川の流れは絶えずして

 見上げた空はまるで澄んだ青色に汚れた薄茶色を無理やり混入したような淀んだ色で、その下に広がる真っ白な砂漠の上には点々と、赤いしるしが落ちている。
 ひとつの遮蔽物もない、見渡す限りの平坦な砂地だ。久森はそこでぼんやりと佇んだまま、自身の足元をじいっと見つめた。ぽつりと落ちたその赤色が、どうしてか、この空虚な世界の道しるべであることを理解していた。自分はここから、この不吉なしるしに従って歩を進めるのだ。嫌だなぁ、と思うけれど、他に選択肢なんてないのだから仕方ない。どうせ、どこへ向かったところで誰にも巡り会えはしない、ずっと寂しいばかりの場所なのだ。ここは。手招くしるべがあるだけで、退屈しのぎくらいにはなるはずだ。
 久森は歩き出す。一歩を進むそのつま先の、ほんの数センチ先の向こうには、途切れがちに距離を保ちながら、鮮やかな赤い色が続いている。
 ぽつりぽつりと。
 だれかの落涙を刻んでいくように。
 けれど久森は、このしずくがそんな立派めいたものでないことを知っている。心優しい少女が誰かのために流した涙のあとだとか、苦渋の決断を下した英雄が歯を食いしばって落とした暗涙だとか、そういった深い意味を持つものではない。もっと淡々としていて、つまらない、一切の『痛み』を背負わないものだ。
 彼はそれを知らないから。
 久森はのんびりと、砂地に続く赤いあとを追う。こちらへ来いと誘うでもなく、ただ自然ななりゆきで、落ちるべくして落とされただけの足跡だ。気づかなかったことにして離れることも出来るけれど、そうしようとは思わなかった。どうしたって結局、自分は、この道を選ぶらしいのだ。悩んだところで時間の無駄だ。
 赤色と連れ添う旅路は存外と長く、薄暗く冷えた砂上の時間に僅かばかりのぬくもりを与えた。久森にはそれが意外だった。ひとと出会うことなど起こりえない世界だとばかり思っていたが、こういう例外もあるらしい。特別に愉快な道のりというわけではないけれど、ここまで、荒涼とした砂の大地をひたすら眺めるばかりだったのだ。それと比べれば、決して、悪くはない時間と思えた。やたらに歩き回るのは、少しだけ疲れるけれど。
 時間は流れるように過ぎていった。最初はそのしるべに従って進んでいた道を、いつの間にか、久森が望むほうへと向けさせることも出来るようになっていた。それはこの奇妙な旅を少しでも長く続けるためで、つまるところ彼のためであり、そして久森自身のために必要な舵取りであった。
 けれどすべてを避けてとおることは出来ない。
 終わりはあっけなく訪れた。そこにあったのは死であった。ある日唐突に、赤色はいつもの『ぽつりぽつり』ではなく、大きめの水たまりくらいに広がって、そこで道を途切れさせた。久森は足をとめ、その血だまりをじっと眺めた。
 ああ、ここまでだったか。
 と、いやに静かに考えていた。
 砂地に滲むでもなくたっぷりと広がる赤色の真ん中には、見慣れた彼の死がたゆたっている。久森はのろのろとそれに近づいて膝を折ると、ためらいなく両腕を突っ込んだ。血の池の底へ沈んでいこうとする身体を掴み、えいやと思い切って引っ張り上げる。冷えきった彼の身体は重たくて、とてもではないけれど、ずっと抱えていることなど出来そうにない。久森はそれを理解していた。ただ、ほんの短い時間だけでも構わないから、ちゃんと顔を見たいと思った。
 まぶたを閉ざした彼の表情は穏やかだった。久森は驚き、そして安堵した。幾度となく視てきたその死に顔はいつも凄惨で、だから、こんなふうに安らかな死に方など、きっとしないと思っていた。
 藻掻いて、抗って、長い苦痛の果てに見舞われる死よりも、やりたいことをやり遂げて満足して逝くことの方が、彼の終幕には相応しい。
 そんなふうに、久森は思うのだ。だから、これはきっと、良い終わり方だ。本人がどう感じているかは知らないけれど。
 久森は少しだけ笑って、両腕に抱えていた重い身体をそっと手放した。冷えた水底へと沈んでゆく彼を眺めながら、思っていたよりも平気だな、と、そんなことを考えていた。だいじょうぶだ。これまでに何度も視てきた喪失だ。そしてこれからも、おなじ瞬間を繰り返し迎え続けるのだ。だから平気だ。
 おやすみなさい、と久森は言った。柔らかな声だった。
 お疲れさまでした。ゆっくり休んでくださいね、矢後さん。
 けれどそれを告げた瞬間に血だまりからぬっと彼の手が伸びて、久森の頬のあたりを血まみれの指先がどろりと撫でた。久森は無論仰天したが、悲鳴を上げる間もなく、その手は躊躇なく久森の右耳をがっしりと掴んだかと思うと、力任せに引っ張ってくる。
 痛い。もの凄く痛い。
 なぜ耳なのだ。なにがしたいのだ。死んだんじゃなかったのか。
 盛大に混乱しながら、久森は叫んだ。
「な、なななな、なんなんですか、もー!」
 自分の叫び声で目を覚ました。
 合宿施設の、談話室の、ソファの上だった。日はとっくに暮れているようで、室内も消灯していてひどく暗い。遠く廊下から入ってくる微かな灯りだけがぼんやりと滲んで、二人掛けのソファに無理な姿勢で横たわった久森と、そのようすを覗き込む矢後の姿を照らしていた。
「……ん、んんー……?」
 眉を顰め、くぐもった声で呻くと、それに返すかのように「……はよ」と矢後が静かに言った。
「……」
 しばしの沈黙ののち、それが「おはよう」を指す発言だと気づいて、久森は両目を瞬かせた。「……お、はよう、ございます……?」
 困惑しつつ、じんじんと熱を持った右耳を撫でる。痛い。夢の中の出来事ではなく、どう考えても現実的に痛い。
「やごさん、なに、え、なぜ、耳……?」
「……」矢後はどこか呆れたふうに目を細めた。文句言うなよ、と低く言う。「うなされてたから、起こしてやったんだろ」
「……うなされて」
「変なとこで寝てんじゃねーよ。自分の部屋で寝ろ」
「あー、ええぇ……」絶対に言われたくない人に言われてしまった。「っていうか、え、うなされてましたか、僕……?」
 繰り返しの確認に、矢後は訝しげに眉を寄せた。「そう言ってんだろ」と、彼がそう告げる以上、本当にうなされていたのだろう。久森は横になったまま、すこしだけ背中を丸めて、それからゆっくりと、深く息を吐いた。そうか、うなされていたのか。
「……どういう反応だよ、それ」
「あ、いえ、なんというか、人の心があって良かったなぁと……」
「はぁ?」
 こっちの話です、と久森が言うと、矢後はそれ以上言及してこない。久森はのっそりと身体を起こした。寝ぼけた頭で、ここに至るまでの記憶を遡る。たしか放課後に合宿施設までやってきて、トレーニングをして、風呂に入ってごはんを食べて、へとへとだったけれどどうしても見たいテレビ番組があったから、ひとりで談話室へ足を運んだのだ。結局、番組を視聴した記憶はないけれど。
「……矢後さん」
「なに」
「あの、起こして貰えたのはありがたいんですけど、なにも耳を引っ張らなくても……肩を揺するとか、もっと普通の起こし方で良くないですか?」
「るせーな。文句言うなっつってんだろ」
「あはは」どことなく拗ねたような矢後の声に、久森は力なく笑った。暗がりで佇む彼の表情は明確には窺えなくて、そのことにひそかに安心する。きっと矢後からも、久森の姿はほとんど見えていないだろう。
 途切れた会話の先を探すこともなく、じきに彼は、「じゃあな」とでも残してこの場を立ち去るに違いない。その背が遠のくのを見届けてから、ゆっくりと立ち上がり、それから自室へ戻れば良い。柔らかなベッドでぐっすり眠りさえすれば、夢の続きを見ることもないはずだ。
 久森はそう考えたが、けれど矢後はというと、無言のままじいっとこちらを見つめているようで、どうもこのまま退室しようといったようすはない。しんとした夜の向こうから、それでも明確に、なにかを推し量るような不躾な空気が漂ってくる。久森はソファに腰掛けたまま、矢後の立つ影を見上げて僅かに首を捻った。まだなにか用があるのだろうか、と思ったその途端、「ハァ……」と、なにやら重い溜息が届く。
 そうしてから矢後は、唐突に、久森の隣に腰をおろした。
 いやに乱雑な態度だった。
「え、いや、な、なんですか……?」
「…………」真横に座られると、さすがになんとなく顔つきは見えてくる。矢後の横顔はどうにも呆れたふうで、その理由が久森には分からない。彼はどこか遠く、暗い部屋の奥の壁をじいっと睨みつけていたかと思うと、ふいに小さく鼻を鳴らして言った。
「ガキかよ」
 そう吐き捨てるように呟くと、ソファの背もたれに身体を預けてしまう。
「……あー……」
 こちらの表情なんてろくに見えていないだろうに、いったいどうして、久森がどんな顔をしているか分かったのだろう。
 野生の勘的なものだろうか。思いつつ、久森は苦笑いを浮かべた。バレてしまっては仕方ない。へたに誤魔化す必要も感じないので、とりあえず「なんかすみません」と言ってみると、「べつに」と低く返ってきた。矢後はそれ以上言葉を重ねてはこないけれど、ほど近い距離にある彼の肩は、触れ合うことはしなくてもぬくもりを伝えてくる。
 生きたひとの温度だ。
 それを感じ取ると、強張っていた身体からゆっくりと力が抜けていった。少しずつ心音が落ち着いて、指先の震えが落ち着いて、いつもの調子が戻ってくる。心の奥の深いところで、これならだいじょうぶだ、と考える。もう平気だと、自分にたしかめるみたいに繰り返す。
 けれどそうやって何度も唱えながら、そのくせ久森は、しっかりうなされていたらしいのだ。
 こういうのも強がりと言うのだろうか。自分自身に呆れつつ、久森は顔を上げ、暗い部屋の奥へと視線をやった。そこにはなにもない。誰もいない。吸い込まれそうなほど静かで、ほんの少し優しい、そんな見慣れた夜だけが広がっている。
「……」
 悪い夢は他人に話せば正夢にならないだなんて、最初に言い出したのは誰なのだろう。
 言えるわけないよなぁと、そう思いながら、それでも久森は口を開いた。
「……あの、これから口にすることは全部、ひとりごとなんですけど」
 ぽそぽそとした小声は、まるで夜の隙間に少しずつ差し込むみたいにして滑り出た。そのひとことずつを触ってたしかめ、探りつつ、久森は言った。
「僕らほら、毎日のように戦って……それで、まあ、ヒーローなので、当たり前なんですけど、ケガとかして、死にかけたりとか、普通じゃないですか。でも、普通だからなにも問題ないっていうわけでは……少なくとも僕の場合は、そういう感じじゃなくって……本当に、その、子どもみたいなこと言って、かっこ悪いのは分かってるんですけど……嫌なんですよ、自分がケガするのも、だれかがケガするのも。現実はもちろん、未来視でもそうです。本当はそういうのから、出来るだけ遠いところにいたいんです、僕は」
 だからずっと、他に誰もいないところでひとりきり、じっとしていた。自分はそれで構わないと、それで良いと、そう思っていたはずなのだ。
「でもなんか、その、もう、無理じゃないですか。矢後さんみたいな人にはよく分からないかもしれないですけど、もう全然、無理なんですよ。ここまで来ちゃったら、どうしようもないし、諦めるしかないというか……いけるところまで付き合おうって、ちゃんと、僕なりに本気で、そう決めてるんです。なので、うなされる気なんて、本当はまったくなかったんですよ。自分でもびっくりしてるんです。でも、というか、うーん、だからこそ……かも、しれませんけど……」
 要するに、なにを伝えたいのだろう。久森は自嘲を零した。回りくどいなぁ、と自分で自分を滑稽に感じていた。
「ええと、つまり、ですね……」
 いま、ここで、となりにいてくれて良かった。
 夢に見た景色が、まだもう少し、遠い先のことだと分かって本当に良かった。
「──……起こしてくれたのが矢後さんで良かったです」
 と、そんなふうに呟いた声は、けれど、矢後の耳には届いていない。
 久森は視線を動かして、真隣でじっと座ったままの矢後を見やる。まぶたを閉じた彼の口元からは規則正しい呼吸の音が繰り返されていて、その清々しい眠りっぷりを確認した久森は、ほっと胸を撫で下ろした。
「……うん、そうですよね。そうなるだろうと思ってました」
 ほかならぬ矢後のことである。明かりの消えた部屋のソファの上で、久森のぼそぼそ声を一身に浴びて起きていられるわけなどなかった。眠ってくれている方が、こちらにとっても都合が良いのだ。最初に言ったとおり、全部ひとりごとだ。きっと、その方が良い。
 思いつつ、眠る矢後の顔を覗き込む。目を凝らすと、夜の向こうに見えてくるのは穏やかな寝顔だ。いつもこうだったら良いのにと思うくらいの、安らかな眠り。
「……おやすみなさい、矢後さん」
 なんの返事もない部屋のなかで、久森は小さくそう言った。途端、とろとろとした眠気が全身を満たしてゆく。ぬるま湯に沈むみたいに意識が遠のいたかと思うと、そのまま、ふつりと途切れてどこかへ消えた。
 ハッと気づくと朝だった。
 つい先ほどまで真っ暗だった室内が、いつの間にか、カーテンの隙間から朝の陽を招き入れている。窓の外では爽やかな小鳥の囀りすら重なっていて、久森は寝ぼけまなこのまま「うわぁ……」と呟いた。「や、やってしまった……」
 ソファの上で一晩すごして、疲れなど取れるわけがない。今日は朝から合同訓練の予定があるのに、こんなコンディションで参加するなんて誰に咎められても言い訳できなかった。ただでさえ素行の悪さを指摘されがちな風雲児高校が、ふたり揃って仲良く寝オチとは。
「うう、最悪だ。矢後さん、起きてください。矢後さ……」
 と、そこでようやく久森は、となりで眠る矢後の異変に気が付いた。昨晩はまったく気にかけてもいなかったが、矢後はなぜか制服を着ていて、しかも泥まみれで、ところどころシャツが破けている上に血の跡すら滲んでいた。ソファに身体を預けるそのさまは、一見したところ限りなく死体である。突如として現れた殺人現場に、久森は「えぇ……」と頬を引きつらせた。
「うわ、きったな……。ちょっと矢後さん、夜中に出歩いてケンカするのは勝手ですけど、お風呂入らずに施設内うろうろしちゃダメですって何度も……あーあーソファに泥ついちゃってるじゃないですか」
 よく見ると久森の部屋着の肩口も汚れている。寝ている間に寄り掛かったせいだろう。「ああぁ……」と嘆きの声を漏らしても、矢後が目覚める気配は一向になかった。
 まるで死んだように眠っている。
「……矢後さーん」
 呼びかけながら肩を揺すってみるが、熟睡中の彼がこの程度のことで起きるわけもない。久森は少し考えて、矢後の頬についた土汚れを指先で軽く拭うと、そのまま彼の右耳をつまんでぎゅーっと引っ張ってみた。
 他人の耳を引っ張るのに適した力加減などさっぱり分からないが、痛みを感じない矢後にそういった配慮はそもそも不要だ。どれほど力の限り引っ張ったところで、「いてぇな! なにすんだ!」などと言って飛び起きることは絶対にないのである。不公平な話だ。
 そんな当然のことをまじまじとたしかめているうちに、矢後の両目がぱちりと開いた。思ったより素早い起床だ。久森が手を引っ込めると、彼は不思議そうな顔でぼうっとこちらを眺め、次いで自分の耳に軽く触れてから言った。「……普通に起こせよ……」
 痛みはなくても感覚はあるらしい。久森は「昨晩のお返しですよ」と肩をすくめた。「だいたい、普通の方法じゃ矢後さん起きないじゃないですか」
「……」
 矢後から向けられる視線はいかにも釈然としないといったふうだったが、久森はそれを無視した。「朝ごはんの前にお風呂入ってきてください。あー、いやケガの手当ての方が先か。どちらにせよあまり時間がないので、早く起き上がって素早く動いてくださいね」
「ああ? めんどくせーな」
「めんどくさくても頑張ってください。訓練がはじまったら思いっきり暴れて良いですからねー」訓練内容の詳細を知っているわけではないが、なんであれやる気にさせなくては、矢後の二度寝は防げない。「じゃ、僕も着替えないといけないので、失礼しますね。またあとで……」
 言いながら立ち上がろうとして、久森はふいに口を閉ざした。
「……矢後さん」
「なに」
「あの、いまは僕、ちゃんとした顔してますか?」
 念のため訊ねてみると、矢後は眠たげな顔つきのまま、じいっと久森の顔を見やった。ガンを飛ばされているとしか思えない三白眼は、すぐ近くで見るとやはりそれなりに迫力がある。数秒の間見つめあってから、矢後は言った。
「ちゃんとした顔がなんなのか分かんねーよ」
 神妙な顔つきで寄越された返答は、これといって茶化しているふうでもなく、彼なりに真剣に考え抜いた末のものらしい。なるほどたしかに、こちらの質問が悪かった。久森は反省し、「ですよねぇ」と返した。
「うーん、まぁいいか。それじゃあ矢後さん、またあとで」
 今度こそ立ち上がってそう告げると、矢後からは「おー」というぼんやりとした返事が届く。廊下に出てから、久森はふと、そういえば朝のあいさつをしていなかったなと気が付いた。
「おやすみなさい」は言ったのに。
「おはようございます」を伝えそびれてしまった。
 とはいえ、わざわざ引き返して口にするようなことではない。久森はそのまま自室へ戻って着替えてから、朝食のために食堂へと向かう。他校のヒーローたちと顔をあわせ、雑談を交わしつつ今日の訓練の情報を得る。ハードな一日になりそうだなぁ、と、はじまる前から途方に暮れて、そうしながら頭の片隅で、余らせてしまった「おはようございます」のことを思う。
 今度また、彼が死に見舞われたとき。それを蹴飛ばして、いつもの顔で起き上がったとき。
 そのときに言うことが出来ればそれで良いやと、そう決めて胸にしまい込む。

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