く、この足の届かない地にいるのだろうとエドが思いはじめたころ、琢磨が言った。目を丸め、なにをいまさら、というような顔で。
「光ならとっくに降っているじゃないか、エド。きみは私のイヴで、私がきみのアダムだろう?」
斎王琢磨は誰より光に近い場所にいる。
だから、おそらくエドが気付かなかっただけで、それはとうに示されていたのだろう。彼をアダムに、自分をイヴに。幼いころ、彼にはじめて声をかけられたその瞬間に、光はすでにこの身にそう囁いていたのだろう。
エドはそれを知らない。感じていない。見ていない。自分自身で認識できないものを、エドは決して信用しない。
けれど光なんかに告げられなくとも、彼の言葉があればそれで充分だった。斎王琢磨は光の意思そのものであると、大人たちがそう彼を無暗に崇めること自体はエドの望むところではなかったけれど、事実として琢磨は光だった。この世界にとって、などと大仰なことを言うつもりはない。
エド・フェニックスは光を見たことがなかった。斉王琢磨以外に、彼は光と呼べるものを知らない。
* * *
特別なにかをしなくともそこに立っているだけで目立つ人物というのはたしかにいて、遊城十代は間違いなくそのカテゴリに入れられるタイプだとエドは思う。
常のとおりどことなく薄暗い管理局の灰色の壁の向こうから、十代は気だるげなようすを隠そうともせず現れた。遠目にも妙に異色を放って見えるその姿は、決して彼のその常に赤い衣服のせいだけではないだろう。
勝手に視界に入りこんできた赤色は、人目を気にするようすもなく不躾に後ろ手でドアを閉め、いかにも億劫だというふうに渋面を浮かべてみせてから、ふと顔をあげてこちらを見た。おっ、と表情を緩めてから、ぶんぶんと手を振って存在を主張する。
そんなことをしなくたってこっちはとっくに気付いているのに。
エドは軽く右手を上げてそれに応え、リズムよく跳ねるように近付いてくる十代のほうへと歩を進めた。単純に進行方向に彼の姿があっただけだけれど、たとえそうでなくとも十代からこちらへ寄ってきただろうから結果は同じだ。久しぶりに見る顔は相変わらずで、先ほどまでの硬い気配はあっという間に消えうせていた。
よお、と軽い調子で挨拶をすませ、十代はそのついでのように言った。「もう出てきて平気なのか?」
「おかげさまで」
左肩を軽くすくめると、彼は遠慮なくそれを凝視して、すごいなと素直に感心してみせた。
「それ、ほとんどホンモノなんだろ?」
「ああ、結合部には機械が入っているが、思ったより違和感は少ないな。腕の良い技師に見てもらえてラッキーだったよ」
この調子なら、じきに空に戻れる。
そう言ったエドに、十代はそっかとつぶやいた。少し笑って、良かったじゃん、と付け足したけれど、それはエドの復帰を歓迎するような声音では間違ってもなかった。管理局の大人たちとは異なるその反応は新鮮で、エドはひそかに目を細めた。戦場に戻ることは僕の本意だ、と声に出すことなく確認する。そこには管理局の意思も光の教えもなにもない。
おそらく十代とてそうだろう。彼は光を知っているのだろうけれど、だからといってそのためだけに毎日毎日空へと駆けているわけではないはずだ。そこにどんな感情を乗せているのか、どんな未来を思っているのか、そんなことはエドにはわからないし敢えて知ろうとも思わないけれど。
「で、今日はなにしに来てんの? なんかやらかした?」
「……本部に呼ばれるほどの失態なんてそうそう起こさないだろう、普通は」
「そうか?」十代はけろりと言い、首を傾げた。「俺はしょっちゅうだけどな、今日もそうだし。ヨハンとことか、アモンとか、あと吹雪さんや藤原もついこのあいだまでは頻繁に呼び出されてたみたいだぜ? そんな珍しいことじゃないって」
問題児の名ばかり挙げ揃えてから、十代は思いだしたように続けた。「そういや、あの時はありがとな」
「どの時だ?」
「ほら、ちょっと前にさ、本部に襲撃があったじゃん。斎王が教えてくれなかったら手遅れだったかもしれない、っていうか、多分間に合わなかったと思うから。伝えといてくれよ、ありがとって」
十代の言うのは、おそらく、10日前に起きた神の襲来の件についてだ。本来ならまずありえないであろう、管理局本部上空での戦闘。手薄としか言いようのなかった本部での悲惨な戦況で、どうにか最低限の被害に留められたのは、たしかに琢磨の言葉があったからだ。戦地から遠く離れた自宅の部屋のなかで、彼は襲来の起こる数分前に光の声を聞き、すぐさま周辺基地と連絡を取って動けるアダムとイヴに指示を与えた。
「間に合ったっていっても、結局吹雪さん片足持ってかれちゃったけど。それでもまぁ、出来ることはやれたからさ、良かったよ」
そう言って十代は、本当に悔いのなさそうに笑う。エドはそれにひっそりと安堵しながら、けれど表情には出さないように意識して、平気だろう、と言った。「足の一本や二本、変質したところで、生きてさえいればどうにでもなる」
口にしながら、なんとも説得力のある言葉だなとエドは心中で苦笑した。自分が空で左腕を失ってひと月が経った。神の愛はなんの痛みもなく、あっけないほど容易くこの腕をもぎ取ったが、けれど自分は生きて地上に戻り、その失ったはずの肉体さえこうしてきちんと取り戻した。この国の医療技術は本当に高い。身体の一部を変質させ失った程度では、戦場から逃げ出させてはくれない。
天上院吹雪と藤原優介といえば、十代ほどではないがそれなりに有名なワケアリのアダムとイヴだ。直接的に関わったことはなかったが、噂だけなら黙っていても耳に届いた。イヴの代わりに空を飛んだアダム。
「藤原がさ、今度からは自分で飛ぶって言ったから」
ひとつ頷いてからそう言って、十代は我がことを誇るように笑んだ。「そしたらたぶん、吹雪さんも平気だよな」
イヴが空を飛び、アダムがそれを操る。
それは光の決めたことだ。ひょっとすればもっと大きな、光と呼ばれるものよりも壮大ななにかの意思が働いているのかもしれないけれど、とにかく、人をふたり並べてその片方をイヴに、もう一方をアダムにと決め、共鳴率なんて数字でその相性を計る。光がそれを指し示す。
それはそこまで重要なことなのだろうか、とエドは思う。現に吹雪と優介のふたりは、つい先日まであべこべのアダムとイヴとして上手くやってきたではないか。アダムが空を飛ぶこと、それはそんなにも摂理に反することだろうか。光の指示とはそんなにも強力で、捻じ曲げられるべきではないものなのだろうか。
こんな疑問を抱えているのが自分だけだとは思わない。おおくのアダムとイヴが、おそらくは十代も、だれより、イヴの代わりに飛ぶことを選んだ吹雪やそれを受け入れた優介が、同じ疑念をひそかに抱いているに違いない。それでも彼らが光を尊ぶのは、その姿を知っているからだろうか。
「……そんなふうに他人のことにばかり構っているから、管理局に目をつけられるんだ」
今日呼び出されたのだって、どうせまた、戦場で神を殺すこと以外にかまけていたからだろう。空を駆ける十代はだれより速く、文字通り神よりも強い。それでいながら、たやすく他者に手を差し伸べる。敵を潰すだけでなく、周囲を見て、その先に起こる被害を考える。
損な性分だとエドは思うが、しかし十代は、へらりと笑んでさらりと言った。
「いや、だってさ、どれだけ神を殺せても、友だちを助けられないならそんな力に意味なんかないって」
まるで正義の味方だ。エドは鼻白むように息を吐いたが、けれど胸中には、たしかにその言葉に肯ずるものがあった。友を助ける力。
ならば自分の、この身にはどれほどの力があるだろう。かすかに憂色を覗かせるエドを気にするそぶりもなく、十代は機嫌よさげに笑んでいたかと思うと、ふいに歩を止めて言った。「っと、そろそろ行かないと」
「どこへ?」
「びょーいん」
ひどく軽やかにそう返し、彼はなにごともなかったかのように赤い衣服を翻した。病院、とオウム返しに口にしたエドに構うことなく、じゃあなー、と大きく腕を振りながら、あっという間に駆けてゆく。
まったく嵐のような男だな、とその背を見送ってから、エドはふたたび歩きだした。管理局の冷たい廊下をまっすぐ背を伸ばし堂々と直進しながら、思う。たとえば神を殺すことで、殺し続けることで友を救えるのなら、この力にも意味はあるだろうかと、そんなことをひとり考える。
* * *
管理局本部の最奥に位置する巨大な扉を開くと、その向こうには真白の闇に彩られた小箱のような空間が広がっている。
その部屋の中央、ぽつんと置かれた椅子に腰をおろし、斎王琢磨は管理局の人間を傍らに立たせたままで薄いまぶたを伏せていた。手元に用意された白の紙のなかに、やはり白い筆でもってするするとなにかを記入している。どこか儀式めいた様相のそれは、けれど張りつめた緊張感からは程遠い機械的な空気を孕んでいた。静かに部屋に入り込んで扉を閉めたエドは、壁際で腕を組み、そのさまを見守っている。
長い夢から覚めるように琢磨の両目がふわりと開き、それと同時に手記も停止した。管理局員のひとりが用紙を受け取り、なにやら気難しい顔でそれに目を通している。と、渋面を浮かべる彼が実に見知った顔をしていることに気付き、エドは壁に預けていた背を離した。
「やあ、万丈目。おまえはいつから斎王の担当になったんだ?」
近付き、声をかけると、万丈目準はどこか気まずそうな顔でエドに視線をやった。「ついこの間からだ」と大雑把な返答を返してから、怨敵でも見つめるように字列の並んだ白い紙を再び睨みつける。エドはひょいとそれを覗きこみ、言った。「……随分と少ないな」
「なにを今さら。ここ数カ月、もうずっとこんな調子だ。おい斎王、本当にこれが光の訴えるすべてなのか? 他に共鳴するアダムとイヴは、もうこの国に残っちゃいないって?」
話を振られた琢磨は、真っ白の椅子にかけたままで視線だけを準へと寄こし、ゆっくりと首を横に振った。そうじゃない、と彼は憂いを隠すことなく言う。「共鳴は瞬間的で不安定なものであることのほうが圧倒的に多いんだ。アダムとイヴが顔を合わせ、互いを認識した時にこそ明らかになる。いまこの場で見える光が示しているのはそこに記した六十二組のアダムとイヴだけだが、この国にもう共鳴者が残っていないというわけでは決してない」
だが、と訴えようとした準は、けれどすぐにその言葉を飲みこんだ。彼は手元の用紙に目を落とし、それから、なにかに気付いたように大きく瞠目していた。痛みに耐えるようにぐっと眉根を寄せる。そこに並んだ六十二組の新たなアダムとイヴの中に、さては知人の名でも見つけたかな、とエドは当たりをつけた。
はたして準は深く嘆息し、また明日頼む、と言い残して踵を返した。その背に、琢磨が言葉を投げる。
「どれだけ焦っても、勇んでも、きみの望みはまだ叶わない」
「……」
「いまはただ、黙して待つべき時だ」
言い聞かせるようなその声に準は歩を止めたが、応えることも振り返ることもせずに部屋をあとにした。ふたりきりで残されたエドと琢磨は顔を見合わせると、どちらからともなく肩の力を抜いた。琢磨が立ち上がる。椅子に座っていてちょうどよい高さにあった彼の顔が、起立することで随分と遠くなる。
「さて、待たせたねエド。今日のお勤めはこれで終わりだ。帰ろうか」
ああ、とエドは頷いて、ふたりしてその白い部屋を出た。光の言葉を聞く、琢磨のために用意された空間。まばゆい白だけに囲われた、鈍く色づく闇の檻だ。
どことなく偽物めいたこの場所が、エドはさほど嫌いではない。
管理局を出るとすぐさま迎えの車が到着した。琢磨はもはやこの国の至宝だ。光の声を聞き、まだ出会ってもいないアダムとイヴの位置さえ書き記し、神の襲来をも予言する。幼いころから片鱗を見せ始めたその能力は、成長とともに確実に、より精確なものへと安定していった。世界のことわりを詳らかにするような琢磨の力は、今や神と対峙するための人類の大きな柱のひとつである。
斎王琢磨は光の意思そのものだ。そう言って崇め、奉る者とて少なくはなかった。エドはそれらの崇拝や信仰めいた感情を忌避したが、琢磨本人はいたって呑気なもので、そうすることで心の安定をはかることが出来るならべつに構わないといった態度を崩さなかった。さも命ある国宝のように丁重に扱われ、ゆったりと車内に乗り込んだ琢磨の隣に腰掛けながら、エドはそういえば、と口を開いた。
「さっき管理局で十代のやつに逢った。斎王に、あのときはありがとう、と言っていたぞ」
琢磨は、へえ、と懐かしいものを見つめるように相好を崩したが、けれど同時に弱ったように小首を傾げた。「あのときというのは、どのときのことだ?」
エドは苦笑する。まったく、彼には礼を言われる心当たりが多くて困ったものだ。「ほら、十日前の。管理局本部が襲来を受けたときのことだ。ちょうど、友人が居合わせていたらしくてね。斎王が知らせてくれなければ間に合わなかったかもしれないと、随分感謝しているようだった」
「なるほど」と琢磨は頷いた。「友人というのは、彼かな。天上院吹雪」
「なんだ、知っていたのか」
「知らないわけがないだろう。きみのその腕を取りつけてくれた技師の兄だ」
理由になっていない答えを返し、琢磨はどこか遠くを見るように視線を上げた。名も知らない運転手によって、車はゆっくりと走りだしている。ゆるやかな下り坂を、さして揺れ動くこともなく、不可思議なほどにのんびりと前進してゆく。
「……彼は、天上院吹雪はアダムだ」
まるで視線の先にそう書いてあるかのように、淡々と、琢磨はそう呟いた。紫暗の瞳を遠い窓の外へと向けながら、彼はその双眸をうっすらと細めたようだった。なにかを睥睨するように。
「それは絶対に変わらないし、誰が望もうと変えられるものじゃない。アダムが飛ぶなんて奇怪なことが起きていることは知っていた。それによって生じる歪みについても。それでも光が彼らについてなにも言わなかったのは、こうなることを見越していたからだ。軌道の修正がなされることを。だから、あの件に関して私が礼を言われるようなことはなにもない。必然だったのだ。彼らにはあの時間が必要だと、光は最初から理解していた」
そう、どこか寂しげに琢磨は言った。それはおそらく自分に向けられた発言ではないのだろうと、エドはそう感じたが、彼の声に言葉を返さないことでその孤独を強めたくはなかった。そうか、と小さく頷いてから、エドは続けた。「それでも十代は、きみに感謝をしていたよ、斎王」
十代だけではない。あの時あの戦場にいたアダムとイヴはみな、斎王琢磨の聞いた光の声に感謝しているはずだ。彼のその一言で、救われた命がたしかにあった。琢磨の力は誰かを助けるものだ。人を救い、ひとつでも多くの悲劇を失くすことができるものだ。
けれどそれは琢磨自身を救うものではない。
はたして彼はどこまでを見ているのだろう、とときどき思う。彼は光の示すどこまで先を読み解いているのだろう。
アダムとイヴとしての自分たちの関係は、極めて良好であると言えた。共鳴率は高く、神を死に追いやったことも一度や二度ではない。斎王琢磨はおそらく最高のアダムだ。幼い時分から常に近くにある相手に身を預けることは、呼吸をするように容易かった。エドは光の啓示を見ていない。アダムがなにもので、イヴがなにものであるのか、そこに横たわる覆しようのない摂理の意味を、体感していないエドには理解できない。
それでも間違いなく琢磨はエドのアダムだ。
光の声を聞き、神の襲来を予見し、おそらくは言葉を交わしたこともないアダムとイヴの事情も不都合もその結末さえ知り尽くしている。運命を捩じるように光を読み解く彼は、けれど同時に傍観者の域を出ることはない。
神に愛された左肩にそっと触れる。
あの日、エドが空でこれを失くすことさえ、彼は知っていたのだろうか。
* * *
その日の空の色をよく覚えている。
そんなふうに嘯く者が時々いるが、エドにはまったく共感できなかった。空の色など大抵おなじだ。そこに神がいれば尚更のこと、戦場に色合いなど存在するわけがないし、たとえ在ったとして、いちいち記憶しても仕方がない。
ひと月前もそうだった。複数の神からなる大きな襲来は数時間前に琢磨に予言され、万端とまではいかないものの、ある程度の迎撃準備が整っていた。エドと琢磨のほかにも何人か、高い共鳴率と戦闘力を誇るアダムとイヴが出揃い、ずいぶんと豪華な顔ぶれだとまるで他人事のように感じたものだ。
空の色など覚えていない。
ただいつも通りに青いだけの世界の中で、気付くと神が目前にまで近付いていて、そっと左肩を触れられたその瞬間の景色だけは鮮やかに記憶している。
神の手はあたたかく、エドはそれを一瞬、亡き父に触れられたものだと感じたほどだった。ああ、これが愛か、と場違いにも感心し、陶然とした気分でそれを受け入れていた。ひどく心地がよかった。ふわりと心の浮き上がるような感覚と同時に、全身が歓喜で溢れて胸が高鳴った。痛みなどあるはずもない。ぱあん、と柔らかく弾けるように肩先だけが変質し、高い高い空の真ん中に放り投げられるように千切れた左腕が吹き飛んでいった。それを視界の端で捉えながら、エドは神の双眸を覗きこんでいた。
神は慈愛に満ちた眼差しでエドに微笑みかけ、ふたたびその両手をそっとこちらへ伸ばしてきた。抵抗する理由はなかった。これだけ多くのイヴが舞うなかで真っ先に退場するのは癪だが、それさえも仕方ないとエドは感じていた。もう一度、今度はもっと深く、神の愛に触れることだけを望んでいた。
その耽溺する思考からエドを正気に戻したのは、ほかでもないアダムの、斎王琢磨の声だった。
エド、と、動転するようすもなく琢磨は語りかけていた。神に触れられた瞬間たしかに一度途切れたはずの共鳴を再び感じとって、エドはふと我に返った。エド、エド、と琢磨が呼んでいる。エド、きみはここでは終わらない。
そうか、とエドは納得し、すいと身を引いて神の手をかわした。ここで終わりではないと、斎王琢磨がそう言うのなら、それはそうに違いない。エドは確信し、神から充分に距離を取ってから、飛行するのをやめた。空中へ飛ばされて落下してゆく自身の左腕を見つけ、それを引っ掴んで抱え込む。斎王、と呼びかけると返事があった。ああ、よかった。共鳴している。
遠く、滲んだ空の戦場でイヴと神が戦闘を交わしている。エドはそれを遠目に見やりながら、やはり、先にひとり離脱するのは癪だなと感じた。それでもあのまま無様に変質を遂げるよりははるかにマシだと考えなおし、自由落下する身体を自身のアダムに委ねて地上へと降った。
ちぎれた腕を持ち帰ったのが正しかった。
変質した肩部に処置を施し、機械と肉とを神経結合する手術はすぐさまに行われた。一か月もすれば日常生活には戻れるだろうという診断に対し、エドはその予定をはるかに上回る速度でリハビリを行い、一度離れた腕をふたたび自身のものとして完璧に使いこなした。
戦場に戻ると決めていた。
まだここでは終わらないと、斎王琢磨が言ったのだ。光が告げたのだ。エドはその言葉を信じている。この先に道がなくなるまで、彼がここで終わりだと言うその瞬間まで、なにがあっても自分は飛び続けるのだと、そう決意している。
神を殺す理由がエドにはあった。
斎王琢磨を光から解放するのだ。破滅の未来など、彼の目に映じさせてはいけない。
* * *
左肩が妙に疼いて目を覚ました。深夜だった。エドはゆっくりと身体を起こし、まるでそこに繋がっているのが見知らぬ他人のものであるかのように左の腕を見つめていた。静かにベッドから抜け出すと、寝間着のうえに薄手のガウンを羽織って、寝室を出る。
広々と暗いだけのダイニングの向こう、かすかに星の光を迎え入れるベランダの窓際に琢磨の姿を見つけ、エドは苦笑した。まるで招かれているようだ。これも光の意思のひとつだと、この夜に肩を並べることさえも運命の導きによるものだと。何者かにあざ笑われているような錯覚を覚える。
だがそんなふうに考えるエドに対し、振り向いた琢磨は意外にも瞠目してみせた。
「眠れないのか?」
「いや、目が覚めた。せっかくだから月見がてら、お茶でも淹れようかと思ってね。きみも飲むか、斎王?」
軽い問いかけに、ああ、と琢磨は目を細めた。どうやらエドひとりに準備させる気は毛頭ないらしく、当然のようにシンクへ向かい、手際良く湯を沸かしはじめる。作り置きのインスタントですませてしまおうと思っていたエドは自身の怠慢に少々バツの悪い思いをしたが、淹れてくれるものなら甘えてしまおうと開き直った。慣れた手つきで茶を選ぶ琢磨の手元にカップを揃え、ふたり並んで真夜中の茶会の用意をする。
柔らかな香りは夜の静けさの中にはどこか浮いて感じられた。ふたりは向かい合って座り、雑談を交えるでもなく月夜を楽しんでいた。広いベランダの向こうに冷たい月灯りの気配を感じていると、ふと、思い出したように琢磨が口を開いた。「この世界は明日破滅を迎える」
今にも停止するように大きく心臓が鳴った。エドはカップから口を離して、自身のアダムの言葉を、光の声を、今一度乞うように目の前の友人を見つめた。
その様相はよほど切羽詰まっていただろうか、琢磨はくすりと笑みを零し、「冗談だよ」と柔らかく言った。
「――……なんてタチの悪い冗談だ」
「悪かった。一度言ってみたかったんだ。こんなこと、外で口にしたらどんなパニックが起こるかわかったものじゃないだろう?」
琢磨は悪戯っぽく微笑んだが、それはどこか自嘲するようでもあった。エドは嘆息する。「もしも本当にそうだったとしたら、きみはどうするつもりだ?」
「? どうするとは?」
「もしも本当に明日、この世界が終わるとしたら。それをいま予見したのなら、きみはどうするんだ、斎王」
「…………」
思わぬ問いかけに琢磨は思案するふうに眉根を寄せ、それから、どうだろう、と曖昧に返した。「まったく思いつかないな。少なくとも、こんなふうに呑気にお茶を飲んでいる場合でないことは確かだが。きみならどうするんだ、エド?」
「僕か? そうだな、僕なら逃げ出す」
あっさりと返された思いがけない回答に、琢磨は目を丸めた。「逃げ出す?」
「ああ、だってもう終わりなんだろう? だったらこれ以上戦っても意味はないし、精々生き延びるために逃亡を図るさ。きみと美寿知を連れて、……どこまで行けるかはまったく予測出来ないが、まぁ、なんとかしよう」
琢磨はぽかんとエドの顔を見つめて、そうか、と呟きながらカップに視線を落とした。どう言葉を返したものか推し量るふうでもあった。「それは随分、頼もしいな。敵前逃亡なんて、きみの一番嫌いな行為かと思っていたが」
「もちろん、仮定の話だ。現実に光はその未来を確定させてはいないんだろう?」エドは少し笑んで、頷いた。「そう簡単に僕は逃げ出したりはしないさ。明日、空に戻る」
「……明日?」
唐突な宣言に、琢磨はカップから目線をあげて再びエドを凝視した。彼がなにかを言う前に、エドは口を開く。
「いま決めた。明日だ。神は来るか?」
「来る。来るが、きみが出るほどの規模のものじゃない。管理局には知らせてあるし、既にチームも決まっているはずだ。大体リハビリもなしにいきなり本戦なんて」
「小規模ならなおのこと、リハビリ代わりには丁度良いじゃないか」
「……エド、私は」
言いかけて、琢磨はなにかの気配を察したように口をつぐんだ。明日ですべてが終わってしまうと、そんな悪趣味なジョークを口にした人間とは思えない、不安げな顔つきをしていた。エドは思わず口元をゆるめる。いつだってなにもかもを予見しているように振る舞う、彼が驚く顔を見るのは好きだと思う。
「きみは僕が神の愛に触れたとき、変質する形を知っているか?」
変質は人によって異なる。花になるもの、風になるもの、氷になるもの、大気に溶けるものもいれば見たこともない物質に変化するものもあった。基準はわからない。神に触れられてみなければ、誰も自分がなにものとして死ぬのかを知ることはできない。
たしかなのは、そのすべてがうつくしいということだけだ。
神に愛された人間はうつくしい。
エドにとってその問いかけはひとつの切り札だった。はたして琢磨は首を横に振り、いいや、と返した。そこに嘘はない。
エドはその返答に満足し、言った。「僕はね斎王、光になるんだ」
覚えているのは空の色ではなかった。神に触れられた自身の肩先が、やわらかく弾けて昂然と輝くその景色だけをエドは見つめ、そして思ったのだ。これでは仕方ない。これを拒むことなど、自分に出来るわけがないではないか。
皮肉だろう、とエドは口の端を上げたが、琢磨は表情を崩さなかった。彼がなにを思っているのかエドにはわからなかったが、それでかまわないと思った。すべてを理解する必要などないのだ。自分も、彼も。
ただひとつ、これだけを知っていればいい。
「僕は逃げない。明日、空に戻るんだ。そう決めた。だから破滅の未来なんて来ない」
世界は僕が守るよ。
ふいに口をついて出た言葉が、ひどく高慢な自覚はあった。子どもじみた、芝居がかったセリフだ。けれどそれで良いのだと思う。正義の味方のように、世界を守り、友を守る力なのだ、これは。
斎王琢磨はいつでも光に導かれている。その先に映る未来がどんな景色を示しているのか、光を知らないエドには見えない。理解できない。
けれど闘うことはできる。
光など見えなくても、信じることはできるのだ。
明日にも世界は終ると言った、友の顔を見る。その口から、二度とそんな言葉が零れなければ良いと思う。彼の目に映る未来はこの手で作り出すのだと、エドは空へと思いを馳せた。
終わりなど決して来ない、明日の空を彼に見せるのが楽しみだった。