並んで歩くこと - 1/3

 いったいなぜこんなことになっているんだろう、と阿散井恋次は考えた。
 なにごとも過程なくして結果はない。この珍妙な事態だってもちろん、積み重なったたくさんの出来事が渦を成したその最終段階であるに違いないのだ。それをひとつひとつ解きほぐして、ようやくこの現実に向き合うことができるに違いない。と、ごくごく真剣に恋次は思う。
 場所は高級料亭。
 見るからに高貴さの漂う、おそらく己には一生縁のなかったはずの上品な料理が卓上を飾り、脇にははたしていくらするのか予想すらつかないような酒がちょこーんと鎮座している。あまりに広すぎる個室は静かで、座敷には恋次の心臓の音だけがばっくんばっくんと転がり続けていた。
 机を挟んで向かい側。ただただ黙って、パーフェクトとしか言いようのないまっすぐな姿勢で正座しているのは、よくよく見なれた、しかし直視するにはいささか高貴すぎる上司である。
 朽木白哉。
 伏せ気味の視線をこちらにやることなくただ気難しげに酒を睨みつけたままの彼こそが、恋次をこんなところまで連れて来た張本人であった。
「…………」
「…………」
 張本人であるはずなのだが、しかしなかば引きずるようにして恋次をここまで連れこんだ彼が、なにかの事情を説明しようという気配は一向にない。
 びっしゃーと音が響きそうなくらいに張りつめた緊張感の中で、恋次は大変混乱していた。なにゆえこんな自体になっているのかさっぱりわからない。はたしてなにが悲しくてこんな不慣れな場所で、隊長と副隊長が正座で向き合っていなくてはならないのか。
 ――否、隊長と副隊長、という立場にすらおさまらない。
 今日の恋次は非番であり、休日であり、私服である。白哉は隊長という立場とその頑なさゆえに休暇をとることはほとんどないが、しかし同様に私服である以上、仕事とはまた別の意識があるということであろう。
 言うなれば、まあ、デートとか、なんかそういう、もの、なのかも、しれない。
 そう考えると浮かれそうにもなるというものだが、如何せん少々固すぎる。談笑するような雰囲気ではまったくないし、どちらかというと個人面談とか進路指導とか雇用面接とか容疑者取調とかそういう感じの気配が濃厚だった。白哉相手にその例えは決して笑えるものではない。
「…………」
「…………」
 沈黙が恐ろしく重い。
 全身に圧し掛かる緊張感と、慣れない正座に痺れはじめてきた両足を必死でなだめながら、恋次は考える。
 いったいなぜこんなことになっているのだ。

* * *

 ――さて、ことの起こりというものがどういったタイミングで訪れるのかはさておいて、とりあえずのスタート地点を設定するならこのあたりであろう。
 恋次が半ば拷問めいた緊張感に支配されるその前日、彼は副官としてはわりに合わない類の仕事を抱えながら瀞霊廷内各隊舎を行ったり来たりしていた。なんということはない、日々の雑務の総まとめといったところである。本来ならもうすこし末の席官が担当しているのだが、いくら副官業務にも大分親しんできたとはいえ、自他共に認める有事派の彼である。自らの足で走り回るのは良い気分転換になると言い張り、手間のかかるお勤めは進んで引き受けている節さえあった。机にかじりつくよりよほど性に合っている。
 しかし日ごろそんなことを口にするものの、隊舎廊を歩む恋次の足取りは決して軽やかではなかった。自覚のないところで眉根は寄り、口からは知らず溜息が洩れている。あーでもないこーでもないと唸る彼の頭の中を支配しているのは、他でもない六番隊の長のことであった。
 尸魂界を混乱の境地に陥れた旅禍襲撃騒動、もとい藍染たちの反乱事件から早しばらく。いまだ動揺は消えきっていないものの、隊長のいなくなった三番、五番、九番を含め、護廷十三隊各部がどうにかこうにか折り合いをつけはじめているこの頃である。
 多くの負傷者、犠牲者、破損物を生み出した先の騒動の後片付けに帆走していた諸隊員にも、ようやく心の余裕というものが生まれてきはじめていた。無論、副官であり騒動の渦中にあった恋次も同様のこと。
 つまり、なんかいろいろとごちゃごちゃしたことを、冷静に見直す時間というものが出来てしまったのだ。困ったことに。
 副隊長ともあろうものが、隊長に刃を向けたという事実。
 これに関して恋次へ処罰が下ることはなかった。罷免どころか移動はもちろん、死神としての立場を失うことすら覚悟して向かった戦いであったのにもかかわらず、結果としてなんのお咎めもなかったのである。四十六室、そして三人もの隊長損失が瀞霊廷全体の混乱を呼んだとはいえ、副官としてのキャリアもまだ浅い自分が、いまだ六番隊にいられるのは奇跡としか言いようがなかった。まったく、どさくさまぎれとはまさにこのことだ。
 要するにまったく予期していなかったのだ。一度本気で殺し合っておいて、その後もそばにいられるとは。
 後のことなどないも同然の思いだった恋次は、おかげさまで絶賛狼狽中だった。思いっきり喧嘩しきったものの、オチが見つからなくて間隔を掴みそこねている次第である。後悔はないが、妙なわだかまりは確実に横たわっていた。
 同じように刀を向け合った一護とはさほどの溝を感じることもないのだが、おそらく相手の性格だとかも起因してくるのだろう。どうも無口というか読み取れないというか、はたして当の朽木白哉がどのように感じているのかさえ、恋次は理解し切れずにいた。
 旅禍たちが現世へと戻ってからこちら、白哉の怪我が治るまで長く病室に通い詰めたものであるが、結局かのひとの真意はつかめずじまいなのである。誤解はとけた。ルキアに向ける姿勢が彼なりの不器用な愛情であることも理解できた。ならばなんの問題もないといえばそのとおりで、むしろ一方的にねちっこく逆恨みをした挙句、現場の混戦状況を良いことに勝手に吼えて息巻いていた自分の相手をしてくれた白哉には頭の下がる思いである。
 結果的に『ルキアが無事ならそれで』という雰囲気で落ち着いてしまってはいるものの、傍目から見ればどう考えてもただの離反だよなぁとしか思えなかった。なんにせよ、『直属の副官に斬られた隊長』という実に不名誉な看板を掲げさせてしまったのに違いはない。
 うぬう、と恋次は声に出して唸る。
 ぐだぐだと思考はめぐるが、結局のところ、これだけのことを仕出かした自分がはたして彼の隣に立っていてかまわないものなのかどうか、というのが目下の心情であった。
 もちろん、誰かに「ならその立場を譲れ」と言われれば、それはそれでキッパリとお断りなのだが。
 ただ、上の命令だとか単なる人員不足だとか、そういった理由如何に問わず。
 彼からひとこと「必要だ」という声があれば、それだけで堂々と立つことができるのになぁ、と、そんなことを思ってしまうわけだった。めめっちい話である。
 そんなことを止め処なく考えているおかげで、さくさくと捌いて回る書類の記憶は曖昧だ。六番隊舎を出発して、現在十三番隊舎。間にあったはずの六舎ではたして誰に声をかけられなにを話したか、いまひとつ不明瞭だった。こんなことではいけないと気合いを入れなおし、恋次は一度歩を止めて頭を振る。あまりぼんやりしていては、十三番隊に所属している幼馴染になにを言われるかわかったものではない。原因が彼女の義兄に関する悩みでは尚更だ。
 と、隊長室へと向かう足を、恋次はぴたりと止めた。もとより病弱な十三番隊の長は、先立ってのいざこざでいささか頑張りすぎたこともあって、ここ数日また床に伏せていたはずである。自宅で休養しているか、あるいは四番に世話になっているか、――どちらにせよ、隊長室へ向かっても自分の仕事は回らないだろう。
 しかし事情あって副隊長も空席のままの十三番隊だ。隊長、副隊長ともに不在であれば、続く三席を伺うのは道理だが、しかしここの二人の三席は常に隊長のそばに在ることを誇りとしている、浮竹隊長親衛隊のような存在である。下手をすれば浮竹邸にまで赴くことになるかもしれない、と恋次は手元の書類を確認した。四席あたりに押し付けてだいじょうぶなものかと思案する。
 不意を突くようにその瞬間、真っ昼間に似つかわしくない濃い空気がふっと鼻をかすめた。のたりと風を混ぜるような強い酒の香り。嗅ぎ慣れたそれは、しかし当たり前だが、隊舎の中庭に広がるべき匂いではない。ましてやここは十三番隊舎。かの飲兵衛・京楽隊長の締まる八番隊舎ではないのだから。
 思いながらもその臭いを追って先をのぞきこみ、恋次はなるほどと納得する。
 丁寧に作られた、緑の深い庭園。身体の弱い浮竹のため、高名な庭師が腕によりをかけて整えた清浄なる空間のそのどまんなかで、ふたりの男性がまるで日向ぼっこでもするかのように座り込んで談笑していた。
 片や、この隊舎の長たる浮竹十四郎。もう一人は言わずもがな、昼間から酒をあおる自由人、八番隊長・京楽春水だ。
 だれから咎められることもなくぼんやりとすごす二人の姿を見、恋次はひそやかに息を吐いた。なんとものんきに伺えるそのようすは、けれど決して場にそぐわぬものではない。
 長く病床にあった浮竹の体調が、いくらか回復を見せているのだろう。大方のところを察するに、隊長業務を気にして隊舎にまでやって来た浮竹を、気分転換とでも称して京楽が連れ出したといったところか。身体は弱いが生真面目な十三番隊長は、ことあるごとに無理がたたって昏倒する。
 微笑ましいなぁ、と事情を悟って眺める恋次の不躾な視線に、しかしこちらに気付いた彼らは気さくに片手を上げてみせた。
「やあやあ、副隊長自ら書類管理かい? 大変だねえ」
「人手不足なんすよ」
 笑み返しながら頭を下げて近づいた恋次に、京楽は「若いっていいなあ爽やかだなあ」などと誰にともなく呟いて酒をあおった。ふはー、と息をつく姿は酔っぱらいのオッサンそのものだが、同時にどこか洒落っ気というか、気品めいたものが漂うのが、この男のすごいところだと恋次は思う。
「あ、ひょっとしてうちにも用事あった? 悪いねぇ、七緒ちゃんに全部任せっぱなしでさあ」
 はっはっは、と無責任に笑う京楽を呆れたふうに浮竹が小突く。まだ本調子ではないのか、若干力のないふうに見えるが顔色は悪くないようだった。
「分かっているならこんなところで油を売らず、隊舎に戻ってやれ。甘えてばかりでは、いくら辛抱強い彼女もそのうち爆発するぞ」
「えーっ、だってうちで飲んでると七緒ちゃん怒るんだもん。きみんところは良いよねぇ、もう飲み放題。あ、阿散井くんも一杯どう? 美味しいよー? ほら座った座った」
「や、仕事中っすから……」
「またそんな固いこと言ってぇー。若いんだからもっとこう、パーっと生きよう! だいじょうぶ! ね!」
 とてつもなくいい加減なことを言いながら、恋次の肩をばっしばっしと叩く京楽は、間違いなくただの酔っ払いのオッサンだった。気品とかはない。本当にない。
 しかし酔っぱらいだからとよその隊長を邪険にするわけにもゆかないのが縦社会の辛いところである。助けを求めるように浮竹を見やると、彼は肩をすくませて「京楽」と友人の名を呼んだ。「前途ある若者の仕事を邪魔してやるな。困っているじゃないか」
「だってなんか元気なさそうだからさあ。前途ある若者がそんなふうじゃ、オジサンたちまでめげちゃうよ」
「そんなことを言って、飲み相手が欲しいだけだろう」
 穏やかだが窘めるような口調でそう言われ、京楽はしぶしぶというふうに恋次に絡むのを諦めたようだった。口を尖らせる彼に「また今度誘ってやってください」とフォローしつつ、恋次は本来の用事であるところの浮竹へと向き直る。
 今度の騒動に影響を受けての各隊員の人事異動が主な案件であったが、十三番隊はもともと旅禍騒ぎにあまり関わっていないためさほどの手間はかからなかった。ルキアのことは当然別件として処理されているし、いまは事務的にとんとんと話を進め、必要書類をまとめて手渡して任務完了である。
 世間話のいっさい混じらない律儀な対話だけが続き、しかし口頭でざっと確認を終えてから、ふいに浮竹が「そういえば」と言った。声色が身内へと向けるそれに変わる。「白哉はどうしてる? 元気そうかい?」
 まったくの不意打ちで向けられた名前に、ぎくりと全身が反応した。しまったあからさま過ぎた、とは思うものの、抵抗空しく視線が泳ぐ。敏い彼らがそれに気づかぬはずはなく、「いや、ええと、た、隊長、ですか」ともごもごと返す恋次に、京楽などは隠すようすもなくニヤニヤと笑って見せた。
「あー、なに、揃って思い悩んでると思ったらそーいうこと? やーらしいなぁもう」
「ば、や、やらしいことなんてなにもないですって!」
 思わず大声で返すが、京楽はいっそうニヤつくばかりだ。悲しいかな、恋次の悩みは彼の言うようなやらしい事態では一切なく、もっとしょぼくてめめっちいというのに。過度な期待をされては困る。
 もっとも、あの白哉に向かって「隣に在ることを望んで欲しい」などと、そんな利己的な欲求を抱えている時点で自分は充分にやらしいのかもしれなかった。もうワンステップ向こうに進めないという点では、めめっちいことに変わりないが。
 だってどうして伝えられる。思い切りよく殺し合いまでした相手に、好いているなどとどのタイミングで言えば良いのだ。唯一言葉として発せられそうだった最高のチャンスは、空気を読まない黒崎一護によって破壊されたままそれっきりである。ああ、あの日の病室が遠く恨めしい。
 本格的に悔恨で軋みそうな脳みそを無理矢理現実に引き戻しつつ、しかし思いっきり動揺しまくる恋次に浮竹がゆったりと微笑む。まあいろいろあるんだろうね、と年上の包容力で温かく見守られてしまっては、若輩者としては小さく縮こまることしかできなかった。
「な、なんかすみません……」
「いや、こちらこそすまない。けれど、そうだね、きみにいろいろあるように、白哉にもいろいろあるだろうから」
 大変だとは思うけれど気をつけてやってくれ、と浮竹は言ってすこし笑った。そういえば、京楽は「揃って思い悩んでる」と言ったのだ。
「……朽木隊長が、なにか悩んでいるってことですか?」
 たしかに大抵の場合なにかを睨みつけるように厳しい顔つきをしている彼だが、しかし態度に見えるほど変わった様子を感じることはなかった。少なくとも、恋次の目から見る朽木白哉はいつものとおりだ。昨日も、今日も、おそらく明日も。
「…………」
 隣に立ちながら、一生かかってもかの人の変化に気づきはしなさそうな自分に、恋次はずどんと黒い影を背負った。副隊長ともあろうものが、以下略、といった具合である。いや、だって本当にびっくりするくらい無表情なんだもんあの人。
 そんな恋次の様子をどこか面白そうに眺めつつ、「重症だね、こりゃ」と京楽が苦笑う。「だーいじょーぶだよ、僕だって浮竹に言われるまで全ッ然気付かなかったもん。あの坊っちゃんの感情を読み取るなんて能力、百年単位で会得するよりほかないんだから」
 めげずに頑張んなさい、と肩を叩く。酒臭くもありがたい慰めに、恋次は大人しく何度か頷いた。気付ける気付けないはともかく、気を使ってもらっていることは確かなのだから、落ち込むのは筋違いというものだ。
 余計なことを言ったかな、と恋次を気使う様子で、浮竹はけれど「副官という立場にプレッシャーをかけるつもりはないんだけど」と前置きしてから続けた。
「でも、やっぱり多くの時間を近い距離ですごす仲間だから。なにがあったのかは知らないけど、出来るなら相談に乗ってやってほしいんだ。――あんなことがあったばかりだし、気持ちが弱るのは仕方ないのかもしれないけれどね」
 あんなこと、という言葉に含まれた意味を、恋次は瞬間で理解する。三人もの隊長の裏切りによる衝撃は大きく、恋次自身の大事な友である吉良と雛森も、いまだ心に深い傷を残したままだ。隊長と副隊長の揺るぎないはずの絆は、けれどあっけなく千切れたまま。
「副官のありがたみは俺たち隊長が一番よくわかってるから。白哉だって、きみの存在に感謝してるはずだよ。……少しばかり分かりにくいけどね」
 最後にちょっとだけおどけるような表情を見せた浮竹の言葉を、恋次は深く胸に刻む。「ありがとうございます!」と頭を下げると、大先輩は二人、そろってどこか似た雰囲気をもつ優しい笑顔を恋次に向けた。
「いやあ、若者のまっすぐな姿勢というのは本当に良いねぇ浮竹。心が洗われるような気分だよ」
「まったくそのとおりだ。俺たちみたいな年寄りが二人で心配したところで、白哉も鬱陶しいだけだろうしなぁ」
 はっはと笑うおっさんたちに自虐的な空気はなく、こういう優しい人たちに幼少から相手をしてもらっていた白哉がなぜあんな調子で育ったのか、いっそ不思議なほどだった。
「ボクらじゃ『悩みなんか酒飲んで忘れっちまえー!』くらいのアドバイスしかできないもんねえ」
 前言撤回。なるほど、こういう教育方針に反発した結果のあの性格なのかもしれない。

 元気とお茶目さをわけてもらった恋次は、何度も頭を下げて十三番隊舎を後にした。いくらか軽くなった心と一緒に帰るのはもちろん、自分の居場所たる六番隊だ。
 けれど隊長室の目前まで戻ってきて、ふいに恋次は思う。
 それで結局、隊長はなにに悩んでいるのだろう、と。

「失礼します、隊長」
 声をかけて襖を開く。広がるのは、恋次がかつて所属していたことのある五番隊、十一番隊とは全く異なる空気。六番隊長室はおそらく、壁から床の塵ひとつに至るまで、他の隊舎とは別な素材でできている。
 あるいはこの室の主人の存在が、本来同一のそれらをまったく高貴な質に変換させてしまうのかもしれない。そんな馬鹿げたことを本気で考えるほどに、白哉の醸す気配は強く空間そのものに影響を与えていた。
 はじめてこの空気に触れたとき、はっきりと理解したのを覚えている。ルキアが兄のことをひどく畏れ、それでいながら羨望し、彼に恥じぬように生きることを選んだその理由。
 ――たしかに、この男に「選ばれた」自分なら、胸に巣食う卑屈な感情などかなぐり捨ててでも強さを求めずにはいられないだろう。己を誇り、その立場に恥じぬ自分を手に入れたいと、強く望みを抱く。圧倒的な力の前に平伏すことの陶酔と、同時にわき上がる高みへの意欲。劣等感にも似た重圧から立ち上がり、同じ位置に昇りたいという欲求。
 越えたい、と、ここまで極端に渇望するのは、さすがに自分だけだとは思うが。
 あれだけの激闘のすえに伸されてなお、恋次を支配するこの男を越えるという思いに変わりはない。この貌人に認めさせるほどの強さを手にいれ、堂々と護ることの出来る力がほしい。背を預け、身を任せ、信頼という名の盾を手に、副隊長として隊長を支えることの出来る力が。
 しかし、だ。
「――っつーことで。個人的な意見としては、他はともかく、十二番隊に関しては一度見直しとくべきかと思います」
「そうか」
 長々と続いた報告に、簡潔なひとことだけを返す。淡々と書簡に目を通し、こちらをちらりとも見はしないこの男が、はたして恋次を必要とする日など来るのだろうか。常のこととはいえ、ようよう熱さを取り戻したはずの気持ちが、またもしょぼんとしぼんでしまいそうになる。たかが業務連絡、されど業務連絡。
 深手を負って病室で伏せっていたときは、どことなく暖かみのある風だったのになぁと、数日前を懐かしく思い出す。隊長服が悪いのか、威圧感としか呼びようのない重圧は、今日もどしーんと遠慮なく圧し掛かってきていた。あまりの重さに逆に背筋の伸びる思いさえするが、そこは持ち前のマイペースを全力で保持。常に緊張しているようでは、彼の補佐は務まらない。
 それにしたところで、いつにも増して空気の冷たさを感じるのは、恋次自身の気の持ちようか。あるいは、……ひょっとしたらこのいつもと違う感じこそ、浮竹たちの言っていた「白哉の悩み」に通ずるのかもしれない、と恋次はひそかに思った。言われてみればたしかにいつもより少し重圧が濃い。なんの確証もない、ただの野性的な勘ではあるが。
 先の一言で会話は締めくくられたらしく、白哉からそれ以上の声を聞くことはなかった。黙々と机に向かう彼がこちらをうかがう気配はやはりなく、そっちがその気ならと言わんばかりに恋次のほうから白哉を観察してみることにする。あいかわらずの整った容貌には一縷の隙もなく、まじまじと見つめるだけで、なにか悪いことをしているような気分になってきた。すぐに視線をそらす。
 はたしてこの完璧な男の抱える悩みなど、恋次には遠く届かない世界の話ではないだろうかと思えた。
 恋次の無遠慮な視線に気づいていないわけはないだろうが、白哉からなにか反応が返ってくることはない。咎められたいわけではないが、それはそれでさみしいものだった。「なんだ」とか「どうした」とか、そんな簡単な一言さえないのだから。
 白哉だって、きみの存在に感謝してるはずだよ。
 浮竹の言葉を思い出し、反芻して、よしよしと自分を慰める。精々邪魔にならないように、今は退散するのが正解なのだろう。仕事だってまだ山積みだ。
「失礼します」
 一礼し、踵を返す。百年単位、百年単位、と心中で呟きながら隊長室の戸を開く。
 けれどそれと同時に、
「――恋次」
 と、小さくもよく通る声が、その動きを止めさせた。
 恋次は思わず固まって、おおおお、と喝采を上げる心の中の小さな自分たちが一斉に踊り始めるのを幻視した。足元あたりから脳天までボーンっと音を立てるように歓喜が駆け巡る感覚。我ながら単純とかそういうのを通り越して、もはや動物的と言って良いほどだった。たとえるなら、主人に散歩に行くぞと告げられた犬と変わらない。
 ばったばったと見えない尻尾が振れまくるのを精一杯の自制心で押さえつけ、冷静さを取り戻すために一呼吸。呆れるくらいに分かりやすい喜びを、けれど阿呆だと思われぬようにギリギリまで制御する。
「な、なな、なななななんですか隊長!?」
 振り返る自分がどれくらい良い笑顔をしているかなんて考えるまでもない。どもりすぎだがそれも構わない。もう阿呆だと思われてもそれはそれで良しとする。
 だって恋次が振り返るのとほぼ同時に、白哉の視線がふっと下がった。
 つまり今の今まで書類しか映していなかった白哉の目は、けれど踵を返した恋次の背をひそかに追っていたということだ。現金だと言われようが、そう考えれば浮かれるなと言う方が無理な話。
 一度伏せた視線をゆっくりと恋次に向け直した白哉は、いつもどおりの厳しい目つきでじいとこちらを見つめてくる。努気は感じないので睨めているというわけではないのだろうが、どちらかというと怒られているような迫力を感じる視線だった。
「? なんすか、隊長」
「…………」
 口をひらく様子のない白哉に、思わず恋次は問いかける。それに答えるふうでなく、どこか見定めるように恋次を見つめていた白哉は、――けれど結局、なにごともなかったかのようにそっと視線を机に戻した。
「…………いや」
 なんでもない、と、普段と変わらぬ落ち着いた声だけを残して。

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