ハイビーストはそもそも高い知能を備えている種族ではあるが、とはいえ、なにもこの世に生を受けてすぐに賢者のごとく振る舞うことが出来るわけではもちろんない。
生まれたての人の子が突如として人語を操ることなど有り得ないように、ハイビーストの子もその成長に応じて周囲から知識を吸収し、ゆっくりと頭脳を鍛え上げる。そういった意味でも、ロックスは確かに希有な子どもであった。彼が生まれたのはすこし肌寒い秋の日の深夜で、それからきっかり七十二時間のうちに赤子は父と母の名を呼び、大婆と姉の名を呼び、そして自身の空腹を訴える言葉を覚えた。無論、呂律などろくに回ってはいない。けれどそのつぶらな瞳を覗きこんだものはすぐさま、この小さすぎる口から飛び出してくる言語が、けっして偶然放られたものではないことを確信できた。
なんと知性に満ちた、慈悲深いひとみをしているのかと、大婆はそう言って双眸をゆるめ、母と姉ははたしてだれに似たのかしらと小首をかしげ、そして父はというと、我が子は天才だ、天からの遣いに違いないと誇らしげに長い鼻をふくらませた。ロックスの父は村のなかでも大きな力を持つ存在で、そのうえ自慢やでおしゃべりなたちであったため、神童のうわさは瞬く間に近隣一帯へと駆け巡った。
巨大な体躯を持つ象の家に現れたほんの小さな新しい命は、こうしてこの世界に迎えられることとなった。ロックスにとって、幼少期の記憶はふしぎなほどに鮮明だ。昨日得た知識より幼い日に学んだものごとのほうが真新しく感じるほど、それらは代わりの利かぬ輝きをきらきらと放つ、幸福な日々であった。
たとえば、そう、名だ。
目に映るすべてに名称が存在すると知ったときの、その胸の高鳴りを、ロックスはけっして忘れることはないだろう。最初は「柱」だった。家には四本、とても大きな柱が立っていて、それが屋根を支え家屋を守ってくれていることの想像はついたが、よもやこんなものにまで名が付けられているものだとは思いもしなかったのだ。ロックスはそのころには「木」を知っていたので、「おおきな木の棒」などと呼ぶわけにはいかなかったのか、なぜ「柱」と名付けられたのか、そのひみつが気になって仕方がなかった。
家族はみんな、その謎の正体を知らなかった。知ろうと感じたことがないようだった。姉はすでに学校へ通っていたので、あした先生に訊ねてみるわね、と幼い弟に約束してくれた。けれどロックスはすこしばかり思案し、首を横に振ることにした。いずれ学校に行くその日に、ぜひ自分の口から問いかけてみたいのだと、拙い言葉で彼は姉にそう伝えた。姉はおどろいたふうもなく、もちろん気分を害したふうもなく、あらそう、と間延びした声で返した。ロックスはそのとき生後ひと月に満たなかったが、彼のそういった年不相応な発言を、周囲はすでに当たり前のものとして受け入れはじめていた。
学校へ通うことになるのは早かった。目に映るあらゆる物の名を覚えたロックスは、それからすぐに文字を読むこと、書くことを知った。最初に彼の教師となったのは大婆だった。ちょうど日がな家で過ごすことに退屈を感じはじめていた彼女は、ひ孫の優秀さに最初こそ大喜びしたが、しかしすぐさま根を上げた。読み書きを覚えたロックスはあっという間に家中の書物を紐解き、その内容について、意味について、細かな説明を求めるようになったのだ。幼子に知る由はなかったが、大婆というのは大変な年より象で、村では生き字引として大切にされてはいるものの、もう随分ともうろくしていたのだった。彼女はひ孫にものごとを教えることによって、自身の衰えを知らされた。わたしが師ではこの子の才能を枯らせてしまいかねない、と気付いた大婆は、その日のうちに、長いこと動かしていなかった巨体を持ちあげ、近隣の村の子どもたちが通う大きな学校へとじきじきに出向いた。大婆は校長先生と長い長い時間を話し合い、結果、ロックスは特別に校内へと招き入れられることになった。一歳の誕生日を迎えてから少しばかり経った、寒い日のことだった。
学校はとても楽しいところだった。ロックスと同じ村から通う象の子どもたちはもちろん、ほかのさまざまなハイビーストや、ワービーストたち。ときにはインセクトやドリアードの出入りする姿さえ見られた。ズーの法は国内における生きとし生けるもの全ての自由を約束しており、その環境はロックス自身の視野を大きく広げさせた。彼は広大な祖国の大地を、そこに広がる自然の在り方を心から誇らしく感じた。そして漠然とではあるが、いずれ大人になったその日には、必ずこの国の力になろうと胸に誓った。
生徒たちが三年間かけて終える学習のすべてを、ロックスはちょうど半年で身に付けた。周囲はだれも驚かなかった。ロックス自身も、驚いてはいなかった。ただ、校長室へと呼び出され、これ以上きみが学ぶべきことはここにはないと告げられたときには、いままでに感じたことがないほどのショックを受けた。打ちひしがれたと言っても過言ではなかった。ロックスは、自身が未熟であるという自覚があった。まだまだ、知りたいことが山のようにあったのだ。図書室の本だってすべて読み終えてはいない。受けたことのない授業も、話を聞いたことのない教師もまだまだ残っていた。ロックスにはこの場で学びたいことが数多くあるというのに、先生はもう通ってくる必要はないという。
立ち竦むロックスに、校長先生は言った。とても優しく、そして屹然とした声だった。
「きみは、大学へ行きなさい」
家に帰ったロックスは、ひとりぼんやりと書物をめくっていた。学校の図書室で借りてきた、医療の基礎についての本だった。この国には多くの生き物が存在しており、怪我も、病も、それぞれの種によって大きく異なる処置を取ることになる。その本には長鼻目の特色について詳しく記述されており、ロックスはこの半年の間、内容をまるまる記憶してしまうくらい、何度も何度も目を通していた。
そのせいだろうか。ロックスはぼんやりしているのに、そこに並ぶ字列などまったく頭に入ってきてはいないのに、ページを捲る速度はいつもとまったく変わらなかった。もう、覚えてしまっているのだ。この本には知っていることしか書かれていない。けれどそれを繰り返し読むことで、いっそう書物への理解が深まることをロックスは知っていた。同じページを何度開いても、そのたびに、頭は違う発想を生みだすのだ。そうしてロックスはそれを喜ぶ。驚嘆し、歓喜し、また夢中で読み込むことを繰り返す。
無限だ。ロックスはそう思う。
そこにあるのは無限だった。終わりのない、とてもとても広大な世界だ。医学だけではない。ロックスは学校で知るものごとすべてに、おなじ広がりを見出していた。その無限に魅せられるように、毎日夢中で本を読んだ。教師の言葉のひとつひとつ、自分が記す文字列の隅々に至るまで、空気を震わすほどの力を宿しているように思えた。
だというのに。
ロックスは悲しげに目を伏せた。広げていた書物を閉じ、それから、静かに立ち上がる。こんなふうではダメだと思う。これでは、この本を作った人に失礼だ。集中力の欠如した頭を軽く振り、そうして窓の外を見やると、とうに陽は落ちて真っ暗になっていた。
すこし思案してから、家を出る。家族はみんな眠ってしまっていた。ロックスに元気がないことに、彼らはきっと気付いているだろう。学校へ通うと決まったとき、一番喜んでくれたのは父だった。母も、姉も、祝福してくれた。異例のことだと、村のみんなが口を揃えて言った。ロックスも、胸を張って校舎へと足を踏み入れたのだ。
大学へ行くと言えばきっと、みんなまた、喜んでくれるだろう。
暗い夜道を、ロックスはしずかに歩いていた。こんな時間に外出をするのははじめてのことだった。村はこの近辺では一番おおきく、なにより平和だった。争いのない、とても穏やかな場所だ。けれど国内には、文字や数式を学ぶことなど到底できないくらい荒れ果てた土地も、決して少なくはないと聞く。
巨大な屋根が並ぶ景色を見ながら進むと、自分がどれほどちいさな存在であるかよく分かった。月灯りに浮かぶ影が幼い。それを眺めながら、ロックスは村を出た。星が明るい夜だった。大地は広く、どこか遠くから、低く鳥の鳴き声が聞こえる。
その鳥の名を自分は知らない。
ロックスはそのことを知っていた。姿を見たこともない生き物が、このどこまでも広がる世界のどこかに存在することを理解していた。それらのすべてに独自の言語があり、文化があり、生活があることを思うだけで、心がそわそわと揺さぶられた。この大地のどこにも、きっと行き止まりなどないと思った。
空を見上げると明るい輝きが広がっている。あの星の名を知っている。星と星を線で繋ぎ、浮かび上がる姿の名を知っている。けれど宇宙のことは知らない。名ばかりを覚えても、それは理解にはほどとおい。この鼻を掲げ、伸ばしても、決して届かない場所にあれらはあるのだ。ロックスは微笑んだ。微笑んでから、そうっと、嘆息した。
「センチメンタリズムかね、少年よ」
とたん、声が聞こえた。ロックスは僅かに目を見開いて、それから自身の足元を見た。するといつの間にそこにいたのだろう。からっぽの大地のその上に、一匹の猫がごろりと横になっていた。まるで昼寝でもするかのように、空を仰いで転がっている。
ロックスはもちろん驚いたが、けれど、ふしぎと彼の存在を問う気にはならなかった。感傷的になっている自覚はあったので、はい、と素直に頷いた。それに気をよくしたか、猫は上半身を起こし、らんらんと輝くふたつの瞳をこちらへ向けた。
彼は奇妙な姿をしていた。碧色の目も、灰色の毛も、決して珍しいものではないのに、見たこともないほどふしぎな色を宿しているように思えた。深く響くような声音は老猫のそれであったが、しかし体格はひどく若々しく、青年然としている。ロックスが今までに出会った誰より――それはあの村一番の長寿である大婆よりもはるかに――年を取って見えるが、同時に、誰よりもきびきびとした俊敏な気配を滲ませている。神さまのようだ、とロックスは思った。自分はいま、きっと、神さまに出会っている。
灰色猫はにやりと笑った。悩みの多いことは悪くない、と唱えるように言った。
「けれど、若者よ。きみのような幼い命に、溜め息はよくない。その呼吸のひとつが、この世を震わせ、風を生み、はるか遠い地まで駆けることを忘れてはいけないよ。おなじだけの熱量を吐き出すのなら、そりゃあ、笑い声の方が良い。そうは思わんかね」
問われ、ロックスは返答に迷った。この奇妙なひとが、はたして何ものであるのか、それ自体を言及する気はなかったが、相手をしていて良いのかどうかはあやふやであった。口ごもるロックスに、彼は気分を害したようすもなくけらけらと笑った。それはたしかに、溜め息よりははるかに有意義な笑みであるように思えた。
「……悩んでいるわけではないのです」と、ロックスはおずおずと切り出した。「ただ、どうにも頭がすっきりとしないもので。夜風にあたれば、気持ちが晴れるかと思ったのですが」
「なるほど。悪い判断ではないね。それで?」
「ええ、はい。それでその、結果的には、気持ちは晴れませんでした」
「きみはとても素直だ」そう言って灰色猫はふたたび笑った。「それは大切にすべき美点だよ。すばらしいことだ。そうだね、気持ちが落ち込むというのであれば、どうだろう。わたしがきみのその暗雲を晴らすというのは」
「あなたがですか?」
「そうとも。わたしはね、こう見えてとても、人生経験が豊富なのさ」
きっと力になるよ、と彼は言った。ロックスはわずかに考え、それから、不安があります、と呟いた。素直であることは美点だと目の前の猫が言ったので、それに従おうと思った。
「ぼくは生まれてから、ずっと、ずっと、しあわせでした。ふと気が付いたそのときには、目の前に、未知のものごとがあったからです。言葉があって、文字があって、それを教えてくれる相手がいて、ぼくの気持ちを受け取ってくれる相手がいました。毎日がしあわせだったんです。いいえ、いまもそれは変わりません。けれど、どうやらそれが、もうじきに終わってしまうようなのです」
「ほう。いったい、なにがあったんだい」
「大学へ行くことになりました」
それはここからとても、とても遠い場所にあった。広大なズーの土地は、一日や二日をかけて渡り歩けるようなものではない。ロックスは村を離れ、ひとり遠い地へ行くことになる。そこでならもっと多くのものごとを学べるから、と校長先生は言った。この学校にはもう、きみに必要な知識は残っていないのだとも。
「けれど、ほんとうにそうなのでしょうか。ぼくはずっと、知るということは無限を示すものと思っていました。はたしてここに、この場所に、ほんとうにぼくの知るべきものごとはもうなにひとつも残っていないのでしょうか。もしもそれが事実なのだとすれば、では、その大学という場所ででも、いつかぼくの居場所は消えてしまうのではないでしょうか」
空を見上げる。宇宙がある。その地は無限に広がっているという。ロックスは遠く瞬く星々を見つめ、ひどく寂しい気持ちになった。それは生まれてこのかた、経験したことのない感情だった。終わりというものを考えたことがなかったのだ。
「ずっと夢の中を歩くようでした。知らないものごとを理解するのは幸福なことだと信じていました。けれど、どうやらそうではないようなのです。ぼくはこの空の先を見つけることを、いまは、おそろしく感じて仕方がありません。この地で学ぶことを終えてしまって、はじめて、こんな気持ちを知りました。ぼくは、すべてを知ってしまうことがこわい」
言葉にすると、それはするすると、なめらかに自身から零れていった。知らないことがあるから、ロックスは日々を幸福にすごせていたのだった。もしも知りたいことがなくなってしまったならば、そのとき、この世界は終わってしまうように思えた。そうしてその日は、いつか必ずやってくるのだ。すくなくとも、ひとつめの終わりはもう目の前にあった。
ロックスは静かに息を吐いた。黙って話を聞いていた灰色猫はそれを合図とするように、ふむふむ、と唸ってみせた。そうしてから、ふたつ良いことを教えてあげよう、と彼は言った。
「ひとつめは、そうだね、あの男の言を引用することは、正直わたしとしては少々遺憾ではあるのだが……」言いながら、あごひげを撫でつけるような仕種をする。彼は言葉どおり、どこか釈然としないといったふうな表情を浮かべ、けれどはっきりとした声音で、
「なあ少年。学問には、限界などないのだよ」
そう言った。
それは深閑とした夜の中で、くるくると弧を描いてロックスの胸にすとんと着地した。まったくそのとおりだ、とロックスは思った。自分はとうにそれを知っていたはずなのに、こうやって誰かに言葉にしてもらってはじめて、ようやくその真理を得たように感じた。彼は心中、噛みしめるようにそれを繰り返した。そうだ、そのとおりだ。
学問に限界などない。
凪いでいた心がとたんにざわつきはじめた。こんな簡単なひとことで、目の前の彼は宣言通り、ロックスの心を晴らしてしまったのだった。驚きは胸中だけでなく、表情にもあらわれていたらしい。ふしぎな猫は翠色の両目をにんまりと細めた。まるで、ロックスの手を取り導くかのように、ふたつめだ、と彼は言った。
「グレートネイチャー総合大学に行きなさい。故郷を離れ、家族と別れることはつらいだろうが、そこに用意された道は間違いなくきみに相応しい。学ぶことを幸福ととらえるのならば、決して後悔はさせないよ。あそこはそういう場所だ。きみのような若者が山ほどいて、みながその無限に向かって歩みを続けている」
ロックスは今度こそ驚いた。その大学の名を、自分はひとことだって口にしてはいないはずだった。
グレートネイチャー総合大学。
この世界で、最高の知性が集まる場所。
ロックスはそこへ呼ばれていた。校長先生が推薦し、特別に入学の許可を貰ってきてくれた。それはこれ以上ないほど名誉なことで、前例のないことで、断る理由の見つからない話だ。
ロックスは、目の前の翠の瞳をじっと見つめた。神の化身のような彼は、やはりにやにやと不敵な笑みを浮かべていた。
「そう不審な目をするものじゃないよ、少年。わたしはね、べつに、きみを見極めるためにやってきたわけじゃあない。きみとここで出会ったことは、ほんとうにただの偶然なのさ。実際、わたしはきみの名前さえ知らない。けれどきみのような目をした子どもが、大学へ行くという。だったらその行く先は、我らが総合大学以外にはありえない。ただそれだけのことさ」
「ぼくはロックスといいます」
「そうかい」
いい名だ、と彼は笑んだ。覚えておこうと呟いた。
「わたしの名も覚えておいてくれ。シルベストだ。いつか、きっとまた会おう」
口ずさむように告げて、彼は立ち上がった。それから一度も振り返らずに歩き出す。その奔放な後ろ姿を見送ってから、ロックスも彼に背を向けた。村へと戻る道すがら、もう一度、あの低く鳴く鳥の声を聞いた。
すべてを知ることがおそろしいだなんて、とんでもなく大それた不安であったと、幼子は自分を恥じた。知ろう、と思った。自分はまだ、学ぶことのスタートラインにさえ立っていない。だったら知ろうと、そう決めた。あの鳥の名も、頭上に広がる星々のすべても。
それを考えるとわくわくした。終わりなどない。ロックスは目元を緩ませて、村へと戻った。眠りにつく瞬間に、何度も、学問に限界はないと言った彼の声を思い出した。
* * *
旅立ちの日の朝、グレートネイチャー総合大学からは複数の使者が寄せられた。大学の教員であるという彼らは、ロックスの両親にふかぶかと頭を下げ、幼子を預かることに対する責務を語った。父と母があそこまで恐縮するさまを、ロックスははじめて見た。姉とふたりでこっそりと笑い合っているうちに、出発の時刻がやってきた。
大学へ呼ばれたことを告げた日、家族はこれ以上ないほど喜んでくれた。父は自分のことのようにはしゃぎ、こうしてはいられないと、その翌日には遠い仕立屋まで出向いていった。きれいな装飾のほどこされた衣服と帽子をロックスに着させて、おまえは自慢の息子だと何度も言った。母は毎日ロックスの好物を用意してくれた。姉はそんな両親を眺めてはふたりとも大袈裟だと肩をすくめていたが、夜になると、すこし寂しげにロックスの鼻先をそっとつついた。
みんなから祝福の言葉を受け取りながら、ロックスは村を出た。あれほど笑顔を振りまいていたはずの父は、しかしいざその瞬間になると、ぼろぼろと大粒の涙を零して別れを惜しんだ。つらいことがあったらいつでも帰ってきなさいと母は微笑んで言った。大婆も見送りに出てきてくれた。ロックスは彼らを見上げ、一度頭を下げると、そうして歩き出す。大学は村よりもずうっと南方の、遠い場所にあるという。
まだ幼いロックスの足には、長旅はとても過酷に思えた。事実、迎えにきてくれた教員たちは、過剰なほどにロックスを気遣ってくれた。小さな歩幅に合わせ、旅はゆっくりと進んでゆく。長く戦争を行っていないこの国はたしかに平和だったが、しかし土地のすべてが安息に包まれているようなことは決してない。緑の茂る豊かな大地は楽園のそれではないのだ。適度に休息を取りながら、一同は足早に南を目指して歩いた。
ロックスがそれを見たのは、五日目の朝のことだった。
森の隅で夜をすごし、明け方にまた歩を進めはじめた。夜更けに僅かに降った雨の残り粒が、朝の陽に照らされ輝いていた。そのころには教員たちともずいぶんと打ち解け、見知らぬ草花について言葉を交わしながら、すこしぬかるんだ道を歩く。森を抜け、視界が開けたのはそのときだった。
「……ああ」
と、吐息を漏らす声がどこからか聞こえた。それは側にいた教員たちのものであり、そしてロックス自身のものであった。
遠く、広い大地のその果てを示すかのように、巨大な樹がそびえている。それは朝の澄んだ空気のなかで凛と立ち、森を、樹木を、この国に生きゆくすべてを見守るように、神々しい輝きを放っていた。
ああ、とロックスはもう一度言った。感嘆よりほかに言葉の生まれない光景だった。世界の枢軸がそこに在り、頭上に広がるまっさらな空に両手をひろげている。そうやって大地を支え、光を従え、この先に歩むべき道を照らしている。それは啓示であるようにロックスには思えた。「柱だ」と彼は言った。つぶやきに、教員のひとりが首をかしげた。
ロックスは大樹を見つめながら言う。
「すべてのものに名があることが不思議だったのです。はじめに気がついたのは柱でした。ぼくの家にはおおきな柱が四本立っていて、それが屋根を支えてくれていた。ぼくには大きな木の棒にしか見えないそれを、けれどみんなが柱と呼んで、それによってぼくはその名を知りました」
その日に覚えたのだ。ものに名があること、それを知ることを喜び、そして考えること。ロックスにとってはそれがすべてのはじまりで、そして、この世界へと生まれてきた理由にほかならなかった。
あの巨大な木は柱によく似ていた。
空は屋根で、世界は家だ。自分たちは大きな器の中にいる。巨大な力に守られている。
「あれの名はなんというのでしょう」
問いかけに、教員は微笑んだ。まっすぐにその柱を眺めやり、とてもおごそかな声でその言葉を口にする。
聖樹。
この国を守護するもの。聖なる力を宿した、生命の導き手。大樹は大輪の花をまといながら、遠目にもはっきりと分かるほどの色彩をまとって存在していた。ロックスはそれを見つめ、再び歩き出す。
グレートネイチャー総合大学へと到着したのは、それからさらに十六日をかけた旅のあとだった。
学び舎はロックスの夢想したよりもはるかに大きく、どれほど空高く舞うことの出来る竜の一族でさえ、敷地のすべてを一望することは不可能なのではないかと思われた。南に巨大な森を潜ませ、西には大海を構えるというそのキャンパスは、たしかに豪奢な門によって入口を定められてはいたが、はたしてそれのどこからどこまでが学内として良いものなのか、ロックスには見当もつかなかった。そもそも大学という場所は、自身の学びたい分野によって環境が大きく隔てられると聞いている。教室どころか、校舎さえ別な場所に建てられて、勉学や研究により熱心に取り組むことが出来るよう図られているらしいのだ。
なんだか途方のない場所へとやってきてしまったようだ。校門をくぐりぬけ、きょろきょろと周囲を見回しながら、ロックスは実にめまいのする思いであったが、しかしそれ以上に、好奇心が身を逸らせたのも事実であった。ロックスの村では樹木をそのまま基盤とした建築物が一般的で、こんなふうにつやつやと削られた木材や石材を用いた建物はというと、村の集会場や、あるいは学校の奥の貴重な資料なんかを扱う一部の場所でしか見ることがなかったのだ。これほどのものを造り出そうと思うと、はたしてどれほどの年月と、なにより技術が必要であるのか、考えるだけで胸が高鳴った。そのうえ大学は、ほとんど剥きだしの自然の中に校舎を並べ立てていて、見慣れた青空や大地に聳える木々たちが、ひどく当たり前のように視界の端々に現れるのだ。ロックスは、ズーの大地を踏みしめられることが嬉しかった。石造りの歩道もあるにはあったが、それですら、大自然からの恩恵を爪先に感じられるような、そんな優しさを感じるものばかりであった。
時刻はまだ昼間で、学生と思わしきハイビーストたちの姿もそこかしこに見られた。みな、教員たちにあいさつをし、ロックスへは物珍しげな視線を加えて去ってゆく。当たり前だが、ロックスと同じくらいの年頃の子は皆無だった。ふう、とロックスは静かに息を吐いた。その心中を見抜いてか、となりを歩いていた教員のひとりがくすりと笑った。
校門を抜けてすぐに見えてきた、ひときわ大きな建物に足を踏み入れる。入ってすぐ、視界いっぱいに現れた広間のような空間に、ロックスは目を白黒とさせた。目がくらむほど、そこには絢爛な景色が広がっていた。高い天井(大人の象が頭上へまっすぐ鼻を伸ばしても、まだまだ余裕があるほどの高さだ)には煌びやかな装飾が施され、つややかな柱のひとつひとつに、信じられないほど凝った文様が刻まれている。よく見ると、広い壁の全面が書棚になっているらしく、生徒とも教員とも取れるような幾人かが、ずらりと並ぶ分厚い書物を抜き出して手に取っているようすがそこかしこにあった。ならばここは図書室かしら、とロックスは思った。ロックスの知る学校の図書室に比べて、気が遠くなるほど美しく広大な場所ではあったが、しかし大学という場所の書庫ならば、それは納得のゆく空間であった。
けれどロックスの予想とはうらはらに、ここは教職員のための建物です、と前を歩く教員は誇らしげに言った。つまるところ、では、ここはとても大きな職員室ということだろうか。
まったくなんて世界だろう。石畳の上を一歩一歩と進みながら、ロックスは再び、ふう、と息を吐いた。広間を通り抜け、長い廊下の奥へ奥へと歩を進めていると、じきに巨大な扉が目前へ現れた。
それは、木でも、石でもない、なにか別な素材で造られているようにロックスには見えた。やはりきらきらとした艶やかな飾りに彩られた、美しいドアだった。きっと、この宝飾と技巧を眺めていられるなら、どれだけの長い時間も気になりはしないだろうと、ロックスはそう思う。けれど幼子がそれをうっとりと見つめることが出来たのはほんの一瞬のことで、巨大な扉はあっけなく、しかしその存在の重みを損なわぬよう厳かに、ゆっくりと、開かれた。
室内にはひとりの男が立っている。
いや、ハイビーストなのだから、一匹の雄というべきだろうか。実際には、一羽とするのが正しいはずだ。彼はペンギンの姿をしており、鋭いくちばしと、そして同じくらい鋭い眼光でもってロックスを迎え入れた。
扉が背後で閉じられる音が淡々と響いて、それを聞きとどけるように間を空けてから、教員たちが揃ってこうべを垂れる。その動作につられるようにして、ロックスも鼻先からそっと頭を下げた。目の前の人物は、唸るような、咳払いをするような軽い声音で、ふむ、と言った。突き刺すように鋭利な眼差しから想像するより、いくらか優しい声だった。
「待っていたよ、ロックスといったね。頭を上げなさい。きみたちも、こんな小さな子の前で、そうやってかしこまるものではない」
委縮しているじゃないか、と彼は苦笑混じりに言った。それに、教員たちも少し笑って頭を上げる。
「はじめまして」と彼は言った。「わたしの名はアプト。グレートネイチャー総合大学の長を務めている」
長、というのはつまり、校長先生ということだ。ロックスはそうっと視線を上げた。宝石のように輝く青い目が、明確な知性を覗かせてこちらを見つめていた。優しい顔だ。それにまっすぐな視線を返しながら、「はじめまして」とロックスも丁寧にあいさつを返した。「このたびは、お招き頂き光栄に存じます」
たどたどしく、けれど屹然とした態度で告げた幼子に、アプトは目を丸め、さきほどと同じ軽い声で「ふむ」と再びつぶやいた。「なるほど、見かけのままに扱うことは、逆に失礼にあたりそうだ」
言いながら、ロックスの背後に立つ職員たちと目配せでなにか会話をする。青色の目は柔らかく笑んだ。
「だがね、ロックス。きみはこの地に招かれたのではない。自分自身の力で、ここまでやって来たのだ。きみの道はとうにはじまっていて、そうしていまようやく、ここに辿りついたばかりなのだよ。そしてまだこの先がある。グレートネイチャー総合大学は、ひとつの到達地であり、同時にはじまりの場所であり、そして通過点だ。我々は知り得る限りすべての知識をきみに与えよう。この地で学びたいものごとはもう決まっているかい?」
「いいえ」ロックスは逡巡しつつ、それでもはっきりと首を振った。「いまのぼくの望みは、自身の可能性を知り、歩むべき道を見極めることです」
「よろしい。では、きみには特別な措置を取ろう。この地の叡智すべてを受け取る自由を、わたしはきみ自身へと与える。好きな時に好きな書架へおもむき、好きな書物を開きなさい。そうして好きな科へと向かい、好きな講義を受けること。けれど最初の授業だけは、わたしが講師を務める。これは我が校の伝統のようなものだからね。とはいえ、今日はもう休みなさい。長旅で疲れているだろう」
それはロックスに、そして教員たちにかけられた言葉だった。たしかに、とてもとても長い旅路を経て、身体は大層疲れていた。しっかりとした屋根のある部屋で眠りたいと思う。はじめて見る世界に心はどきどきとはしゃいでいたが、これからもっと長い時間をこの場所ですごすのだ。いまは少し、ゆっくりしたい。
今さらのように、のろのろとした倦怠感がロックスの身体を包んでいた。そこでようやく幼子は、自分がもう随分長いこと、ひどく緊張していたことに気がついた。とたん、なんだか妙に気恥ずかしくなってしまい、僅かにはにかむ。
ロックスのそんなようすを見やり、アプトは再び、入室してすぐのときのような優しい眼差しを浮かべた。「焦る必要はない」と彼は言う。
「きみは未熟で、だからこそ豊かだ。世界を知りなさい。この世にはあらゆる可能性があり、それはきみ自身とて同じなのだ」
そう明言し、アプトはどこか遠い目をしてみせた。きらきらと輝く青い瞳を細め、そして彼は、その言葉を口にした。
「そう、学問には限界などないのだから」
ロックスは思わず、「あっ」と声を上げた。目の前のひとの告げた言葉に、たしかに聞き覚えがあったからだ。教師たちに怪訝な視線を送られて、ロックスはかすかに小さくなった。「もうしわけありません。ただ、以前、学長先生のおっしゃったのとおんなじ言葉を、ぼくに教えてくれたひとがいて……」
青い宝石の瞳がかすかに煌めいたように見えた。どこか動揺したような声音で、「その者の名は?」と問われて、ロックスは答える。
「シルベスト、と名乗っておいででした」
まるでなにかの災害にでも出くわしたかのように、その場にいる全員が、ひどく慌てふためいたようすでその名を繰り返すのを、ロックスは両目を丸めて眺めていた。
* * *
グレートネイチャー総合大学の図書室は広い。
そもそも、図書館と呼ばれる建物がまず複数存在する。各学科によって管理されているそれらはキャンパスのあらゆる地に点在し、それぞれの資料や文献を必要としている学生たちのために多くの蔵書を抱えていた。ロックスはそれらを自由に見て回る。興味をそそられたものにはすぐさま手を伸ばし、そして日々読み耽る。長い鼻でページを捲り、ゆっくり、じっくりと字列を追う。ほかの生徒たちが各々の分野で講義を受け、研究を繰り返す時間のすべてを、ロックスは読書に費やしていた。
そして思う。この世界に残された、数多くの知識。それらを吸収するところからはじめようと考える。
到達地であり、はじまりの場所であり、そして通過点であるというこの場所で、まずは先人の残した道を歩こう。そうしていつか、自分が極めたいと感じたなにかに出会った日こそ、自らの力でその一歩を踏み出し、新たな世界を切り開こう。
薄暗い書庫の片隅で、幼子はかたわらの燭台に明かりを灯した。広い館内に小さな影が落ちる。ゆらゆらと揺れる灯火をたよりにページを開くと、そこには未知が広がっている。
終着点のない、はてしなく続く学の世界。
その無限に飲まれることなく、彼は静かに書物を眺めた。のちに万物の真理を極め、生きた伝説と呼ばれることとなる少年はしかし、いまはまだ、学び舎の隅で小さな身体を丸めてすごすばかりであった。