01–変質 吹雪と優介
藤原優介は神に両親を殺された。
優介が六つのときに彼の住む地区が襲撃を受けて、父と母はわが子の目の前でふたつのうつくしい花になった。神に愛される瞬間というのは音が鳴る。キィン、という、空気が軋むみたいな音。それと同時に、ふたりの姿はヒトではなくなり、細い蔓のくるくると絡みあった人型の植物となった。それは優介の目の前でおおきな白い花をゆっくりと咲かせて、神に愛された自らを誇るみたいに凛と揺れた。
神に襲われて廃墟と化したその場に座り込んで、優介は毎日父と母に水をやった。大人たちになにを言われても動く気にはなれず、日がなただ両親の前に蹲ってふたりを眺めた。その日の襲来で生き残った一般市民はほんのわずかで、そのなかでも、神に直接触れて姿を保ったままでいられたのは優介だけだった。
この子は神に疎まれているのだと大人たちは言った。
優介はただ黙って両親に水をやった。夜は彼らのそばで丸くなって眠り、陽が昇ると瞼を開いてふたつの白い花をぼんやりと見つめた。返事がないことはわかっていたから、話しかけることはしなかった。日が経つにつれてふたりはしだいに萎れていって、うつくしかった白い花びらが茶色く染まって、もうすっかり枯れてしまったころ、管理局の人がやってきて「もういいかい」と言った。
優介はその日はじめて、ふたりの死を悼んで泣いた。
* * *
「藤原はなんで飛ばないんだよ」と遊城十代は言う。
彼はつい先ほどまで神との戦闘に参加していたとは思えないような、いつもとまったく変わらない調子で優介のまえに現れて、挨拶も抜きに口を開いた。「おかしいだろ、どう考えても」
医務局ではいつものとおり、神と交戦を終えたばかりのイヴたちが大小問わず負傷を抱えてそこら中に転がっている。イヴのそばには必ずアダムが付き添っていたけれど、十代はひとりきりでいるようだった。今日の戦闘にイヴとして突撃して生還を果たしたのは百十三人中八十二人で、そのなかで神に直接攻撃を食らわせることが出来たのは二十四人で、さらにひとつも傷を負わずに帰還したのは十代ただひとりだ。優介はまず、先ほどまで空で神と戦っていた十代に労いの言葉をかけた。「おつかれさま」と。「すごかったね、十代くん。神をふたりも撃破するなんて」
一人現れるだけで五千の市民と五百のイヴと五つの街が姿を替えると言われる神の襲来。それを一度の交戦で二人も殺すことが出来たのだから、十代の功績は輝かしいものだ。彼はまた管理局から祭り上げられることを想像してか、優介の褒詞に顔をしかめて、そんなことはどうだっていいんだよと言った。
「なんで藤原が飛ばずに吹雪さんが飛ぶんだって、俺は聞いてんの」
吹雪は生還した八十二人のうちの一人で、神と直接まみえた二十四人のうちの一人で、いまは優介が背にしている壁の向こうで医務員による治療を受けている。傷はそう深いものではないけれど、おそらくあと一週間は襲来があっても飛ぶことは出来ない。
優介は自身のパートナーの傷口のことを思った。神の手にあやうく触れかかった吹雪の右足はいま、ヒトとしての機能を一時的に失っている。変質にこそ至ってはいないが、一歩間違えれば彼はいまごろ、なんだかよくわからない物質に変わってしまった片足をこの扉の向こうで切断されていたことだろう。
二つも年下の少年に批判じみた視線を向けられながら、優介はあいまいに苦笑した。なんで飛ばないんだ、という問いかけは、以前から何度も放られている。彼からも、彼以外からも。優介はそのたびに同じ言葉を繰り返す。
「吹雪が、俺は飛ばなくていいって言ったから」
十代は何度目かのその回答を改めて確認するみたいにじっと聞き、優介の感情を読み取ろうとしているようだった。彼はくしゃりと顔を歪めて、その表情を隠すかのようにわざとらしく嘆息して俯いた。なんでだよ、と言う。「このままじゃ死ぬぜ、吹雪さん。わかってるよな?」
優介は、扉の向こうにいる吹雪のことを考える。
「吹雪は死なないよ」
「…………」
「俺がちゃんと操るから、吹雪は死なない」
死なせたりしない。
つぶやくようにして優介はそう言った。
「……共鳴率、落ちてるんだろ?」
「ん……ああ、わかる?」
「べつに、わかんないけど。でも当たり前だろ。光の意思を無視してアダムが飛んで、それで共鳴が整うわけない」
落ちたといっても、優介と吹雪の共鳴率は依然七十パーセント前後を保っている。今日の戦闘だって、だからこそ、吹雪の足は一時的な機能停止だけで済んだのだ。通常、アダムとイヴの共鳴率は六十パーセントにも満たないことのほうが多い。
共鳴率と生還率は大抵の場合比例する。
だから本当なら、本来のとおりの共鳴率を維持することが出来たなら、吹雪は今日負傷することだってなかったのだ。十代の言っているのはおそらくそういうことで、次第に低下してゆくふたりのバランスがいずれ死を招くと、彼はそう警告したいのだろう。
そんなことは優介にだってわかっている。吹雪だってそうだ。それでも彼は、優介に《飛ばなくていい》とそう言った。《僕が行くから、藤原はそこで待っていて》
俺は、と、痺れをきらしたように十代が言った。
「俺は、もしたとえカイザーが飛ぶなって言ったとしても、俺なら絶対に、飛ぶのをやめたりしない」
丸藤亮は十代のアダムだ。高い能力値を誇る彼は、ほんの数週間前までは単騎で神との戦闘に参加し、アダムの操縦なしに生還を果たしてきた。共鳴する相手がいなかったからだ。十代が現れるまでは。
ひとりで空を飛んでも充分に神と戦えるはずの亮は、いまは地上に立って十代のコントロールに徹している。光がそう指示を出したから。亮をアダムに、十代をイヴに。そうすることで彼らは九十パーセントをゆうに越える共鳴率を叩きだす。圧倒的な速度で空を舞い、そして神さえ翻弄する。
光が彼らを選んだ。
優介と吹雪だってそうだ。すべてのアダムとイヴは、光によって確定され、光の指示で神との戦闘を行う。その先には死が待っている。神に触れられることで、ヒトの身は変質し、死にいたる。
神に疎まれた優介は、その例に当てはまらないけれど。
同じように例外的存在であるはずの十代は、けれど優介と違い、きちんと光の指示を受け入れて、神との交戦に参加している。
みんなそうだ。医務局の広く長い廊下に、たくさんの負傷したイヴとそれに寄り添うアダムの姿が並ぶ。優介だって、ほんとうはそうだ。空を飛んで、神と戦い、ああやって怪我を負って、そうしていずれは死ぬ運命にある。今日そうであった三十一人のイヴのように。
光がそう選んだのだ。吹雪をアダムに、優介をイヴに。けれど優介は飛ぶことが出来ないままで、その代わりに吹雪はいずれ死んでしまう。神に愛され、その身体を変質させて消えていった両親のように。
治療室の扉が開いて、そこから吹雪が顔をだした。松葉杖をついた彼は優介の姿を見るなり破顔して、なぜか少し照れくさそうに「心配かけてごめん」と言った。優介は首をふる。そこでそうして痛みを負うべきは自分だったはずなのだ、本当なら。
* * *
優介が吹雪と出逢ったのは二年前だ。その日の昼に単騎で戦闘に参加した優介は、折れてしまった右腕を肩からつり下げて、医務局の待合室でぼんやりと座り込んでいた。つぎに襲撃があるのはいったいいつごろだろう、ひと月後かふた月後か、そのころにははたして自分の腕は治っているのか、治っていなかったとして、それでも飛ばなくてはならないのだろうか。そんなことを取りとめなく考えていた。
神との戦闘で負傷したのははじめてだった。それまでにも何度かひとりで空を飛んだことのある優介は、けれど、直接神の姿を見たのは今日で二度目だ。両親を喪ったあの日から、たった二度目。まだ年若いイヴばかりが集められた空中で、アダムの誘導なしに飛びながら、優介はたくさんのイヴたちが神に愛されるのを見た。花や蝶に姿を替えるもの、霧のように四散するもの、見たこともないような鉱物と化すもの、それぞれのイヴがうつくしいなにかに変質して死んでいった。
優介はそれを羨ましく思う。
神に触れられて、優介の右腕はあっけなく折れた。キィン、と凍るような音を浮かべて変質してゆくイヴたちのなかで、優介だけはただ痛みのみを与えられた。神に疎まれるとはそういうことだ。恐怖も苦痛もなく穏やかに死んでゆく人々を羨みながら、優介の肉体は戦闘によってひたすらに破壊される。
自分は両親のようにはなれない。その事実がとてつもなく寂しく、優介の気持ちに常に影を落とさせていた。共鳴者が現れれば、光から啓示を受ければ、いずれ自分はイヴとして飛ぶことになるだろう。神に触れても変質しない優介の身体は、ほかのイヴたちと違い、肉塊と化すまで飛び続けることが出来る。
暗澹とした気分で、優介は神との戦闘状況を黙々と垂れ流すテレビモニターを眺めていた。世界中で神に殺されつづけるイヴの数は、今日だけで四ケタを超えていた。いつの間にかそばに来ていた管理局の大人に「ちょっといいかな」と声をかけられて、優介は緩慢に視線をあげる。名前も知らない大人は言った。「きみのアダムが見つかった」
天上院吹雪とはじめて顔をあわせたときに、優介は「ほんとうだ」と思った。自身のアダム、あるいはイヴと対面すれば、その瞬間に光の啓示というものが降りることは、管理局の人間から散々聞かされていたことだ。ほんとうだ。光はたしかに、彼を優介のアダムであると告げていた。
「藤原はさ、もう少し僕のことを頼っていいと思うんだよね」
神と対峙するための訓練を受けながら、吹雪はたびたびそう言った。「もっとこう、ドーンと、あけすけな感じで。自分ひとりで飛ぼうとしないで、もうちょっと僕に意識預けてよ」
本当にもうちょっとだけで良いからさ、と吹雪は軽い口調で言う。もうひと月以上行っているはずの飛行訓練の成果はまったくかんばしくなく、これならば優介ひとりで飛んだほうがまだマシというレベルだった。うまく飛ぶことが出来ないまま大地に戻るそのたびに、「ごめん」と優介は繰り返す。それ以外に返す言葉がなかった。
吹雪と優介の共鳴率は平均で八十パーセント強を指している。世界中にいるアダムとイヴのなかでも突出した数値だ。だからこそ、管理局はふたりに本格的な神との戦闘への参加を急かした。焦れば焦るほど、優介はうまく飛ぶことができない。
他人にコントロールを預けることがこれほど恐ろしいものだとは思わなかった。優介には自分が吹雪のイヴであるという自覚があったけれど、これ以上は決してない最高のパートナーであるという確信があったけれど、それでも彼に身体を支配されるのは怖かった。優介の身体は、どれだけ壊れても共鳴率を落とさない。神の愛を受けても、人体が限界を迎えない限りは死にいたらない。
仮にすべてを預けて飛んだとして、神との交戦で負傷した自分を、はたして彼はどう扱うだろう。天上院吹雪という個人とともに日常を送ることで、優介はアダムとしてではない彼の本質に信頼を寄せていたけれど、それでも恐怖は消えなかった。それどころか、
「僕はね、藤原。きみのアダムになれて本当によかったって思ってるんだ。光の啓示なんていままで信じてなかったし、管理局の人が来たときも半信半疑だったけど、僕にアダムの素質があってよかった。きみに逢えてよかった。僕はきみとならきっと、最高のアダムとイヴになれると思うんだ」
親しみを覚えればそれだけ、死への恐怖はいや増した。
ひとりでなら飛べるのに、と優介は思う。ふたりになったとたん、とうに慣れていたはずの孤独さえ痛みを訴えるようになってしまった。優介は苦痛がおそろしい。死がおそろしい。吹雪と離れることがおそろしい。毎日繰り返す謝罪のあいまにそれを告げると、彼はとてもうれしそうに笑うのだった。
けれどこのままではいられない。戦闘に参加できないイヴなど、存在価値を認められない。
その日の襲来は大規模なもので、空から降りた複数の神と地に墜落してゆくたくさんのイヴたちを目の前に、優介は、自分は今日死ぬのだろうと思った。せっかく吹雪と出逢えたのに、なんの功績も残すことのないまま、両親のようなうつくしい姿になることも出来ず、肉片となって空に散らばるのだろうと思った。すでに戦うことの出来るイヴは少なく、戦闘に不慣れな若い訓練生が単騎で飛んでまた墜ちていく。優介と吹雪にも出動が求められる。高い共鳴率を誇るふたりに、管理局からの希望と期待は高い。飛べるか、と問われて、優介は頷くよりほかに選択することが出来なかった。どさりどさりと地面に墜ちてゆくイヴたちを前に、いまも空のなかで神に触れられ変質を遂げているであろうイヴたちを前に、逃げることは許されなかった。
優介は神との混戦でパチリパチリと輝きを反射させる空を見上げ、そうして覚悟を決めて、震える足を地面から離そうとした。その瞬間に吹雪の手が、そっと肩に触れた。
え、と思ったときには、優介の身体は吹雪の腕のなかにあった。優しく柔らかな手付きで優介を抱きしめながら、吹雪は言った。穏やかな声だった。
「僕はきみにもっと頼ってほしいって言ったけど、よく考えたら、それってちょっと不公平だよね」
「……吹雪?」
「自分のことばっかり棚にあげてさ、少し頭を使えばわかることのはずなのに。信頼関係っていうのは、頼りあってこそ生まれるものなんだから」
ごめんね、と吹雪は言う。
「僕が飛ぶから、きみはここで待っていて」
吹雪の手が離れてゆく。とんと軽く地面を蹴って、彼はまるでイヴのように宙を舞った。優介は、だめだ、と思う。アダムがイヴの代わりに飛ぶなんて、そんなのは光の意思に反する。
「吹雪、だめ、だめだ。俺が行く、俺が行かなきゃいけないんだ」
優介の伸ばした手をすり抜けながら、だいじょうぶと吹雪は笑った。「僕は死なない。きみに全部預けるから、死なないで必ず戻ってくる」
その言葉が優介に届いた直後、吹雪は加速して音にまぎれて空へ向かい駆けた。彼の姿が見えなくなる。優介はその場で愕然とし、けれど彼との間にきちんと横たわる共鳴を確認してそれを安定させることに意識を傾けた。神のいる空に吹雪が飛んだ。単騎飛行の訓練さえほとんど受けたことのない彼は、操作なしには容易く墜落してしまうだろう。
優介は吹雪を捕捉し、そして彼を飛ばした。空の向こう、神のもとへ、神を殺すために。自分のアダムを、生きて地上に帰すために。
* * *
吹雪の脚は思ったより治りが早く、戦闘の三日後にはすでに松葉杖も必要なくなっていた。ひょこひょことさりげなく片足を引きずるようにして、吹雪は優介のとなりに並んで歩く。管理局本部までの道のりにはゆったりとした坂が続いていて、吹雪はそれを自分の足で進みたいと言った。リハビリついでだと、そう軽やかに笑う。「きみとこんなふうに散歩する機会も、最近じゃ少なくなってきたしね」
神との戦局は悪化してきていて、いまではもう、死んだイヴの数なんてわざわざテレビに流したりしない。かつてはひと月に一度程度だった神の襲撃は、最近ではもう毎日のようにそこら中で起きていた。イヴが足りない。護る者のない街は、ただ静かに変質する。
管理局へと続く長い坂道を歩きながら、優介は空を見た。薄青く広がる穏やかな天候に、自分はなにをしているのだろうなとぼんやり考える。十代はいまもどこかを飛んで、神と戦っているのだろうか。
《藤原はなんで飛ばないんだよ》
「俺はなんで飛べないんだろう」
ゆっくりゆっくり、吹雪の歩く速度に合わせて歩を進める。両親を失って管理局に保護されてから、優介は神と戦うことだけを求められて生きてきた。神の愛を受け付けない人体は貴重だ。いずれ戦場を駆けるイヴとして育てられた自分は、けれど、いざアダムと向き合ったとたんに飛ぶことができなくなった。管理局は落胆と憤りを隠さない。あべこべのアダムとイヴに、光はなにも訴えてはこないままだ。
「僕がきみの代わりに飛ぶからだよ」
優介のひとりごとに、吹雪は苦笑しながらそう返した。そうだ、吹雪が飛ばなくていいと言ったから、僕が行くよと言うから、優介はそれを受け入れて、地上でアダムの帰りを待つだけのイヴになった。共鳴は途絶えない。吹雪はすでに何人もの神を殺しているし、何度飛んでも必ず優介のもとに帰ってきた。特別に大きな怪我をしたことだってない。吹雪は身体のすべてを任すから、それを受け取った優介はただ無心に神を殺す。吹雪は生還する。その繰り返し。
それでもいずれ吹雪は死ぬのだろうか。このままでは、いつか必ず死んでしまうのだろうか。光の意思に背いて、アダムが空を飛んでいる。それは許されないことだろうか。
「……俺は、吹雪に死んでほしくない」
そのためには飛ばなくてはならない。優介が吹雪をうしなわないための、唯一の手段はそれだ。優介が飛べばいい。死も痛みも、喪失への恐怖もぜんぶ消し去って、いまもきっとどこかで戦っているイヴたちと同じように、優介も空を飛べばいい。
吹雪は優しく笑って、優介の頭を抱きよせるみたいに軽く撫でた。だいじょうぶ、と彼は言う。「僕は死なないよ、地上にはきみがいるんだから」
そのあたたかな手に甘えている。
優介はそれを自覚しながら、それでも彼のとなりを歩いている。彼のイヴであろうとする。まともに飛ぶことさえ出来ないくせに。
神の襲撃が起きたのは、ふたりが管理局に到着してすぐのことだった。呼び出しを受けた管理室へと移動する途中で、本部の建物がまるごと揺れた。それを地震だろうかと考えるほど、優介は鈍感にはなれない。
すぐさま周囲の人間が動いた。局内にいたアダムとイヴは即座に神を捕捉し、戦闘態勢に入る。次々とイヴが飛び立ってゆく。
建物が崩壊するまえに、優介と吹雪は外へ出た。見上げた空の向こうには神がいる。神と戦う、イヴたちが舞う。
優介の知る限り、管理局が神に襲われたのははじめてのことだ。本部は周辺にほとんど建物のない僻地に存在している。神が現れるのは総じて人口の多い場所で、だから、ここには必要以上の防護設備が整っていない。防衛用に待機していたアダムとイヴは数多くいたけれど、それだけで足りるわけがなかった。おそらくは意思をもってこの地に降りてきた、神の力には及ばない。
優介は吹雪の腕をつかんだ。
俺が行く、と、喉もとまで出かかった声は、けれどやはり、吹雪のひと言にかき消される。「きみは飛ばなくていい」
「で、でも吹雪は、足が……」
「もうほとんど普通に動くよ、だいじょうぶ。ちょっと不自由だけど、そんなこと言ってる場合じゃないし」
吹雪は空を見上げて、神を睨みつけるみたいにじいと見つめて、それから優介には笑顔を向けた。いってくるね、と言って、そして彼は地面を蹴った。
周辺基地からもイヴが集まってくる。優介はまぶたを下ろし、吹雪との共鳴を確認して彼の動きを捕捉した。共鳴率がまた低下している。完治しきっていない足のせいだ。変質こそ遂げなかったものの、吹雪の右足は一度神に触れられている。それはもう、神のものなのだ。
共鳴がうまく定まらない。大気を掻き切りながら上昇する吹雪の身体をどうにか安定させながら、優介は激しい不安に襲われた。いままでこんなにも、彼の身体を上手く扱えないことがあったろうか。
イヴの数は少なく、戦況は悲惨そのものだった。共鳴が弱い者や神に意識を飲まれた者は、はるか高い空の中まで辿りつくことすら出来ずに地面に落ちる。優介は吹雪を大きく旋回させ、パチパチと瞬きながら戦闘を続ける神とイヴたちとの背後に回った。ほかのイヴたちを囮にするような真似をしたくはなかったが、おそらくいま空にいるなかで一番動くことの出来るのは吹雪だ。いまここで、神を殺すことが出来るのは吹雪だけだ。
優介はゆっくりと呼吸をする。音のように飛び交いながら、吹雪を空中で移動させてゆく。次々と傷を負い、変質してゆくイヴたちを見つめながら、神に近付くことも遠ざかることもしないままでタイミングをはかった。共鳴率がまた下がっている。
吹雪、と呼ぶと、返事があった。吹雪、と優介は何度も自分のアダムを呼ぶ。アダムでありながら空を飛ぶ、吹雪のことを思う。
神を殺そう。そうすれば吹雪は帰ってくる。必ず生きて帰ってくるのだから。
優介は両手を握りしめて、空のなかにいる吹雪を呼んだ。速度を上げて、神に近付く。
神がこちらを見た。
吹雪の足がかくりと折れた。
それと同時にバチリとなにかが弾けたみたいに視界が彩られ、優介は悲鳴を上げてその場にうずくまった。頭がひどく痛い。瞼が開かない。吹雪の声が聞こえない。
「う……ぁ、あ、ああ」
その一瞬の空白を境に、共鳴が感じられなくなっていた。
なにが起こったのかわからず、優介はがたがたと震える足を立ち上がらせ、そのまま固まりついてしまいそうな瞼を無理やりにこじ開けた。空を見あげる。神との戦いは続いている。
優介は吹雪を見失った。
「ふ、ぶき。吹雪、ふぶき、……ふぶき……っ!」
薄青い空にきらきらと輝く、一人の神と無数のイヴたち。あのなかに吹雪はいる。かならずいるのだ。変質などしていない。父や母のように、神に愛されてうつくしく死んだりしていない。優介は空に意識を集中させ、自らのアダムを探しつづけた。吹雪、吹雪と、何度も名を呼んだ。
返事はなかった。
絶望を覚えかけたそのとき、ひゅん、と風を切って、空から人が降った。すでにイヴの死体で汚れた大地に、またひとつ命が墜ちてゆく。どさり、と。
優介の眼前に広がる地上に、吹雪の身体が墜ちてきた。
自分でも信じられないくらいの絶叫を喉からほとばしらせて、優介は吹雪に駆け寄った。全身がガンガンとなにかに打ちつけられるように痛くて、両目からばかみたいに涙がこぼれるせいで彼の顔さえよく見えなかった。優介はただ叫んで、地面に叩きつけられたせいで歪んでしまった吹雪の身体にしがみついた。
吹雪が死んでしまった。
彼は死なないと言ったのに。
優介が飛べなかったせいで、飛べない自分を受け入れてしまったせいで、吹雪は死んでしまったのだ。
ごめんなさいと繰り返し泣きわめき、優介は何度も吹雪の名を呼んだ。返事はなかったけれど、代わりに彼の右手が伸びた。
すうと、優介の頬へと。
その手が肉体に触れるよりさきに、だれかが優介の肩を掴んで引っぱった。全身ごと力任せに背後に引きあげられながら、優介は、吹雪の身体が今度こそ弾けてぐしゃぐしゃになってしまう瞬間を見た。
吹雪を潰したのは十代だった。
一瞬でそこに降り立った彼は、吹雪を叩き潰したその右手をぶんと振って血を払い、それから優介に視線をやった。
「ちゃんとよく見ろよ」と十代は言う。「お前のアダムは、こんなんじゃないだろ」
十代の足元には神の断片が転がっていた。吹雪はどこにもいなくて、だから、あれはすべてまぼろしだったのだと、優介はようやく理解した。神のまやかしだったのだ。優介の絶望を取りこんで、神がそのビジョンを映しだしただけだ。
全身がズキズキと酷く痛んだ。神の断片に触れた優介の身体は、あらゆる個所が破壊されて出血していた。血まみれの両手を見つめて、優介はただ瞠目していた。吹雪は、と思った。
吹雪は死んでいない。
優介の肩を掴んでいたのは亮だった。彼はじいと空を見つめて、それから低くちいさな声で、吹雪を、と十代に言った。
「わかってる」
簡潔な返答だけを残して、十代は消えた。風のように、人には視認できないほどの速度で空へと飛び立ってゆく。
片手で優介の肩を支えてくれていた亮が、ぱっとその手を離した。優介はその場に崩れるように座り込む。空を見ていた。星が爆ぜるみたいな色を撒きながら、神とイヴの戦闘は続いていた。
吹雪、と呼ぶと、かすかに返事がある。共鳴を感じる。光はいつだって、吹雪がアダムで優介がイヴであると、そう告げていた。
ぽたぽたと涙を零しながら空を見上げる優介に、亮は「そろそろ潮時だろう」と、なにかを言い聞かせるように言った。「自分たちがどれほど無駄な時間をすごしていたか、いい加減理解したか?」
優介は頷き、それから、ごめん、とつぶやいた。
「吹雪をたすけて」
果てしなく高い空のなかで、吹雪の身体を十代の手が引っぱっている。
優介は瞳を閉じてそれを感じとりながら、ゆっくりと、ゆっくりと、吹雪との共鳴を探し出す。まだ途切れていない。臆病で愚かな自分と、優しく愚かな彼は、もう一度やりなおさなければならない。
すたりと再び大地に降り立った十代が、意識を失った吹雪の身体を抱えていた。吹雪の右足は膝から下が変質して、うつくしい氷の結晶と化していた。痛みを伴わない神の愛は、次第に溶けて跡形もなく消え去るだろう。父と母の花が最後には枯れてしまったように。
「生きてるからな」と十代は言って、吹雪の身体をそっと優介に預けた。真っ赤になった両の手で、優介は吹雪を抱きしめる。神に疎まれている身で良かったと、優介は思った。この両手が変質しなくてよかった。傷と痛みのきちんと残る身体で、ほんとうに良かった。
こうして吹雪を抱きしめられて良かった。
十代はまた一瞬で空に舞い戻ってゆく。十代だけでなく、戦闘に慣れたイヴたちが次々とそこに集っていた。空は高く、青くて、そのなかでいまもたくさんの命が神に愛されている。
吹雪がうっすらと目を開けた。彼は優介の腕の中で、きみが飛べなければいいと思った、と掠れた声で言った。きみが痛い思いをするのがいやだった。きみに、苦しい気持ちを味あわせたくなかった。
「きみが死んでしまうのがこわかったんだ」
吹雪はそう言って、ばかだろう、と自嘲するように顔を歪めた。優介は首をふる。そんなのは自分だっておなじだ。ほんとうは、最初からずっと答えは出ていた。光が告げたのだから、出逢ったその日から決まっていたのだ。
空の中で神が死んだ。
薄青く広がる戦場の下で、優介は自分のアダムを抱きしめていた。彼を地上に降ろそう。今度こそ彼に、本来あるべき場所で待っていてもらおう。
優介はちいさな声で、だいじょうぶ、と言った。「俺は死なない」
地上には吹雪がいるから、だからぜったいに死なないで、かならずここへ帰ってくるよ。
それを聞いて、吹雪は少し笑ってみせた。それからゆっくりと再びまぶたを下ろし、今度こそ意識を手放した。優介は彼の身体をもう一度抱きしめる。生きている。死んではいない。
やりなおすことができる。
光の啓示はいまもまだ、はっきりと瞬いて告げていた。優介がイヴで、吹雪がアダムだ。優介は飛ばなくてはならない。何度でも飛んで、そして神を殺そう。いずれ死んでしまう日にも、花や草や氷や土でなく、藤原優介として彼のもとへ帰ろう。
神の愛なんていらない。
この空を恐れるのはもう終わりだ。