ひどく冷えると思ったら、どうやら雪が降っている。
雪原にぺたりと座り込み、市はぼんやりと空を見ていた。まるい天井のように世界を覆う雲から、ふわふわと白い粉が降り注いでいる。それはとても柔らかくて、美しくて、ひとを惹きつけてならないというのにこんなにも冷たい。
こごえてしまう、と市は思った。このままではみんな凍りついてしまう。積雪は市の膝元を埋めてなお高さを増すつもりのようで、このままどんどんと降り積もって、いずれこの大地のすべてを満たそうとしているらしかった。
それはなんて非道なことだろう。
氷は刃のように鋭く、ひとびとの身を裂いてしまう。そうして冷気は心を掴み、硬く冷たく凍らせてから、無情に砕くに違いない。市は身を震わせた。凍土は憎き敵のように思えた。
けれど市の目に映る景色のなかに、その苦痛を耐えねばならぬひとなど、もうどこにもいないのだ。
そのことに気がついた市はほっと胸を撫で下ろす。ああ、よかった。この残酷な世界には、もうだれも生きてはいないのだ。市は歌い出したい気分になった。これで誰も苦しまずにすむ。なんてすばらしいことだろう。
降りしきる雪のただなかで市はくすくすと笑んでいた。この世にはもう、哀しいことなどなにもないようにさえ思われた。市がこの手ですべて払ったのだ。痛みも、寒さも、苦しみも、なにも感じなくなればみな幸福なのだ。
けれど市の背後からまだ生きたひとの気配が現れる。それがだれなのか、市にはすぐに理解できた。かれは違うものだ。ほかの者たちとは、明確にべつの存在なのだ。振り返らなくても溢れてくる、その眩さに市は目を細めた。
「お市殿……?」
かれはまるで信じられないというふうに市の名を呼んだ。実際その声は、なぜ、と続けて問いかけてみせた。なぜあなたがここにいるのだ、と狼狽した声音で呟きながら、雪道を踏みしめて市の背に近づいて来る。
「城で待っているようにと云ったはずだろう。いや、それは良い。そんなことよりも……」
光りは愕然としたふうに雪景色を、その上に横たわる無数の死の群れを見つめていた。市はかれのその姿を確認し、浮かべる表情を見てはじめて、自分が誤ったことをしたのだと理解した。かれは眉をひそめ、ひどくつらそうにくちびるを結んでいた。まるでどこか怪我をしてしまったみたいに、痛みに耐える顔だった。
「光色さん」
と、市はかれの名を呼んだ。
「光色さん。市、あなたを傷つけたいわけじゃなかったの」
「……分かっている」
「あのね、きっと、こうすればみんな、喜んでくれると思ったのよ」
「……ああ」
分かっているよ、とかれは云った。それからその大きな手をそっと伸ばして、市の身体を支え立たせてくれる。そんなふうに座っていては風邪を引いてしまう、と優しい微笑みさえ浮かべながら。
「本陣へ戻ろう、お市殿。いつまでもこんなところにいてはいけない。あとのことはワシがやっておくから、あなたは少し休んでいてくれ」
「……」
市はかれの顔をじいっと見上げた。光りはいつもとても眩しくて、市のぜんぶを照らしてくれる。「ごめんなさい」と市は云った。ぽろぽろと涙が零れた。
「ごめんなさい。市、わるいことをしてしまったのね。ごめんなさい。ごめんなさい」
けれど市にはこれしか出来ないのだ。ほかにすべを知らない。かれがなにものかと戦うというのなら、その手伝いをしたいと、そう思っただけなのだ。
「市が殺したの。市がみんな殺したのよ。ごめんなさい。だって、わるいことだなんて知らなかったの」
雪はとても冷たくて、どのみちあれらは死んでしまうと市は考えた。ほんとうにそう思ったのだ。けれどそれは誤りだったといまは分かる。おひさまの光りは、非情に降り積もる雪をも確実に溶かすものなのだ。
美しい雪景色の中で死に絶えた、かれらにも希望はあった。光色のもたらす明日が、きっとあった。
それを奪ったのは市であった。ああ、と市は嗚咽を漏らす。震える肩をそっと抱きながら、光りが云った。
「だいじょうぶだ。あなたはなにも悪くないんだ、お市殿」
その言葉に市はしかしかぶりを振った。すべて市が悪いことは間違いなかった。光りの支えてくれる手のひらは暖かく、このぬくもりを得ているのが己だけであるということが市には耐えられなかった。俯く視線をゆっくりと持ち上げて天を見やると、留まることなど知らぬと思われた雪がぴたりと身を潜め、分厚い曇天の隙間からかすかに陽光が顔をのぞかせていた。
* * *
思えば、市はきっと、かれに出会うまで光りを見出したことがなかったのだろう。
市は自分のことをよく知らない。過去を覚えていない、というよりは、なにやら靄がかかった曖昧なものが連鎖して記憶を包みこみ、市の頭の中をゆらゆらとかき乱しているように感じられた。つい先ほど親しみを込めて口にした名が、はたしてどこのだれであったのか、それすらも市には分かりかねるのだ。目の前のひとの顔が判別できないこととて珍しくはなかった。
それを考えると、やはり光りは間違いなく特別な存在なのだろう。
あのようなものを、市はほかに知らないのだ。だれを見失おうと、あの光りだけは遠く離れてもその在処を感じられる。強烈な閃光はかれの身の内とも外とも知れないどこかから溢れて、この世の陰すべてを飲み込もうとしているように見えた。それはとても優しく暖かなものに違いないのに、ときどきひどい寒気が市の身を竦ませる。足元から冷たい気配が忍び寄って、そうっと背を撫でて警告を促すのだ。あれは恐ろしいものだと市の中に巣くう暗闇は云う。近づいてはならない、と怯えながら、しかし同時に欲してもいる。もっともっと光りの側に寄りたいと市は思う。そうすればなにかが変化して、市をとても心地のよいところへと導いてくれるような気がするのだ。
こんな気持ちになるのははじめてのことだった。
だからきっと、市はいま、はじめて光りに出会ったのだと思う。
けれど市がそれを伝えると、かれは軽く首を傾げて「そうかな」と少し困ったふうな笑みを浮かべた。
「ワシは、お市殿がその光りを見るのは、きっとはじめてのことではないと思うよ」
とても静かな夜だった。普段の市なら耐えられないような、気が遠くなるほど長いまっくらな閑寂の中で、しかしこの日はなぜか気持ちが凪いでいた。風のない空を通して、それでもときどき耳をかすめる木々のざわめきや、遠い鳥の鳴き声が、市の心へと語りかけてはその存在を整えようとしてくれている。市にはそれが嬉しかった。機嫌のよい市のようすを察して、光りもまた己のことのように喜んでくれる。少しだけ散歩をしよう、とかれは云った。その大きな手のひらに導かれ、まだ淡い夜の庭へと足を踏み出していた。
少し欠けた月でも、暗闇を控えさせるのに十分な輝きを放つ。それでも、市には隣に立つかれのほうがよほど眩しく感じられた。この陽光さえあれば、月光などこの世界に不要だとさえ思った。闇を恐ろしくないと感じたのははじめてだった。
きっと、はじめてのことのはずだ。けれどかれはそうではないと云う。市はふしぎな気持ちになった。そのように云われれば、たしかに、かつて似通った光りを傍で感じたことがあった気がした。
「わからない」と市が呟くと、かれは「わからなくてもいいさ」と目を細める。
「けれど、お市殿はきっと、あなたの云う光りのことをとうに知っていた。それはワシに感じるのとは少し違った種類のもので、なにより、ワシなんかよりもっともっと明るい色で輝いて、お市殿のことを包みこんでくれたはずだ」
「……」
わからない、と市はもう一度呟いた。ひどくあやふやな感情でしか言葉を返せない市に、けれど光りは呆れることなく優しい眼差しを向けてくれる。
「なあ、お市殿。無理にワシの云うことを理解しようとしなくて良いから、少しだけ、昔話を聞いてはくれないか?」
「むかしばなし?」
ああ、とかれは頷いた。市が黙って耳を傾けると、すこしばかり言葉を探すような間を空けてから口を開く。それはかれ自身の昔話であった。
「ワシがまだ小さく、幼かった頃、世話になっていた城にある女性がいたんだ。そのひとはとても美しく、けれどいつも寂しそうで、どこか陰を背負ったふうだった。見かけるたび、哀しげな顔をしていたよ。幼心にかの女を励まそうと言葉をかけたこともあったけれど、その憂い顔を晴らすことはとうとう叶わなかった」
「おかしなひと。光りに照らされて、嬉しい気持ちにならないわけがないのに」
市の言葉に、かれは僅かに目を丸めてみせた。市はそのまんまるの両目を見つめ返す。大きな目だ。おひさまとおんなじ金色をしている。かれはそれを一度だけ瞬かせて、それからいつもの笑みを浮かべなおした。
「かの女にとっての光りは、ワシではない、べつのひとだったんだ。その哀しみを照らしたのは、一本気で、とにかくひたむきな光りだった。かれらは互いを、とても大事に思っていたよ。ワシにはそれが嬉しかった。けれど、こんな時代だ。どうしたって戦は避けられない。かの女はとても優しいひとだった。誰かを殺めるのは嫌だと泣くくせに、それでもかれの力になるためと、自らも武器を手に戦場に立ったんだ」
「……つよいのね」
「ワシもそう思うよ。そのひとはいつも苦しんでいた。大切なひとたちを憎みたくないから、すべての責を己に科すことで心を守ろうとしていた。そんなかの女を、かの女の光りは叱責したんだ。泣くな、とかれはよく告げていた。貴様が傷つく必要はどこにもないと、そう断言して、かの女の涙を止めようとした。戦場に立つかの女に、かれは付いて来るなと云った。或いは、好きにすれば良いと。けれど決して自分の側を離れるなと。その言葉は幾度もかの女の心を救ったと、ワシはそう思っている」
そう、と市は頷いた。なぜだか分からないけれど胸が苦しくなったので、そっと視線をあげて空を見た。満たされない月がこちらを見ている。市は自分という存在が、力強い真昼の光りより、あの闇の奥の光りの方に近いということを知っている。
市は静かに息を吐きだした。そうすることで、本当は手放したくないはずのものが、市の内側から少しずつ漏れ出ているように思えた。それでもこの呼吸を止めることは出来ない。市は己の感情を誤魔化すようにくちびるを開いた。震える声で、光色さん、とかれを呼ぶ。「ねえ、光色さん、あなたは市になにを伝えたいの?」
「ワシがあなたのために出来ることは少ない」と、かれはいつものように優しく笑ってみせた。「だからこそワシは、かの女の光りの言葉を借りてあなたに云おう。あなたが戦場に立つ必要はないんだ、お市殿。あなたに責はなにひとつない。かれがこの場にいたのなら、きっとそう云うだろうと思う」
自分のせいで傷つかないでほしい。
どうか穏やかに生きてほしい。
光りは暖かな言葉でそう続けた。祈りのように響くその声を聞きながら、市はやはり空を見上げていた。暗い夜の天井のなかにひとつ、ひときわ眩く輝く星がある。それを見つけたとたん、視界がぐらりと揺れた。どこか遠い場所から、或いは市自身の臓腑の底から、なにかがひどく耳障りな声で叫ぶのが聞こえた。
ごめんなさい、とそれは咽ぶ。ごめんなさい、ごめんなさい。
けれど光りは、市の光りは、貴様のせいではないと云った。市はかれの名を呼んだ。震える喉で一度だけ、たった一度だけその名を口にする。
悲鳴混じりに心が伝えるそれは、しかし市の知らないひとの名であった。まるで市という女がふたりいて、気が触れたようにかれの名を繰り返す片方を、もう片方がきょとんと首を傾げて見つめているかのようだった。それはだあれ、と市が問う。わからない、と市が答える。その繰り返し。
細く震える市の肩をあたたかな手が抱いていた。狼狽した声音が耳元で繰り返すそれが、市を労わり、謝罪を告げる言葉であると気付き、必死にかぶりを振る。ちがうの、と市は云う。
「ちがうの、光色さん。ちがうの。市、嬉しいのよ」
「嬉しい?」
市はこくりと頷いた。だってかれは市を許してくれると云うのだ。争うことなく、傷つくことなく、生きてほしいと云うのだ。
「約束します」と市は云った。「市はもう戦いません。ずっと、お城で大人しくしているわ。だから市を許していて。どうか市の大好きな、眩しい光りのままでいて」
それが誰に向けた言葉であるのか、市は自分でも理解出来ないままだった。けれど心は晴れていた。市は己が許されたのだと知った。ようやくだと思った。長い、とても長いあいだ、市はにいさまの罪を背負い続けて生きてきたのだ。それを手放したならば市はきっと楽になれる。そうに違いない。
市は晴れやかな笑みを浮かべた。光りはそれにほっとしたふうに息を吐いた。かれの両の眼はやはり輝く陽光のようであったので、それに身を任せるふうに市は身体の力を抜いた。全身がぽかぽかとした温もりに満ちている。
光りの手に優しく抱かれながら、市は意識を失った。それはいつものようにぶつりと途切れるような眠りではなく、足元からゆっくりと沈むような安寧に満ちていた。おやすみ、と静かに告げるかれの声を遠くに聞きながら、市は思う。きっとつぎに目を覚ました時には、素敵な世界が広がっているに違いないと考える。
* * *
けれど市はそれからも、やはり大勢のひとを殺した。
光りが戦へ向かうと、市はかならずそのあとを追った。約束すると告げた自分の言葉など、市はとうに忘れ去っていた。ただ、光りが傷つくことが嫌だった。かれをひとりで戦わせたくなかった。なにより市自身が、あの温もりの側から離れることに恐怖を覚えていた。
かれから離れた場所で死にたくない。市から離れた場所で、かれに死んでほしくない。
その一心で、市は光りに添うように戦場へ赴いた。かれは市を叱ることはしなかった。市が生み出す無数のしかばねを前に、ただ、自らが痛みを負ったような顔をした。そのようすを見てようやく市は気がつく。かれはこんな結果を望んでなどいなかったのだ。市はまた、誤ってしまったのだ。
あなたを傷つけたいわけじゃなかったの、と涙を零す市に、「分かっている」とかれは云った。分かっている、だいじょうぶ、あなたのせいではない。
「あなたはなにも悪くないんだ、お市殿」
それを口にする、光りの声はどこまでも優しかった。心の底から、市に罪はないと告げているようだった。けれどそんなはずはない。市はかれの云うことを聞かず、勝手をして見境のない殺戮を繰り返す。中には、どうやら市のことを知っているらしい者もいた。親しげに、或いは動じたふうに言葉をかけてくるひとたちを、しかし市はためらいなく手にかけた。だって、光りの敵なのだ。かれの行く手を阻もうとする者を、どうして生かしておく必要があるだろう。
ひとを殺めたいわけではない。
けれど、市に出来ることはほかになかった。
あの夜以来、市は再び眠れぬ日々を過ごしている。静寂は市の心をかき乱し、木々のざわめきも鳥の鳴き声もすべてが市を責め立てるよう響いていた。夜毎に低く呻きながら徘徊し、ときにさめざめと泣き崩れる市を、光りの城のひとたちは手厚く慰めてくれる。ときに、光り自身が市の背を優しく撫でてくれる夜もあった。そんな時、市はかれにあの昔話を乞う。かれが幼いころに出会ったという女性、かの女とその光りの話を。
ワシの知っていることは少ないが、と前置きしてから、かれは色々な話をしてくれた。ふたりの婚礼の日に、奇妙ななりの人物が乱入して大騒ぎになったこと。その闖入者もかれにとっては恩のあるひとで、だからその話を聞かされた時、どんな顔をすれば良いか分からなくなってしまったこと。かれの忠臣(いつも光りのそばにいる、鎧を着込んだあの大きなひとのことだ)によく似た人物が現れて、そこらじゅうで暴挙の限りを尽くした際に、ふたりのところへも話を聞きに行ったこと。そのときは急いでいたためゆっくり出来なかったが、日を改めて謝礼に伺ったときのこと。
かの女の光りがどれほど情熱的で、まっすぐで、立派なひとであったか。
かの女がどれほど、かれを慕い、その魂に手を引かれるようにして生きていたか。
それらの話を聞くと、市の心はゆっくりと落ち着きを取り戻すことが出来た。死の淵を覗き暗闇を誘おうとするこの身が、ふわりと浮上して現の世に居場所を得ることを許されるかのようだった。枕元で寝物語をねだる童子のように、市は繰り返し同じ話を聴き続け、そうしているうちにようやく安穏とした眠りにつくことが出来る。夢の中で市はあのふたりの姿を見ている。市がかの女の光りの名を呼ぶと、もうひとりの市が、それはだあれ、と問いかけてくる。
ふたりが寄り添うさまを見つめながら、わからない、と市は答えた。夜が明ける。市はゆっくりと目を覚ます。市のそばに光りの姿はなく、かわりにひとりの少年が立っている。
大きな金色の兜を被った、まだ幼さを残した面立ちの男の子だった。かれがこの世ならざる者であることを、市はすぐに理解した。最近の市は現と幻の見分けがつかないことがままあったが、その少年が後者であることは間違いがなかった。市はゆっくりと上半身を起こす。こちらを見つめる金色の目をじっと見返して、それから、あなた光色さんね、と市は訊ねた。
少年は首を横に振る。「ワシは徳川家康だ。光色なんかじゃねえ」
「そう。けれど、あなた光色さんだわ」
「おめえにはワシが光りに見えるのか?」
市は首肯した。あの光りに比べればひどくか弱い輝きだけれど、少年は間違いなくかれと同じ色を放っている。この世を照らす、優しいおひさまの光り。市の答えに、かれはどこか哀しげに俯いた。「そうか」と呟く声は、なにかを堪えて無理に飲み込んだような苦みを含んでいた。
「市はおひさまが好きよ。だって優しくて、暖かいもの。市にひどいことを云うひとたちを、みんなやっつけてくれたの。市ががんばると褒めてくれるし、市が泣いていると慰めてくれる。おひさまのそばにいるひとたちのことも、市は大好き。みんな優しいの。だからね、あの光りのそばにいれば、市もきっと優しくなれるわ」
まだ小さな光りを前に、市はやんわりと目を細めた。かすかな色でもかれは変わらず光りであった。その輝きを見ていると市はとても嬉しくなるのだ。だから市は微笑んだ。かれは笑わなかった。
金色の目が市を見ている。
「……ワシはワシ自身を光りとは思えねえ」
「だいじょうぶよ。あなたは大きな光りになるの。そうして市を救ってくれる。おひさまは全部を照らして、夜の苦しい闇も、冷たい雪のような死も、みんなみんな消し去ってくれるのよ」
「そんなことが、ワシに出来るだろうか」
「出来るわ」
あなたは光りだもの、と市は云った。心の底から、そう思っていた。たとえ小さくともかれは光り自身のはずなのに、どうして自分を信じてあげられないのかしら、とさえ市は思った。小さな光りはきゅっとくちびるを噛んで、それから云った。「太陽は孤独だ」
「……」
「ワシにはきっと耐えられない」
呟いて、かれは押し黙った。その沈黙を静かに聞きながら、市はしかし、そうかしら、と考える。真っ青な天の上に陽があって、みんながそれを見上げていて、そのようすはたしかに孤立を感じさせる。月の傍らには星があるけれど、太陽の放つ光輝は無数の屑星など消し尽くすだろう。けれど、と市は思う。その寂しさに耐えられないおひさまなんているのかしら。
小さな光りは恐れているようだった。大きな空に独りきりになることを、自身がそれを背負いきれないかもしれないことを。市はその姿を思い描いた。遠い空でひとりぼっちのかれ。そのさまを夢想したとたん、市は急に息が苦しくなった。目の前の小さな身体を抱きしめてあげたいと、そんな急激な衝動に駆られる。きっとだいじょうぶ、という言葉が喉まで出かかったが、それがかれにとって慰めにならないことは分かっていた。
だって、と市は思う。だってひとりぼっちはこんなに寂しい。
「お空にひとりきりになってしまったら、きっと、市ならすぐに死んでしまうわ」
不安に満ちた呟きを聞き取って、かれは俯けていた顔を僅かに上げた。市のようすに気がつき、その恐れを拭い去ろうとするかのように笑みを浮かべる。それは市のよく知るかれの笑顔そのものだった。ふと気がつくと、小さな光りは、耐えられないと云ったその感情をまるで捨て去ってしまったような顔をしていた。幼い姿がかすんで見えなくなる。目を開けていられないほどの輝きが、かれの身も、心も、なにもかもを隠してしまう。
「あなたのようなひとのためにこそ、ワシは光りになりたいんだ」
「市みたいな?」
「そう。あなたや、あなたに似た弱さを抱えたひとを守りたい」
「市を守ってくれるの? ひとりきりで、寂しくなってしまっても?」
「寂しくなんてないさ。みんながいる」
「みんなってだあれ? そこには、市もいるの?」
「もちろん」
市はその言葉に安堵した。ならばこの光りは、ひとりきりにはならないのだと思った。みんながいる。かれがみんなのために孤独を選ぶというのなら、今度はみんながかれのために頑張れば良いだけのことだ。市もそれをしよう。市に出来ることは少ないけれど、そばを離れず、死をも恐れず、きっと役に立ってみせよう。
光りはいつの間にかいなくなっていた。部屋の中で市はひとり、かれのことを考えていた。優しい光色さん。自分の寂しささえ飲み込んでしまう、大きなおひさま。かれの姿があった場所を、ずっとずっと、市は静かに眺めていた。もっと昔から光りを知っていたはずだとかれは云ったけれど、それでもやっぱり、こんなにも寂しい光りを見たのははじめてのことだと、市は思った。
* * *
とても大きな戦だった。
闇の色と光の色がぶつかって、ぐるりぐるりと渦を巻きながらすべてを変えてしまおうとするようすが、市の目にはよく見えた。光りは決してついて来ないようにと云ったけれど、市がそれを聞くわけはなかった。市は闇色が嫌いだった。こんなにも優しい光りを殺そうとするひとを、好きになれるわけがない。だから、出来ることなら市の手で闇を消し去ってやろうと思ったのだけれど、光りはそれをしてはいけないと云う。
「お市殿、今日だけはどうか下がっていてくれ。あなたにもしものことがあっては、あなたを愛した方々に会わせる顔がない」
「市を愛してくれたひとなんて、もうどこにもいないわ」
みんな死んでしまったもの。市がそう云うと、かれは僅かに眉をひそめた。その顔を見ると市は哀しくなる。なにか悪いことが起こると、まるで自分のせいみたいにかれはすぐ俯いてしまうのだ。おひさまが陰ってしまう。市のせいで。
「……そんな顔をしないで、光色さん。市、あなたのことが好きよ。あなたが市に会わせてくれた、たくさんのひとたちが大好き。無茶はしないって約束するわ。だから光色さん、あなたも、市を愛してくれたみんなとおんなじところへ行ってはだめ」
「……」
「どうか市をひとりにしないで」
静かに告げた市の言葉は、しかし心からの本音であった。かれが死んでしまったあと、闇色の作る世界はきっと真っ暗だ。そんなところででも、光りはきっと市に生きろと云うだろう。ひとりでは死んでしまうと泣く市に、それでも生きてほしいと願うだろう。かれらのその気持ちを受け止めて生きてゆくことが、自分に出来るとは思えない。
光りの持つふたつの金色が強い輝きを放って市を見つめている。かれは市の懇願を受け止め、しっかりと頷いてみせた。きっと、市を二度とひとりにはしない。
けれど待っているばかりでは駄目なのだ。けして動かないよう云いつけられていた本陣を抜け出して、市はひとりで争いの中心へと向かった。目に映る敵兵が端から黒い手に捕えられてゆく。それは間違いなく市自身の意思による破壊であったけれど、同時になにか得体の知れないものが死者の国から這い出して、市の身を乗っ取り操っているようにも思えた。それでも構わない、と市は思った。この身がなんであろうと、とりたてて問題などはない。「守るの」と市は云う。ずっとずっと、こうしたかったの、と呟く。だれだか分からない、けれど大切なはずの名前を、心の中で思い描いた。
「守れなくて、ごめんなさい。今度は間違えないから。光りは、市が守るから」
暗い魔の手に身を支えられながら、市は無数の死を従え戦場を進んでいた。遠く離れても、あの眩い輝きの居場所は手に取るように分かる。光色と闇色がそこでは相対している。かれらがぶつかり合う音は悲鳴のように空を切り裂いて、渦巻く雲をぐちゃぐちゃに掻き乱していた。
市は耳をすませた。
ゆっくりと歩みを進め、その地まで辿りついたときにはすべてが終わっていた。
光りの後ろ姿はまるで人形のように無機質に感じられた。頭巾を被ったままで佇むかれの、その無防備な背中へ静かに近寄り、そうしてから、市はその足元へと視線をやった。そこに横たわる男の姿を見てはじめて、闇の色はこんなにも透明だったのか、と気がついた。傷つき果てたそのむくろは、しかし今まで市の見たなにものの死よりも気高く、そして凄惨なものに見えた。
市が声をかけるより先に、光りのほうが顔を上げてこちらを見た。
その表情は市の見たことのないものだった。かれはいつだって笑顔で、もちろん、哀しそうな顔や苦しそうな顔もときどき見せはするけれど、しかし光りはそれらをすぐさま吹き飛ばしてしまう。翳りのつぎの瞬間には、おひさまの顔に戻るのだ。光りとはそういうものだった。少なくとも市はそう信じていた。けれどいまのかれの顔は、まるでまっくらなところにひとりで残されてしまった幽霊のようで、前も後ろも分からずただ硬直して立ち尽くしているように市には見えた。戦慄と、喪失と、痛嘆ばかりがそこにはあった。これがあのあたたかな笑顔に戻る日が来るとは、市にはとても思えなかった。
けれどそれすら市の思い違いで、かれがそうやって空白な顔色を晒したのはほんの一瞬のことだった。市とはっきり目があったその瞬間に、かれは片手で素早く頭巾を降ろし、いつもの自分を取り戻した。二度と動くことはないように思えた、硬く張りつめた頬があっけなく解けて消え去るそのさまを、市はぼうっと見つめていた。暗いものは、すべて光りに飲み込まれてしまう。
「お市殿! ああ、結局出てきてしまったのか。決してついてこないようにと、あれほど念を押したというのに」
「……」
「まったく、仕方のないひとだ。けれど無事でよかった。怪我はないか? だれかひとを呼ぶから、きちんと手当てを……」
黙り込んだ市の向ける視線が、かれの言葉を途中で閉ざさせた。市は光りではなく、その足元に転がる闇色を見つめていた。聞こえない呼吸。青く凍った頬。まるでかれの周囲だけ時が止まったふうだった。「死んでしまったのね」と市が云うと、光りはしかし首を横に振る。死んでしまったわけではない、と返す。
「ワシが殺したんだ」
答える声は奇妙なほどに軽快だった。まるでなんでもないことのようにかれは自らの罪を口にする。名も知らぬ敵兵の死にさえ痛みを覚えるかれとは思えないほど、それは明瞭な声音であった。
市はかれの顔を見ない。
「光色さん。あのね、市、知っているの」
「すまないお市殿。ゆっくりと話をしている時間はないんだ。あなたは先に戻って……」
「ねえ、死んだひとはもう戻ってはこないのよ」
かれが息を飲むのが聞こえた。市は闇の色を見ていた。あれほど嫌悪していたはずの闇色は、しかしその死を境に市になんの思いも抱かせなくなっていた。憎しみも、清々しさも、なんにも感じない。ただ、死んでしまったのだ、とだけ思った。みんなとおんなじだ。
「市の大事なひとも、みんな死んでしまった。市ね、いつもみんなとおはなしをするの。蘭丸は相変わらずあっちへこっちへ忙しないけれど、濃姫さまは以前よりずっとお優しくって、にこにこしながら市のはなしをたくさん聞いてくれるわ。にいさまとも、昔よりね、きっと仲良くなれたと思うの。けど、それはぜんぶ市だけが知ってる。市にしか見えないものなの。みんな、もう、どこにもいない」
知っていた。分かっていた。市の心には大きな穴がぽっかりと空いていて、どうにかそれを埋めようと、必死で過去の影を追う。そんなことを繰り返して生きていても、本当は、だれひとりだって戻ってはこないのだ。簡単なことだ。市だけが生き延びてしまった、それ自体がそもそもの誤りであった。
それでも、市の光りは市に生きてほしいと云う。
どうか傷つかないでほしい。穏やかに生きてほしい。かれならばそんなふうに告げるだろうと、そう云ったのは目の前のこのひとだった。けれど市はその言葉さえも裏切って、戦わなくてもよいはずの戦を勝手に出歩きひとを殺めた。自分が苦しいからといって、べつのだれかの心にまで穴を空け続けたのだ。それらすべての命が、二度とこの世に戻ってはこない。
すべて、市の弱さが招いたことだ。
ようやく理解した。ぜんぶ市がいけなかったのだ。多くのひとが死んでしまった。この先を光りに導かれて生きたかもしれない命を奪い、市自身を思ってくれるひとさえも手にかけた。自分の悲しみを受け入れることが出来なくて、大切なひとの記憶ですら消し去ってしまった。
そうしてこのひともそうだ。闇の色は死んでしまった。もう二度と会えないことを、きっとかれは理解していたろう。それでも殺したのだ。光りが光りであるために。すべての翳りを飲み込んで、明日へと希望をもたらすために。
市が弱いから。
市のように弱い人間がいるから、かれは光りになったのだ。ならなくてはいけなかったのだ。
光色は静かにそこに立っていた。かれの姿は市の目にはあまりに眩しすぎた。輝きがその身をすべて埋め尽くして、市の影をより色濃く浮かびあがらせる。どれだけ謝罪の言葉を重ねても、決して許されぬほどの罪が市の全身を覆っていた。いますぐにでもその場に蹲りたい衝動を、市は懸命にこらえた。今までに何度も何度も繰り返したごめんなさいが、まったく意味をなさないものであることを市はすでに理解していた。
光りの金色の目がこちらを見ている。
それが市を責めたてるものでないことが哀しかった。いっそ市の頬を打ち、この首を絞めて腹を裂いてくれればどれほど楽かとさえ思った。けれど光りが決してそれをしないことを市は知っている。かれの抱える呵責はかれ自身に向けられている。
「分かるの」と市は云った。呟きは震えてはいなかった。自分で思うよりはるかに屹然とした、ゆったりとした声音は「市は知っているのよ」と告げた。光りの、その傷だらけの手に触れようとしたけれど、市が指先を向けたとたんかれの身がぴくりと震えるのが見えた。拒絶よりは怯えに近い気配がそこにはある。市はかれを心から哀れに思った。
「怖いのね。ひとりになるのが。自分の行いが。それに耐えることが苦しいのね」
けれどだいじょうぶ、と市は云った。だって、市には分かるのだ。知っている。市もそうだった。大切な相手を傷つけたいわけではなかった。ひとを殺めたいわけではなかったのだ。ただ、こうすればみんな喜んでくれると、そう、信じていた。
だから哀しまないでほしかった。どうかそんな顔をしないで。あなたのせいじゃない。あなたに罪なんてあるわけがない。だって市がぜんぶ悪いんだから。
市はかれの両目を覗きこんだ。金色の目。おひさまの光り。その輝きがゆらゆらと濁ってゆくさまを市は見た。
「だいじょうぶ。あなたはなんにも悪くないのよ、光色さん」
陽が傾いて、あたりが朱色に染められてゆく。
世界はじわりじわりと、けれど確実に色を変えている。市にはそのようすがはっきりと窺えるのに、なぜだか、すぐそばにいるはずのかれの姿は見えないままだった。光りはあまりに眩しくて、眩しくて、市にはもうその形すら見つけることが出来ない。きっとかれもそうだろう。市のように罪にまみれた暗闇は、光りの目にはきっと映らない。
ただ、どこからか泣き声が聞こえた。声を殺して、まるでひどい傷を負った獣が身を潜めるかのように、それは隠しきれない悲痛さを湛えてかすかに響く。市は空を見上げた。これから陽が暮れてゆき、あの眠れぬ夜がきっとまた来るだろう。市は涙を流し尽くし、思い出せない思い出を求めて再び彷徨うことだろう。
それでもおひさまは昇るのだ。気が触れるような夜は必ず明けて、光りは何度でも、市のすべてを優しく照らしてくれる。そうして市に生きろと云う。その弱さを守るためにこそ、自ら孤独を選ぶのだと云う。
だからこのか弱い泣き声のぬしも、いずれ顔を上げて歩き出すことが出来るだろう。市とおんなじだ。たとえ泣きながらでも、光りの方へと向かうのだ。だからだいじょうぶ、と市は心の中でかれに語りかけた。きっと、市もあなたも、どれほど寂しくても生きてゆける。