日本大会を終えてからというもの、クリスは、よく笑うようになった。
別に、もとが無愛想だったというわけではない。SITのトップに立つクリストファー・ロウは常に余裕を持った穏やかな顔つきで、悠揚たる態度でもって他者に接することの出来る優秀な人物だ。そうあるべしと指導を受けてきた。クリスだけではない。SITの生徒として恥ずかしくない言動を心がけなさい、という苦言は、入学以来耳にタコが出来るほど聞かされ続けている。
とはいえ、ここまでしつこく言い渡されているのは、もしかしたら自分だけなのかもしれないけれど。
思いながら、アリは両手でそうっとドアを閉めた。巨大な扉。十二歳の手のひらには余る、とてもとても重い門だ。少しでも下品な音を響かせれば、とたんにまた室内に逆戻りである。それだけは避けなくてはならないので、つややかな木のかたまりがピッタリと閉じられた瞬間、アリはようやく全身の力を抜いて安堵の息を吐いた。ミッション終了だ。これで自由だ。廊下へと踏み出した一歩目こそ軽い足取りとは決して言えないものだったが、もう数歩も進んでしまえばあとはこちらのもので、指導室のドアが遠ざかるにつれてアリの両足はまるで羽根でも生えたかのような軽快さを取り戻していった。フンフンと鼻歌さえ奏でながら渡り廊下を通りすぎ、エレベーターへと乗り込んで降下し、中庭を抜けて食堂へと向かう。
昼過ぎの混み合ったテーブルの中に見慣れた後ろ姿を見つけ、アリはまっすぐにそちらへと歩を進めた。「おまたせー」と笑いながら正面に座ると、ちょうどストローから口を離したばかりのリーが視線を上げて、なんだアリか、とひどく冷たい声で言った。「ずいぶんと早かったんだな。もっと絞られてくれば良かったのに」
「そう言うなよぉ。三十分だぜ、三十分。よく頑張ったって褒めてくれてもバチは当たらないと思うんだけど」
「もっと絞られてくれば良かったのに」
おなじ言葉を、今度はより噛みしめるように呟いて、リーは嘆息混じりに再びストローを口にくわえた。ひと口ちょうだい、と言ったところで分けてくれるようすは微塵もなかったが、それは構わない。リーの好むアイスティーはいやに甘くて、どちらにせよアリの口には合わないのだから。
けれどその事実を押してでも、時々「ひと口」を求めたくなるのは、リー・シェンロンがひどく素直で愉快な反応を返してくれることが分かっているからだ。大人も、子どもも、もちろん女の子たちも、この世の大抵の人間はアリがニッコリと笑って要求するものごとに対して従順だが、リーは違う。アリの軽口に、すぐさま「ハァ?」と怪訝そうな顔をする。場合によっては、正気かどうかさえ問うてくる。それはとても新鮮で、心地のよいものだ。アリは思いながら、さてでは、ただそのやりとりを望む気持ちだけで「ひと口」を求めてみるべきかどうかを考える。
けれどその答えが出るより先に、手元にことりとコップが置かれた。中身はアリの最近一番のお気に入り、トロピカルフルーツをふんだんに使ったミックスジュースだ。おや、と思い顔を上げると、背後からそれを差し出した人物がニッコリと笑う。
「おかえり、アリ。ごくろうさま」
クリストファー・ロウはそう言って、アリのとなりの席に腰掛けた。「ちょうど、入ってくるのが見えたから」と食堂の大扉に視線をやる。自分のドリンクを買うついでに、アリの分も調達してきてくれたのだ。なんという心遣いだろう。サンキュー、と軽い声で受け取ると、クリスはどういたしましてというふうに微笑んだ。
ああ、本当によく笑うようになったなぁ、と、アリは思う。
はじめて会った時からずっと、大人びた態度を崩さない少年だった。口元にかすかな笑みを浮かべながら、クリスはいつだって自分たちの前を歩いていた。背筋を伸ばし、けれど無理に背伸びをするようなようすもなく、常に余裕を忘れない彼の後ろ姿は間違いなくSITのトップに相応しいものだと思えた。それは今でも変わらない。なにかが変わったとすればそれはおそらく彼だけの問題ではなくて、たとえばこうやって、平日の午後一時、講義のない自由な時間になにをするでもなく三人で集まってぼんやりと過ごしている、こういった時間そのものが強く影響しているのだろう。クリスがよく笑うようになったという、ただそれだけのことでなく、その笑顔を正面から見る機会が以前よりも増えたのだ。そういうことだ。そしてそれは、なんというか、とても良いことなのだ。それでいてきっと、とても普通のことなのだ。
たっぷりと砂糖を注いだカフェオレをかきまぜて、それを舐めるように少しだけ飲んでから、それで、とクリスが口を開いた。「今回はなにが原因で呼びだされたんだい?」
「どうせまた、新任の教員を口説いたとか、部外者の女子を勝手に学内に連れ込んだとか、そんな下らないことだろう。いい加減懲りろよ、お前も」
「いやあ、参ったよねホント。べつに口説いてるわけじゃないし、連れ込もうと思わなくても勝手に着いてきちゃうんだもん」
「不誠実」
と、冷たい声でリーは言うが、しかしアリがモテるのは覆しようのない事実なわけで、自分を好いてくれるかわいらしい女の子たちに対して無下な態度を取ることの方が、よほど誠実さに欠ける行為であると主張したい。
もっとも、今回に限ってはいつもとはまた少し異なったお呼び出しだ。アリは唇を尖らせて、実はさぁ、と不服を漏らす。「あれが気に食わなかったらしいんだよね。アジアサーキットのシンガポール大会、葛木とのファイト」
「ああ」とリーがかすかに唇を歪めて笑う。「お前が負けたあれ」
負けたのは事実なので、アリはリーの言葉にすんなりと頷いた。そうそうあれあれ、と軽く返してやると、言った彼のほうがバツの悪そうな顔をする。リー・シェンロンのこういった不器用なところを、アリはむしろ好ましく感じている。
「後学のためにってことで、あの試合の中継映像を全校生徒に配布するつもりらしいんだけど、ファイト中の俺の態度が『SITの代表として相応しくない』せいで編集が滞ってるんだとさ」
頭の固い教員に限って、アリが女の子たちへと向ける爽やかかつ友好的な態度に対してなにかと目くじらを立ててくる。今回もその延長線上のお咎めではあるのだが、しかしどうせ全世界に向けて配信済みの試合だ。今更とやかく言ったところで時間が巻き戻るわけでもない。そもそも学校から申し渡されるまでもなく、SITに所属するファイターなら自主的に録画した映像で研究を重ねているはずだ。アリたちがそうであるように。
そんな反論が心中で渦巻き続けた三十分であったが、アリはそれらを口にすることなくしおらしい態度で苦言の数々を聞き通した。相手は自分たちのような飛び級生のキャンパスライフを見守り正すことが仕事の教員なのであり、そもそもヴァンガードファイターですらないのでファイトについての不知を取り上げても仕方がない。
というわけで、アリなりにちょっとは気を使った時間を過ごしてきたのだが、しかし目の前の友人ふたりの反応は薄かった。リーは「バカかお前は」と言わんばかりの表情で鼻を鳴らし、クリスはというと、にこにこと微笑みながら「アリは優しいなあ」と他人事のように言う。
「……お前ら、教師相手でも容赦ないもんな」
「うーん、悪い人ではないと思うんだけど」
ヴァンガードのことよくわかってないなら黙っててほしいんだよね、とクリスは苦笑いを浮かべる。その点に関してはアリも概ね同意であったが、しかしクリスの理路整然とした反論に打ち負かされる大の大人の姿はあまり見たいものではない。リーに至っては「バカは嫌いだ」の一言で評価が下されてしまっているのだから実に哀れだ。三十分間もの時間をアリが大人しくしていられるのは、日頃の同情の念も強く影響しているに違いない。
とはいえ、アリがかの教師に対して妥協を許すのは単に相手がファイターではないからだ。同じ土俵に立つのなら、年上のプライドなどを気にしてやる必要は全くないと思っている。むしろ子ども相手と侮ってくるような奴をこそ、立ち直れないくらいけちょんけちょんに打ち負かしてやるべきとさえ考えていた。この気持ちについてはクリスやリーも同様であろう。この国のファイターにSITジニアスの実力を知らない者は少ないが、それでもどういうわけだか、自分ならば絶対負けるわけがないと思いこんでしまう者はいるのだ。
ファイトに絶対などはない。このSITのトップに立つクリスでさえ、決して慢心することなく常に張りつめた態度でファイトに臨むというのに。
と、アリのその思考をまるで見透かしたようなタイミングで、何者かが「おい、クリストファー」と声を張り上げた。昼過ぎの食堂には人が多い。呼ばれたクリスはきょろきょろと視線を動かして、声のぬしを見つけだすと「なんだい」と静かな声で返した。アリとリーは目を合わせ、どちらからともなく嘆息する。またか、と思う。
「俺と勝負しろ、クリストファー・ロウ!」
そう声高に宣言するのは見慣れぬ顔の生徒だ。自信に満ちた表情は明らかにクリスを下に見ていて、この学園に在籍するものにしては珍しい。途中編入の留学生といった所だろうか。
「相手する必要ないぞ、クリス」
「いや、良いよ。これだけ大勢の前なんだから、受けて立たなきゃ失礼だ」
あからさまな不機嫌を含んだリーの言葉にやんわりとした口調でそう返し、クリスは席を立った。そうこなくては、というふうに相手の生徒はふんぞり返る。アリは心底あきれ果てた。まあ、SITに入学出来たのだ。ある程度の腕前は期待していいはずと信じよう。
日本大会を終えてシンガポールに戻ってきて以来、どうにもああいう手合いが増えていた。学内では誰の追随も許すことのなかったクリストファー・ロウが、日本のファイターに敗北して帰ってきたのだ。己もあとに続こうと考える者が現れるのも不思議ではない。なによりクリス自身の態度が、以前に比べて軟化していた。弱気になっている、と捉える者も少なくはなかった。
むろん、弱気になっているなどとんでもない話で、最近のクリスはむしろいきいきとしてファイトを楽しんでいる。おかげでどんな相手からの挑戦もああやってすんなり受け入れて、ひとりひとりを恐るべき集中力でもって迎え撃ち、完膚なきまでに叩きのめし続けていた。そのようすがまったく気負ったふうでなく、楽しげでさえあることは良い傾向と思えるのだが。
見知らぬ生徒とクリスとのファイトを遠目に眺めていると、隣でリーが盛大なため息をつくのが聞こえた。アリは苦笑する。彼らのファイトに引き寄せられるようにわらわらと人が集まって、次は俺と、その次は私と、と声が上がりはじめていた。クリスはそれら全てを受けるだろう。ため息も出ようというものだ。
もちろんアリとリーにも声はかかるのだが、何せリーの機嫌が大変に悪い。触らぬ神がどうとかいう諺が日本にあるがまさにその通りで、そっと避けるのが得策であることを周囲はすぐさま察してくれた。ありがたい限りである。
リーの眉根がどんどんと寄ってゆく理由は明白で、どうやら今日の挑戦者の中にクリスの才能を百パーセント引き出してくれそうなファイターが見あたらないためだ。優秀なるSITの在学生の中にはクリスを相手にしても良い勝負を見せる者が決して少なくはなかったが、初戦の留学生を封切りに面白味に欠けたファイトが続いている。素早く結果が出てよいことだと前向きに考えることも可能だが、『オレたちのリーダー』がわざわざ相手をするには少々役者不足と思わざるを得ない。
「もういっそのことお前が行ってくれば? クリスのやつ、きっと喜ぶぜ」
あまりに剣呑なオーラを放つリーに、アリは冗談混じりにそう言った。半分くらいは本気の発言だったのだが、リーはいよいよ気分を害したふうに、
「見せ物じゃない」
と低く言った。そのあまりに断片的な言葉の中に、しかし途方もなく強い気持ちを感じ取り、アリは素直に反省した。彼がクリスへと抱える多大な羨望とコンプレックスを知らないわけではないというのに、完璧な失言であった。
けれどアリが謝罪を告げようとしたその瞬間、ふとリーの顔つきが変わった。同時に、クリスを取り囲んだ人の輪がわずかにざわめく。なにかが起きたのは明白で、アリは慌ててそちらを見やった。先ほどまでのファイトはクリスの圧勝で幕を下ろし、つぎの挑戦者が名乗りを上げたようだった。
その人物には見覚えがある。本人の人柄と相反する赤色のコートはよく目立ち、遠目にも彼の存在を際だたせていた。
光定ケンジだ。
その場の空気が変わったのが見て取れた。シンガポール大会でクリスに大敗を喫した男がSITに留学してきたというだけでも話題に事欠かないというのに、ここにきてこの人混みの中で名乗りをあげたのだ。どうせまた負けるのに、と鼻で笑う者もいれば、或いは今度こそと期待を向ける者もあった。どちらにせよ衆目を集める一戦であることは間違いなく、誰もが固唾をのんで、世界レベルのファイターふたりが対峙するさまを見つめていた。
光定自身の緊張も透けて見える中、しかし、クリスの放ったひとことは、実にそっけないものだった。
「悪いけど、今日はもう疲れたからおしまい。また今度ね、光定」
それだけ言ってくるりときびすを返す。先ほどまでの友好的な表情から一転、ほとんど冷たいと言っていいくらいの態度であった。観衆はもちろん、光定自身もぽかんとしている。クリスはその視線の中を涼しい顔で抜け出して、少し離れた場所で見守るアリとリーのもとへと戻ってきた。
「やあ、待たせたね」
待たせたねではない。
「……お前さぁ」
「? ああ、すまない。なんなら先に戻っていてくれてよかったのに」
「いや、そうじゃなくって……」
取り残された光定へそっと視線をやると、遠目にも見ていられないほどの哀愁を漂わせているのが分かる。思わず言い淀んだアリに、クリスは少し困ったふうに笑んでみせた。そろそろ行こうか、と率先して食堂をあとにする。
「だって、勿体ないじゃないか」
中庭を横切りながら、クリスはそんなことを言ってみせた。
「勿体ない?」
「ああ」クリスは微笑んで首肯し、それから、僅かに言葉を探すふうに視線を彷徨わせた。どことなく遠い眼差しを見せつつ、だって光定は泣いていたんだ、と静かな声で言う。
「そういう相手とのファイトはね、大事にしようと思って」
言って少し照れくさそうに笑う。その言葉の意味をアリは理解していた。つい先ほど咎められたばかりのシンガポール大会、クリストファー・ロウと光定ケンジのファイトはクリスの圧勝で幕を閉じたが、その敗北に彼は悔し涙を見せていた。すぐさま背を向けてしまったクリスにそれを目撃するすべはなかったはずだが、しかし映像で確認することは出来る。あるいは、その姿をきちんと見届けなかった己を悔やむ気持ちもあるのかもしれない。あの時のクリスは、対戦相手と真摯に向き合っているとは言い難い状態だった。
『見せ物じゃない』と、つい先ほど言い放ったばかりのリーは、アリ以上にクリスの気持ちを理解出来たのだろう。彼は見るからに不機嫌そうに眉を寄せ、ふうん、と刺々しい口調で相槌を打つ。アリは思わず苦笑した。この世の大抵の人間と異なる態度を見せるリーのことを、アリが好ましく感じ取るのと同じように、クリスはクリスで、光定の熱意を肯定的に見ている。ただそれだけのことだと分かっていても、なんとなく面白くない気持ちになるのはアリとて同じだった。クリスは案外と罪つくりな男なのである。
そんな思いを、けれど巧妙に隠しながら、アリは軽い口調で問うた。「じゃ、光定のリベンジの機会はまだまだ先ってことか」
かわいそうに、とからかうように言ってやると、しかしクリスはきょとんと目を丸めてみせた。はたしてなにを言われたのだか分からない、といったふうな表情を浮かべてみせてから、一拍置いて、ああ、と微かに頬を綻ばせる。
「リベンジなんてさせるつもりはないよ。いずれ相手はするけれど、その時も必ず、僕が勝つ」
SITのトップはこの僕だからね、と言い放ったクリスの表情は、じつに清々しく輝いて見えた。その笑顔を真正面から受け止めて、アリとリーは並んで言葉を失ったが、しかしそうだ、クリスはもとよりこういう性格なのだ。
ただ、なんだか本当に、気持ちが良いくらいよく笑うようになった。ただそれだけだ。
十二歳の無邪気さを湛えながら、SITの王者として君臨するクリスの姿は以前に増して頼もしく感じられた。ご機嫌なクリスの背を追いつつ、アリとリーはなんとはなしに互いの顔つきを見やって含み笑う。
笑顔が増えたのはクリスだけではなく、リーも、もちろんアリ自身も、きっとおんなじなのだ。それが普通であることが嬉しいのだ。
ふと振り返ったクリスが首を傾げ、「どうしたんだい、ふたりとも」と問いかける。怪訝そうな顔で、なにを揃ってニヤニヤしているのだ、と彼はどこか拗ねたようなようすさえ見せて言った。
さて、余談だが、翌日に偶然光定ケンジと顔を合わせた。
ひどくしょんぼりとした声音で「僕はクリスくんに嫌われているのかな……」などと的外れなことを言い出した彼に、アリは少々同情しかけたが、わざわざ真相を教えてやるのも癪であった為、
「さあ、少なくともリーはあんたのこと嫌いみたいだけど」
と、言っておいてやった。極端な物言いだが嘘はついていない。
光定は大げさなくらいに情けない顔をしたが、クリスに挑戦しようと考えるのなら、この程度でめげていては話にならないのだ。アリはひそかに苦笑いを浮かべ、自身よりはるかに大きな後輩の背をぽんぽんと軽く叩いてやった。
がんばれよ、という気持ちを込めてみたものの、とうの光定はというと、なにやらよくわからないといったような複雑な顔をしていた。