燐光

 狭くて居心地の悪い真っ暗なトンネルからようやく抜け出せたような、妙に晴れやかな気分だった。暗闇からの解放にまだ眼球が慣れていなくて空間そのものが眩しい。けれど光りはあたたかくて、やさしくて、視界を塗りつぶすその明るさをまっすぐに直視しているとどれほどの時間も気にならないような気がした。もうだれの言葉もこの中には生まれないのではないだろうか、きっとそのほうが自然だ。そう考えて口を閉ざしてただそこに突っ立っていた俺に、けれど春奈が「お兄ちゃん」と言う。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
 そうやって声が生まれたから、真っ白く眩い世界は弾け飛ぶみたいに消えて急速に色を取り戻した。俺はそれを少しだけ残念に思ったけれど、同時にそれを行ったのが春奈で良かったとも感じている。だいたい、あのままではこうして隣に立つ春奈の姿だって見えないままだったのだ。そんなのは寂しすぎる。だからきっと、これで正しいのだろう。
 少し笑って、なんでもないよと告げると、春奈もふふと笑みを浮かべた。「ぼうっとしちゃって、変なお兄ちゃん。ほら、はやくしないと、もう影山監督いらしてるわよ」
 言いながら、急かすように軽く背中を押された。鬼道の家の広い玄関の真ん中には総帥が立っている。俺を待って、そこにいる。俺はそれがちょっと意外で、半ば春奈に連行されるようなかたちでようやく、彼の前にまで歩み出た。なぜかひどく緊張していた。おはようございます、とどうにか告げると、総帥は聞きなれたいつもの声で「ああ、おはよう」と返してくれた。俺はそれに安堵する。背後で春奈がくすくすと笑っていた。
「お兄ちゃんたら、まだちょっと寝ぼけてるみたいなんです。昨日も遅くまで練習してたし、帰ってきても、寝るまでお部屋でサッカーボール触ってるんですよ? きっと夢のなかでもサッカーしてるんだろうなぁって思ったら、なんだか小さな子どもみたいで……」
 相槌を打たない総帥にもひとりで喋りつづける春奈の腕を俺はそっと小突いた。こら、と小さくたしなめると、春奈は、ごめんなさい、といたずらっこのように肩をすくめた。「監督さんにおしゃべりしすぎると、いつも怒られちゃう」
 べつに怒っているわけじゃない。ただ、春奈の口から出てくる俺はいつだって鬼道ではないただの有人で、それが総帥の耳にまで届くのがちょっと気恥ずかしいだけだ。春奈ももちろんそれはわかっていて、だから、俺のことをからかうみたいに目を細めている。春奈は嫌味のない調子で微笑んで、総帥にぺこりと頭を下げた。「お兄ちゃんをよろしくおねがいします」
 総帥はそれに軽く首肯することで応えて、それから俺に、そろそろ行こうか、と言った。どこへ行くのだろう、と疑問に思ったけれど、俺はそれを訊ねないで頷く。さっきの挨拶みたいに変にかすれた不慣れな声でなく、きちんと総帥の前に立つ俺らしく、はい、と言う。
 総帥が歩きだして、鬼道の家の玄関を抜けて、俺はそれについてゆく。いってらっしゃい、と春奈の声が聞こえる。
「いってらっしゃい、お兄ちゃん。気をつけて帰ってきてね」

 街には人が溢れていた。
 はたして日本にはこんなにも人間が存在していてだいじょうぶなのだろうかと思うくらい、そこらじゅうがごみごみとしている。都会の街中でならまだしも、このあたりの住宅街には不釣り合いな人口密度だ。無尽蔵に行き交う人の群れに戸惑い、歩を竦ませた俺に、総帥は「こっちだ」と言った。総帥の背は高いから、他の人たちの間にまぎれても居場所がよくわかる。視界が遮られても、総帥の姿ははっきりと見える。
 けれど足がうまく動かなかった。なにか粘ついたものがまとわりついているみたいに両脚は不自由で、後ろから来た知らない人にドンと背中を押されてつんのめる。態勢を崩した俺の手に、なにか冷たいものが触れた。総帥の手だった。総帥はぎゅうと力強く右手を取って、川みたいに渦巻く人々のなかで、なんの苦もなく俺の身体を支えてくれていた。俺はびっくりして、視線をあげられない。総帥の手はとても冷たくて、その凍えるような体温は俺の心の根っこのほうにまで一気に押し寄せてくる。
 これはひとごろしのて、とすれ違う誰かが耳元でささやいた。
 これは人殺しの手。人を殺して、自分を殺して、サッカーを殺して、あなたを殺してしまう人殺しの手。
 総帥の冷たい手のひらは俺の右手をぎゅっと掴んで離さない。心臓がキリキリと痛みを訴える音を響かせていて一気に怖気立った。寒気が全身を支配する。俺は総帥のその手を振り払ってしまいたい衝動に駆られる。声を荒げて、溢れ出す恐怖と嫌悪の感情をそのまま彼に叩きつけてしまいたくなる。
 総帥はどうしたと言った。「どうした鬼道、気分が優れないのか」
 その声がとても優しく響いたから、俺は、今度は急に泣き出しそうになってしまう。俯いたままの顔をふるふると横に振って、なんでもありません、と言った。これは人殺しの手だ。総帥の手だ。俺はその冷たさをしっかりと握り返して、胸の痛みを黙りこませる。すぐにでも泣き叫んで拒絶してしまいたい気持ちをぎゅうと押し込んで、顔をあげた。総帥の顔を見た。総帥は少し考えるみたいに黙り込んで、それから、急ごうと言った。

 まるで幼い子どものように、総帥に手を引っぱられながら歩く。人ごみを抜けて、今度は広い道路のど真ん中をふたりだけで進んだ。道の脇にはたくさんの見慣れた店舗が立ち並んでいて、周辺にはまばらに人の姿が見える。ひときわ大きく建ったショッピングビルが正面に見えてくる。その壁にかかった巨大なテレビモニターには俺の姿が映っている。帝国学園の主将、鬼道有人。天才ゲームメイカー。フットボールフロンティアでは帝国のチームメイトたちを率いて見事優勝を果たし、世界大会でも日本代表チームに抜擢されて主将を任された。喝采を浴びるままにチームを世界一にまで導いた最高のキャプテン。最高の司令塔。最高のプレイヤー。モニターは総帥の姿も映し出す。鬼道有人をここまで育てあげた、日本サッカー界の誇る名監督。知らないアナウンサーや訳知り顔の大人たちが俺のことを褒めて、総帥のことを褒めて、俺のチームメイトたちのことを褒めてつぎつぎにしゃべりつづけている。
 それを見上げて立ち止まった俺に、総帥は「見なくていい」と言った。その理由は俺にもわかる。あれらがぜんぶ嘘っぱちだからだ。俺はもう、帝国学園の主将じゃない。
 けれど街にはその過ちの情報が溢れている。見渡せば人々は帝国学園サッカー部が表紙を飾るサッカー雑誌を片手に熱心に記事を読みふけっているし、ショウウインドウには地元小学生のサッカーチームのポスターが貼られていてそこに描かれたイラストはたぶん総帥を意識している。サングラスに黒いスーツ。頂点を目指せと不敵に笑う。
 巨大なモニターは何度も何度も俺のサッカーを褒め称えていて、それはつまり総帥のサッカーを認めて誇っているということで、その光景を眺めているだけで俺はけっこう心地良い。俺のことがぜんぶ嘘でもかまわない。俺のことは嘘でも、それで総帥のことが褒められるのなら俺は嬉しい。だってほんとうなら、これは現実になるはずだったのだ。あの日、俺がこの手を離さなければ。
 けれど総帥の冷たい手は俺をモニターから遠ざける。あんなものを見つめる必要はないと淡々と言い放つ。ふらふらと引っぱられながら、俺は苦笑した。ちょっと名残惜しい気がするけれど、しかたがなかった。どちらにしたって、嘘の言葉が並ぶのをずっと眺めているより、総帥のあとをついて歩いているほうが俺はよっぽど楽しいし嬉しいから、また並んで歩きだすことにした。

 道はまっすぐつながっていた。総帥がどこへ向かおうとしているのか相変わらず俺にはわからないままだったけれど、それを訊ねようとは思わなかった。総帥は無口で、なにかを語り合ったり無邪気に声をかけたりするのには俺は成長しすぎていた。あるいは彼と出逢ったばかりのころのように幼い感情をそのまま露出してしまえたのなら、こうしてつないだ手をいっそう引き寄せて、もっと近い距離で歩み寄れたのかもしれないけれど。
 冷たい手に導かれながら、どこまで続くかわからないまま歩を進める。疲労は覚えなかったけれど少し休憩を取りたいなと俺が感じはじめると、総帥はぴたりと足を止めた。不自然なくらい突然に、まるで全部の感情を見透かすみたいにして俺の顔をじいと見つめると、今度はきょろきょろと視線を彷徨わせる。どうしたのだろうと思っていると、総帥はくるりと踵を返して来た道を戻りはじめた。
 そのまま迷いない足取りでゆっくりと見慣れた街並みの中をふたりで歩いていると、やがて戸口のちいさなラーメン屋の姿が見えてくる。通い慣れた雷雷軒。暖簾をくぐると響木監督の姿はなくて、けれど代わりにおいしそうなラーメンが一人分用意してあるので俺はそれを食べることにする。
 熱くておいしいラーメンで胃を満たしながら、総帥は魔法使いなのだと思っていたころがあったことを思い出した。幼い俺が空腹を感じたときや疲れたときや、あと怪我を隠してサッカーの練習をしていたとき、そういうのはすべて総帥にはお見通しだった。彼はちょうどいまみたいに黙ったままで俺に食事を用意してくれたり、疲労の蓄積がどれほど試合に影響を及ぼすのかを静かに言い聞かせながら俺を家まで送り届けてくれたり、ときには厳しい言葉で俺の隠そうとした怪我について叱咤してくれた。俺の考えるいろんなことが総帥には筒抜けで、だから、きっと彼はなにか特別な魔法を持っているのだと、幼いころの俺はひそかに信じて疑っていなかった。この人に隠しごとはできない。魔法は信じなくなっても、それはいまでも変わらないのだと思った。
 ラーメンを食べているあいだ俺は総帥の手を離さなくちゃならなくてそれが少し寂しい。全身を温める麺とスープの温度に慣れた手のひらが熱くて、店を出てからもう一度、今度は俺のほうから手を伸ばして総帥に触れた。冷たい手。総帥はちょっとだけ驚いたみたいだったけれど、なにも言わずにまた歩き出した。俺はまた少し泣きだしそうな気持ちになるけれど、それはさっきみたいな悔しさに満ちた攻撃的な涙じゃなくて、もっと暖かなもののようだった。それでも俺はそれを飲みこむ。もっと幼ければ良かった。この人と出逢ったばかりの頃のように俺がまだちいさな子どもだったなら、きっともっと素直に泣きだして、懸命に言葉を尽くせただろう。

 ずっとずっと歩いて、家を出て住宅地を抜けて大通りを離れて俺はもう知らない景色を見ていた。時間が経つほど人がどんどんと減っていって、いまはもうどこにも誰もいなかった。むき出しの地面がどこまでも続く、とても広い大地のうえを、俺は総帥とふたりきりで歩いている。生ぬるく吹き抜ける風が真っ青な空をかき交ぜて雲の形がわらわらと目に見えて変化してゆくのを見上げながら俺はこの旅がどこまで続くのかを考える。
 ずっとずっと握りっぱなしにしている総帥の手はやっぱりずっとずっと冷たいままで、俺はこの人に体温を分けてあげられないことが悲しく思えていっそう強く指先に力を込める。そうやって強く触れ合っているはずの総帥の手はけれど、俺のぬくもりを奪わない。心臓だけはまだキリキリと痛んだけれど、それは俺に必要なものだった。俺と総帥を繋いでいる痛みだった。
 総帥が死人だということに俺はもうとっくに気が付いている。たぶん最初から。鬼道の家の玄関に、彼の姿を見つけたときから。ほんとうはきちんと気が付いていて、だから、いっそうこの手が冷たいままであることを悲しく思う。この旅がいつまで続くのかを考える。
 これが終わるときに俺はきっと死んでしまうのだろう。
 死者に連れられてゆく道の終着点がどこにあるかなど知らない。けれどそこに生の光を見いだせるとはどうしても思えなかった。人殺しの手に導かれて、俺はきっと死んでしまう。これはいつか俺を殺す手だから、それをそうと知ってついてきたのは俺自身だから、かまわないと思う。もう振りほどかないと決めたのだ。
 総帥はじっと前を見て俺の手を引いてゆっくり歩いているからその表情はあまり見えない。もともとサングラスに隠されている目元がよりいっそう遠くにあるような気がする。あなたは俺を殺すのですか、そう問いかけたくなるのを喉もとで抑え込みながら考える。その返答がイエスであることを俺は望んでいるんだろうか。春奈は帰ってきてねと言ったのに?
 総帥の向かう先に淡く薄暗い闇が見える。あの道の先に死が待つのだろうかとぼんやり思う。いまなら引き返せるのだろうけれど、俺はこの手を離したくないから黙って総帥のとなりを歩いた。どれほどの時間をそうしていただろうか、総帥はふいに立ち止まって、鬼道、と俺を振り向いて言った。
 顔をあげるとそこにはまだまだ遠くにあるはずだと思っていた暗がりがのったりと広がっていて、俺はこのふたりきりの旅が終わってしまうことを知る。
 俺は総帥の手を離さなかった。
「お前はどこへ向かいたい」と言って、総帥は目の前に広がる冷たい空間を眺めやった。「お前は、どの道を選ぶ」
 俺の前にあるのは寂しくて悲しい静かな闇だけだ。選べる道なんてひとつきりで、そこへ足を踏み入れればきっと心が壊れてしまうくらいの絶望が待っているのだろうと俺は思う。そこには彼の死が横たわっているのだ。総帥は俺の手を離さない。人殺しの冷たい手は俺を捕まえて解かない。
 俺は口を開く。たとえば、そう、たとえばあの日、総帥に別れを告げたあの日、決別を覚悟したあの瞬間に、何度時間を巻き戻されても、俺はきっと同じことを繰り返すだろう。あなたの指示には従わない。あなたを帝国の監督と認めるわけには、もういかない。
 けれど俺は口を開く。決して震えることのない、あなたに向けるのに相応しい俺自身の声で言う。
「俺は、総帥のいる道を行きます」
 悲しい闇が手招いていた。総帥をまっすぐに見つめると、サングラスに隠された両目が嬉しげに細められた気がした。この男のもとには決して戻らないと、そう決めたけれど、たしかに俺はそう決断したのだけれど、その一歩を踏み出すことにためらいはなかった。俺は総帥に導かれてゆっくりと暗闇に足元を浸してゆく。もう一度、狭くて居心地の悪い真っ暗なトンネルに舞い戻るのだ。そこが総帥のいる場所ならきっと俺は耐えられる。なにも知らずただ彼を盲信していただけの幼い自分とは違う。理解と受諾を、俺はもう知っている。衝動に任せて切り離すばかりが覚悟ではないということを、俺は総帥と離れて学んだのだから。
 けれどそうではなかった。
 薄暗い足元は決して狭くなく、苦しくなく、ただ静かなだけだった。総帥の手を握ったままで真っ暗な世界に佇んでいると、突然視界が明るくなった。ああこれはさっきといっしょだ、と俺は思う。真っ暗なトンネルからようやく抜け出せたときの眩さによく似ている。
 違ったのは、明るさのなかで景色が色を取り戻すための合図だ。
 それは春奈の声ではなく、高らかに響くホイッスルの音と周囲から立ち上った歓声だった。耳に慣れたざわめきと身体に馴染んだ気配。ゲームがはじまる、その合図。
 ‐‐俺はサッカースタジアムに立っていた。
 フィールドにはチームメイトと、相手チームと、それからサッカーボールがあった。
 悲しいくらいに優しい暗闇はどこにも残っていなくて、総帥の冷たい手のひらの感覚もなくて、俺は動揺して周辺を見回す。チームメイトは動き出していた。サッカーの試合がはじまっていた。総帥の姿はどこにもない。
 俺はわけがわからなくて、ゴーグルに囲われた狭い視野のそとに総帥がいるような気がして、けれどそれがありえないことにも気付いていてただひたすらに視線を彷徨わせる。どこかに、どこかにいるはずだ。だってついさっきまで、この手を握っていたのだ。この手でたしかに、握りしめていたのだ。
 振り返るとゴールには円堂がいた。
 円堂守が、じっと俺を見ていた。
 すべて射すくめるような、それと同時に包み込むような、鋭く力強い眼差しがまちがいなく俺の姿を捉えていた。俺はいますぐ彼に駆けよってすがりつきたくなるけれど、試合はもうはじまっている。
 サッカーをするんだ。
 総帥とおなじ道をゆくと決めたのだから。
 円堂は俺のことをじいと見つめるその視線を外すことなく口を開いて大きく息を吸い込んでそして言った。俺の名を呼んだ。
「鬼道!!」

* * *

 真っ白な視界のなかにたくさんの顔が並んでいる。
 俺はぼんやりとそれを眺めて、そうして何度か瞬いた。一番そばにいてこちらを覗きこんでいた春奈がわっと泣きだして縋るみたいに俺の身体に覆いかぶさって来た。お兄ちゃん、と愛しい声が言う。お兄ちゃん、お兄ちゃん。
 全身が鈍い痛みと気だるさに包まれていた。俺はゆっくりと息をはいて、それから、ただいまと言った。おまえの言ったとおり、ちゃんと帰ってきたよ。「ただいま、春奈」
 声をあげて泣きじゃくる春奈の頭をそっと撫でながら、俺はここが病院であることを理解する。俺は白い病室でベッドに横たわっている。それを覗きこむみたいに並んでいる顔は円堂や豪炎寺や風丸やヒロトや吹雪たちチームメイトで、彼らはそろって安堵の表情を浮かべていた。
「……すまない、状況がわかっていない」
 掠れた声で俺がそう言うと、円堂は、胸を撫でおろしながらも呆れたようなようすで苦笑した。「おまえなぁ」と漏らしたその声はさっき、ほんとうについさっき、俺の名を呼んだのとまったく同じ声だった。
「落ちたんだよ、階段で足を滑らせて。なにも覚えてないのか?」
「なんとなく、記憶があるような、ないような……」
 とにかく、なにか事故を起こしたらしいことだけはわかる。世界大会決勝戦を前にして、とんだ失態をおかしたのだということも理解した。感情任せの円堂の説明と、それを補足する豪炎寺の淡々とした声音を聞いているうちに、次第に認識が明確になってゆく。春奈が泣き腫らした目できっとこちらを睨んだ。「いっぱい、いっぱい心配したんだから!」
 どうやら俺は小一時間ほど昏睡状態にあったらしい。鬼道が目を覚ましたぞ、と風丸が廊下に向けて声を発して、それを合図にして見慣れた顔がどんどんと室内に増えてくる。立向居、虎丸、飛鷹、壁山、目金、木暮、それから医者や看護師たちも。そのなかに総帥の顔を探したけれど彼はもちろんどこにもいなくて、俺は一度まぶたを降ろした。
 あの人のいないこの景色には薄暗い悲しみが満ちている。
 ひとつだけ息を吐いてから、俺は目を開けた。狭い病室はもう人でいっぱいで、それらをかきわけて医者が俺のそばまでやってくる。気分はどうかとか、ひどく痛む個所はないかとか、記憶はある程度はっきりしているかとか、そういった質問を浴びせてくるので俺はそれらのひとつひとつに答えを返してから、訊ねた。
「サッカーはできますか?」
 俺の身体は、俺の足は、なにもおかしなことになっていませんか。
 不安を覚えながら問いかけた俺に、医者はほほえんで、だいじょうぶですと言った。念のため一晩入院してから、二、三日は無理をしないようとだけ付け加え、先生は看護師を伴って病室を出て行った。
 同時にどっと安堵の気配が広まって、たくさんの声がかかってくる。良かった、安心した、とみんなが頬をほころばせた。本当に心配をかけたのだなと思い、俺はそれぞれに謝罪や感謝の言葉をぽつぽつと返す。打ち身で身体が痛むから、起きあがるのは諦めて、ずっと横になったままだった。
 もう一度看護師が顔を出して、もう少し静かに、と顔をしかめるのと、久遠監督がそろそろ頃合だろうと口を開くのがほとんど同じくらいのタイミングだった。「見舞いは終わりだ。練習に戻るぞ」
 はぁい、と口々に返しながら、がやがやとチームメイトたちが去ってゆくのを見送る。あっという間に空っぽになった病室でぼんやりと天井を眺めていると、すこししてから、春奈がひょこりと戻ってきた。
「どうした?」
「お兄ちゃん、寂しいかなって思って」
 照れたように笑ってから、春奈は、はい、とサッカーボールを差し出した。「蹴っちゃだめよ? 触るだけね。これ持ってたら、ちょっとは安心できるでしょ?」
「…………」俺はゆっくりと身体を起こして、春奈からボールを受け取った。両手でしっかりとそれを抱える。「……ありがとう」
 どういたしまして、と微笑んで、春奈は病室を出ていった。かと思うと、もう一度顔を出して、ぜったい蹴っちゃだめだからね、と念を押す。「これからいくらでもサッカーできるんだから。ちょっとのあいだだけなんだから、ちゃんとガマンしなくちゃだめよ」
 俺が苦笑しながら頷くと、春奈は満足げににっこりと笑って今度こそ行ってしまう。俺はそれを確認してから、ゆっくりとボールに額を寄せた。熱を持たないサッカーボールはひんやりと冷たかったけれど、俺のぬくもりを奪うことはしなかった。
 同じ道をゆくのだと思うと、涙はもう溢れてはこなかった。

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